鬼に愛されながら、妖の身で人間へと恋をする
春風悠里
妖と人間の恋物語
「今年も誰かは来てくれるかしら」
「ああ、きっと来る。お前の美しさに恐れをなして逃げてくれるさ」
「……姿を見せるつもりはないわ」
季節が巡り、今宵も行われる灯籠流し。
優しい光を人の魂のように放ちながら、揺れて流れていく。
田舎だから参加者も多くはない。
私たちがすぐ脇の森の中で人間を驚かせたところで、大して問題にもならない。
――人ならざる者がいても、おかしくはないほどに寂れた
私は
祀られているお陰で何十年か前までは何もせずにいられた。最近は信心を持つ若者が減って、たまに軽い悪戯くらいはしないと……いてもたってもいられない。
長い鮮やかな赤の髪が風にたなびく。
人間に姿が見えていたのなら、森の中にいても目立ったことだろう。
「今を生きる彼らには見えない私たちに、現世の風はなぜ優しく触れていくのかしら」
「俺が風でも、お前に触れたくなるさ」
「……その手の言葉は、もう聞き飽きたわ」
「愛しているんだよ、
私の名は紅羽。
なぜそんな名なのか……長く生きすぎてもう分からない。誰がつけたのかも何もかも。
私を愛していると言う彼は鬼の血を引いている。青い角と髪、青の瞳、彼の扱う炎もまた青い。その炎で何もかも焼き尽くす能力を持ってはいるはずだけれど、見たことはない。
見た目だけは涼やかなその色で、周囲を優しく照らしてくれることがあるだけだ。
名は恭介。違う名だったこともあるらしいけれど、今風に変えたと言っていた。長くは生きているものの、知り合ったのはほんの数十年前のこと。前の名は……知らない。
「あ、人間が来たわよ、恭介」
「そうだな、意味もなく隠れるか」
「そうね、意味もなく隠れましょう」
どうせ人間には姿など見えない。それでも見つかりたくない時に隠れるのは、人の世の影響か……。
「この辺りね、心霊スポット!」
女の子に腕を掴まれて、背は高いけれど線の細い青年がこちらへ来る。
見覚えがあるわね……いつも中学校の制服のまま神社にお詣りに来る人間の若い男だ。
「よくはないと思うよ。そーゆーのを楽しむのはさ」
「せっかく来たんだから、オカルト系の土産話も持って帰りたいじゃない」
「俺はここに住んでいるんだよ? そっとしておきたい。何かがいたとしても」
「そうかもしれないけど、怖いからついてきて」
「それなら来なきゃいいのに……」
……恋人同士ではないのかしら。関係性はよく分からない。
彼らの方向へ手をかざした。
赤い魂のような光を宙に放つ。
ふわりふわり、ゆらゆらと。
なんの導きもなく、ただそこかしこに。
赤い彼岸花のように、静寂の中で咲き誇る無数の光。
「な……なにこ……れ……い、いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
耳をつんざくような叫び声をあげて、女の子が走って逃げていった。
んっふふ、気分がいいわね。
怖いものを見に来たくせに根性がないわ。
でも……青年の方は逃げないのね。地元の子だからかしら。
禍津神の力を行使して、
災いを求めるか 人の子よ
死者の魂のための この送り火の日に
禍津神の怒りを買うのが ご所望か
隠してやろうか 人の子よ
神の御業を 見せてやろうか
おどろおどろしく語りかける。
「……神の御業は、神隠しに遭いたい人間には脅しになりませんよ」
私の声を辿ったようにして、彼が目の前に立った。なぜか視線が合うように感じる。
「これは……なんて美しい禍津神だ……」
……え。私の姿が見えるの?
待って待ってどうしよう。かなり霊感が強い子だったの。こんなこと初めてなんだけど。
すぐ後ろにいたはずの恭介はいつの間にか消えている。
……私を愛しているとか言いながら、肝心な時に逃げないでほしいわ。
「俺をどこに隠してくれるんですか、禍津神。痛くないように、そっとお願いしたい」
「……死にたいのか、人の子よ」
「神の赤に眠らされるのなら、目覚めを忘れてもいい」
「赤の炎に焼かれ、消し炭になってもいいと?」
「神の記憶に残るのなら、存在など消えても構わないですよ」
「数百年も生きるこの私が、ちっぽけな人間の記憶など持ち続けられはしないわ」
「まだ若い神か。人間の歴史よりもずっと浅い。あなたの記憶に少しの間でも残るのなら、よしとしましょう」
どうしよう……振り払えないわ……。
神隠しをするほどの力は、私にはないのだけど……。
「……神社によくお詣りに来ているわね。願い事があったのではないの? 現世に未練があるのなら、もう行きなさい」
「見てくれていたんですか……。俺はあなたに災いを求めていました。俺の存在を消すような災厄を我が身にと――、縋っていたんです」
そう言って、彼は私の目の前で跪いた。
「俺の名は、石崎
「死にゆく人に呼び名の意味はあるのかしら。私の名は紅羽、
「許されるのなら名を伝え、名を知ってから隠されたかった。あなたは優しい禍津神だ。さぁ、俺に災いをお与えください」
「……神隠しがあなたにとって災いでないのなら、意味がないわ。あなたのいるべき場所に戻してあげるのが与えるべき災いというもの」
「守人と呼んでほしい、紅羽」
「……っ。守人、戻りなさい。あちらの世界へ」
「あなたは力を持たないのですか。神隠しをする力を」
なぜこの青年に追い詰められているように感じるのだろう。死にたがりのちっぽけな人間に、この私が……。
「なぜ、そのように思うの?」
「鬱陶しいと感じられているだろう俺を、未だ隠していないからですよ。これからもお詣りに行きましょう。力が戻ったらいつでも隠してください。俺に手伝えることがあるのなら、なんでもしますよ」
丁寧語のわりには……話し方が気楽になっている。力のない神だと思われたからかしら。
「……祀られているから、そこまでの力はないのよ。信心を持つ人々が減って、こうして人を驚かせないと気が済まなくなっているだけ。神社を壊せば……また違うかもしれないけれど」
あの神社が建てられた当時の禍津神は、私ではない。その存在が消えて、代わりの
大きな力を持っていたことは……私自身はない。
「こんなにお美しいあなたを祀る神社を壊すことなど、俺にはできない」
そう言って、彼は立ち上がった。
「あなたの言うちっぽけな人間に本当のことを教えていただいた禍津神、紅羽。俺はあなたを好きになってしまった。憐れな人間に慈悲を。また俺と会話をしてほしい」
「そ……れは……」
「絶えることのない時の流れの中で、ほんのわずかな暇潰しを俺と。人間の中身に興味があるのなら、バラしてくれてもいいですよ」
「……そんな趣味はないわ、人間」
「守人、と」
これからも変化のない永い時の中、この世に在り続けなければならない。
妖と話せる珍しい人間と、少しの時を過ごすのも……。
「気が向いたら現れてあげるわ、守人。あなたの前に」
「約束ですよ。それだけを楽しみに、しばらくは生きてみます」
彼が私の手をとった。感じたことのない温かい体温。妖に触れられるほどの霊感――、
きっと彼は、長く生きられない。
「……いい人生を」
つい、そう呟いてしまった。
私に縋る彼だったから。
「あなたの災いを、俺に」
そう言って守人は、手の甲に口づけて立ち去っていった。
* * *
「気に入ったのか」
「……上手く逃げたわね」
彼が完全に立ち去ってから、恭介が隣に現れた。
「お前が話したそうだったからな」
「ずいぶんと包容力のある愛だこと」
「炭にしてやった方がよかったか?」
「やめて。また……会いたくなったわ」
「そうか」
この鬼の語る愛に、あまり中身は感じない。
愛することに興味があるだけで、本当は愛していないんじゃないかとも思う。
――どうでもいいことだ。
好きにさせるだけ。
側に誰かがいる方が退屈は紛れる。
「止めないの?」
「好きにしたらいい。俺たちは妖。この世界に飽きて消えることを望んでしまえば消滅する。お前を永遠に失わないために、人間の男という刺激があってもいい。どうせわずかな年数しか生きられない」
「……そう」
死にたがりの人間を思い出す。
死にたがるということは生きているということ。辛いと思える日常が……変化があるということ。
ただこの場所に留まるだけで何も生み出せない私たちとは違う、死にたがるほどの絶望という名の命の輝きがあるということ。
「彼のところへ……行くわ」
「ああ、お前の帰る場所は俺だ。それだけは忘れるなよ」
そう言って、恭介も立ち去った。
しばらくの間、姿を見せないつもりかもしれない。
――私が人間の彼に飽きるまで。
* * *
「こんばんは」
守人の部屋へ、壁をすり抜けて入る。
物に対しては意識すればすり抜けられるし、普段は触れることもできる。
「紅羽! まさかこんなに早く会えるなんて」
「気配を辿っただけ、そして暇だっただけよ」
彼の部屋を見回す。
本棚には勉強関係の本ばかり……医学書も多いわね。
「受験勉強が嫌で、隠されたくなったの?」
くすりと笑って、馬鹿にする。
「ああ、ガキっぽいだろう? この村には医者がいない。頭のいい俺は今から期待されて……この村の、坂を下った遠い先にある進学校へ行くように言われている。伯母の家に住み込んで通うことも既に決定しているんだ。俺の希望を聞かれたことは、一度もない」
「……そう。体調は? その霊感、負担は大きいはずよ」
「ああ、よく熱を出す。変なものもよく見るし、騙し騙しだよ」
やっぱりそうなのね……。
死因は過労死あたりにされて、若くして死にそうだ。実際は、人の身には重すぎる霊感のせいね。
「丁寧に話すのはやめたの?」
「紅羽が望むのなら。その方が会いに来てくれるかなと思って、あの時はそうしただけだよ。でも、せっかく来てくれたのなら仲よくなりたい」
「わざわざ妖となんて……友達はいないの? あの時の彼女は?」
「勉強の時間が削られるって親が追い払うんだ。誰とも遊べない。あの子は伯母の子だ。昔はこっちに住んでいて、お祭りの日だけ遊びに来る。いずれ伯母の家に世話になることが決まっているから、俺が祭に付き合うことを認められているだけだよ」
「……そう」
なかなか厄介なご両親をお持ちのようね。
「ずっと、話し相手がほしかった」
彼が私の両手をとる。
「紅羽……、あなたは俺の希望だ」
「……たまにしか来れないわ。特定の人間の側にいすぎると、私の影響で災いが降りかかるかもしれない」
「悪いことが起きても紅羽の影響だと思えるなら幸せだ。できる限り会いに来て。待っているから。そしていつか……、俺に最高の災いを」
歪んでいるわね。
人間らしく、歪んでいる。
災いを起こさせないために私は祀られているのに……私の力を必要とされることに嬉しくなる。求められていることに、心が熱くなる。
偽物の心臓が高鳴ってしまう。
――その力を使えたのなら、彼が望むのは神隠し……その身を消すことなのに。
* * *
神社の鳥居の前に佇む守人に声をかける。
「どうして、ここに立っているの?」
少しだけ妖の身である自分が憎らしい。
私には家がないから電話もないし……連絡をとりあったりはできない。この場所は私の一部でもあるから彼がここに来た時には分かるけれど、すぐに来れるわけではない。
待ちくたびれて彼が帰らなくてよかったと、ほっとする。
「紅羽に贈り物をしたくて」
「贈り物?」
「ああ」
彼が鞄の中からそれを取り出した。
鮮やかな赤の巾着袋には椿が描かれている。
「紅羽に似合うかなって」
丁寧な手つきで紐をほどき、中に入っていた赤い菊のかんざしを私に手渡した。
「赤が好きなの?」
「紅羽の燃えるようなその赤に、魅入られてしまったから」
妖に魅入られてしまった男の行く末は、幸か不幸か……。
髪の上半分をねじりあげて巻いて、手渡されたそれを挿し込んだ。きっともう、他の人間の目にこれは見えない。
「どう?」
「やっぱり……綺麗だ。この袋も受け取って」
赤は、人間の中にどくどくと流れている血の色。生きているとは言えない私が赤に彩られていくのは不思議な気分ね。
私も血を流そうと思えば流せるけれど、それはただの偽物で……数刻の後に消えてなくなる。人間の目には最初から存在すらしないけれど。
「ありがとう、もらっていくわ。なぜ鳥居の外で待っていたの?」
「祈りもなしに不浄な人間が中にいるのはよくないかと思って」
「私は人の穢れから生まれているのよ」
くすくすと笑う私に、他の何も目に入っていないような顔をして彼が私の髪をわずかにすくい取る。
「悪いことをしている気分になる。俺が紅羽の場所に足を踏み入れていいのかと。この美しさを知ってしまった俺は、こうしているだけで罪人になった気分だ」
――憐れな罪人に災厄を。
そんな声でも聞こえてきそうな顔をしている。
「よく買えたわね」
彼の両親は厳しかったはず。
「町まで出ることは許されている。参考書を買うためならね。小遣いはもらっているしお釣りも貯めてはいるけど……たまに部屋の中は確認される。だから直接持ってきたんだ」
「……そう」
人間から直接贈り物を手渡されるのは初めてだ。
特別な……感じがする。
「その巾着に入る贈り物を、これからも渡していいかな」
私には家がない。
神社は……誰にでも入れてしまう。
持ち歩けるものを――、そういうこと?
まさか人間に、私の行動を決められてしまうなんて……。
「いいわよ、もらってあげる」
永い永い時の中……ちっぽけな存在に左右されながら過ごすのも、また楽しきこと。
* * *
守人とは、あれからも定期的に何度も会った。
そして……本当によく何かをくれる。
小さな正方形の和紙をもらった時には、一緒に鶴を折った。交換して一つは巾着袋の中に。
線香の香りは結構好きだなんて話をしたら、色んな匂いのする線香も数本ずつくれるようになった。
彼が望んだように、いつも私はそれらを身につけるか巾着袋に入れて持ち歩くかしていた。
「紅羽……好きなんだ。君といられれば他には何もいらない。俺と付き合ってくれないか」
神社の高台の村を見下ろせるその場所で、彼が私を見つめる。
「禍津神に愛の告白? あなたは本当に酔狂な人間ね、守人」
彼が、懐から何かを取り出した。
それが何かは見当がついている。露天で買ったという安っぽい指輪をはめたことがあるからだ。指のサイズを測るためだとは思っていた。
彼は……本当によく私に貢ぐ。
「紅玉の指輪だ。紅羽に似合うと思って」
紅玉……ルビーね。
「ずいぶんと奮発したわね」
「受験も終わったし、パーッとね。一緒についてきてほしい」
「……指輪は受け取るわ。返事は……少しだけ待って」
「分かった」
彼がはめるのは、私の左手の薬指。
「守人と結婚はできないわよ?」
悪戯っぽく挑発するように言ってみる。
なにせ、私の姿は彼以外の人間には見えない。
「ごっこでいいんだ、ごっこで」
彼も悲しむ様子もなく、笑ってくれる。
当然だ。
最初から分かっていた。
私たちの間に、未来なんてないって。
* * *
神社の階段に座りながらぼーっとしていると、久しぶりに恭介が現れた。
「……行くのか」
「冗談言わないで。ここが今まで以上に寂れるわ」
祀る相手が不在になれば、人々の意識にはのぼりにくくなる。神主もいない。祭事の時のみ、兼務している神主が出張してくれるだけだ。
ただ、すぐに断るのは忍びなくて少し時間をおこうと思っただけ。
「力の強い妖がいれば、少しの間ならそこまでは寂れない」
「……あなたが、ここにいてくれるって?」
嘘でしょう。帰ってくるかも分からない私を、一人きりで待つの?
他の……人間の男といる私を。
「ああ、待っていよう」
「そこまで私を愛しているとは知らなかったわ」
「言ったはずだ。お前の帰る場所は俺だ、と」
「…………」
理解できないわね……本当に私を好きなら見送れないはずで……それに待てないはず。
「意味が分からないわ」
「お前の価値観で俺をはかるな」
「ここで待ってくれるというのなら、本当に三年間いなくなるわよ。いいの?」
「三年でいいのか?」
「ええ、きっかり三年」
「分かった」
そう言って、また彼は姿を消した。
次に会うのは――……三年後かもしれない。
* * *
「条件付きで、恋人になってあげるわ」
町で買い物を終えて公園のベンチに座る彼の隣に、いきなり現れる。
「驚いたな。こんなところに現れるなんて」
「つけていたのよ」
「全然気付かなかった」
「気付かれないようにしていたもの」
目の前には、さらさらと人工的な川が流れている。桜は咲いているものの、まだ冬の寒さが残り、私はあまり温度を感じないけれど空気が少し冷えているのは分かる。
「条件って?」
「三年後に別れること。私とは、それ以降もう会わないこと。友達もつくって、いつかあなたに似合いのお嫁さんをもらって、いい人生を送ること」
「……俺の寿命、そう長くはないと思うけど。身体も弱い」
「それは……三年後に私がなんとかしてあげるわ」
「俺を隠してくれるって?」
「今は無理だけど、違う方法で解決できるわ。禍津神をなめないで?」
「ああそうだった、神だった。分かった、受け入れるよ」
「約束よ」
「恋人になれるなら、なんだって受け入れる」
目先の欲につられて深く考えていないわね。……人間らしい。長く生きられないと思っているからこそ、数年後の自分はどうでもいいのね。
とても……好都合だこと。
「それなら、今日から恋人ね。月に一度しか会わないわ。災いは……降らせない」
「それは変わらずか……。ねぇ、一度キスしてみたかったんだ。そうして死ねるのなら本望だとも思っていた。しても……いいかな」
「ええ、恋人だもの。どうぞ好きなだけ。ただし、その度に心に誓ってちょうだい。私たちは期間限定の恋人。必ず――、別れるわ」
「分かった……約束するよ」
人間の肌は温かく、その唇の熱に私も生きているような錯覚に陥る。感じることはないと思っていた生の輝きに、キスを交わすたびに強く惹かれていく。
未来がないと最初から分かっていた関係。
だから彼も、あっけなく受け入れたのかもしれない。
* * *
私たちは、期間限定の恋人関係を楽しんだ。
彼と一緒に、公園の手漕ぎボートに乗った。
オールの扱いが下手で思ったように進まない彼は、照れくさそうに「上手くできるまで付き合ってくれるかな」なんて笑っていた。
ガラ空きの映画館で、隣にも座った。
手をつないで一緒に泣いて、一緒に笑った。彼が手に持つジュースのストローに口をつけて、飲む真似をした。
図書館で、彼がページを開くのを待ちながら一緒に本も読んだ。
私がまだ読んでいないかとチラチラ気にする彼に、トントンと指で手をつついてページをめくってもいいよと知らせた。
机に置いて育てたいと言う小さなサボテンを、視線だけでお互いに選んでよと譲り合った。
彼は大学の医学部に合格し――、しだれ桜の下に佇む彼の隣に私は並んだ。
この場所を、一生懸命彼が探していたことを私は知っている。人の……いない場所。
長い長い桜並木が近くにあり、人々はそこへ向かう。錆びついた遊具、伸びっぱなしの膝に届きそうなほどの雑草。誰からも忘れられたこの公園は、桜の木がそこにあるだけで郷愁を感じさせる。
「本当に……行ってしまうの? 紅羽」
「合格したのだから、もっと嬉しそうな顔をしなさいよ」
「喜べない。俺は今だって紅羽に隠されたい」
ざぁと風が吹いて、桜が散っていく。
「私のいない世界で、幸せに。それが私の最後の願い」
「そんなのおかしいだろう!!!」
彼が絶叫した。
「禍津神は災いを与えるんだろう!? 幸せなんて祈るなよ! 隣にいられれば幸せだった。次もまた会えるって思ったから頑張れた。格好悪い俺なんて見せたくなかったから、やりたくもない勉強だって頑張った。友達だってつくった。紅羽に心配されたくなかったから。全部全部、紅羽のためだったんだ。隣で笑ってもらえていたら、それだけで幸せだったんだ。それしか……それしかないんだよ、俺には……紅羽……紅羽しか……愛しているんだよ……」
「私も愛しているわ、守人」
「あと一年でいい。厄災がどれだけ降りかかってもいい。側に、もっと側に……、月に一度なんかじゃなくて……」
「おしまいよ、守人」
涙で濡れた彼の頬を、両手で包み込む。
「ねぇ守人。最高の災いをあなたにあげるわ」
「紅……羽……?」
「あなた限定の、あなただけへの特別な災い。守人がそれを災いだと思ってくれるのなら、私は力を行使できる」
あの神社はやはり少しは荒廃したようで……私の持つ力も、あの時よりは強い。
「あなたの霊感、私が全て奪ってあげる」
「――――!」
「健康な身体で、長く生きていけるわ」
「そ……んな……それだけはやめてくれ! 紅羽、頼む……それだけは……っ。命だって捧げる、なんだってする……っ、だからそれだけは……頼むから……っ」
「愛しているわ、守人。いい人生を」
最後のキスは甘く、無数の桃色の花びらに囲まれて――、
「紅羽ぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
終わったあとにはもう、誰もいない。
――禍津神を見える人間は、誰も。
* * *
「戻ってきたのか」
「三年で戻ると言ったでしょう」
宵の口、灯籠代わりに浮かせておいた赤い光の下、草の生い茂る神社の階段に前と同じように恭介が座る。
「悪い、少しは荒廃した」
「私がいないんだもの。これだけで済んで助かったわ。ありがとう」
「気は済んだか?」
「ええ、霊感を奪ってきたわ」
「それくらいにはここも荒れたか……」
「これでよかったの。私がいれば、またいつか戻るでしょう」
「そうかもな」
村の様子を見た限り、若者が前よりも減っていた。元には……戻らないかもしれない。神社の管理をする村人もきっと高齢だ。だから恭介の返事も曖昧なのだろう。
「ここでいずれ開業医をするつもりのようだけど……どうなるのかしらね」
持っていた手紙をたたんで、巾着袋に入れる。
それは彼からの最後の手紙だ。
私の姿も見えず声も聞こえなくなった守人が、私宛に書いた手紙。翌日彼の様子を見に部屋に入ったらポンと机の上に置いてあって……私はそれを持ってここへ帰ってきた。
必ずここに医者として戻ってくると書かれていた。子々孫々と、信心を忘れずに私を祀り続けると。
私の願いを――……、必ず叶えると。
「……他の男のために泣く私に、何も思わないの?」
「存在し続けるためには必要なことだ。人間の男となら何度でも」
「……妖の男なら?」
「いつの間にか、存在ごと消えているはずだ。炭も残らず青い炎で全てを焼かれて消滅する。それが分かっているから、俺が側にいる限り誰もお前に近づきはしない」
「――え。そんな状況にあったの、私」
「気付いていなかったのか」
他の妖の男とは、知り合えそうにないわね……。
「なぁ紅羽。この村が寂れて住人もいなくなって、神社も取り壊される日が来たら――」
「……私の好きだった人間の男が、その未来を阻止しようとしているんだけど」
「そうしたら、妖の学校に行こうか」
「何それ……」
「お前がいない間、昔の知り合いが訪ねてきたんだ。行き場を失った妖たちが、廃校で学校ごっこをしているとさ」
「のんきな話ね……」
「この村もいずれ消えると思って、教えに来てくれた」
「私にとっては絶望の未来ね」
それでも、そんな日がいつか来てしまうかもしれない。
「あの人間にとってはお前との別れが絶望で、お前にとってはその未来が絶望か。でも、あいつにはいい人生が、俺たちには妖だけの学校ごっこが待っているかもしれない」
左手の薬指にはめていた指輪を、右手へとはめ直す。
「永きを生きる間に記憶は薄れ、その指輪をはめている理由もいずれ忘れる」
「……ぞっとしないわね」
「それくらいに遠い先でいい。人間のような心を持つお前が好きだ。いつか人の子のように俺を愛してくれ」
時は巡りて禍福も廻る。
これからも、鬼と共に――。
* * *
彼と似た気配を感じて神社に来た。
恭介は隣にいたはずだけれど、いつの間にか姿を消している。
ミンミンと蝉の鳴き声がうるさい。
そこには、中学生くらいのポニーテールの女の子が悲痛な顔で拝殿の前に跪いて拝んでいた。
「お願いします。声を聞かせてください。守人おじいちゃんの話を聞いてください」
少し時間が経つと汗をポタポタと落としながら、また同じことを繰り返す。
守人に……何か言われたのかもしれない。
巾着袋からそっと折り紙の鶴を取り出して、彼女の前に置いた。
「え……? あれ、これは……?」
キョロキョロと周りを見渡して誰もいないのを確認すると、彼女は目を潤ませて話し始めた。
「おじいちゃんの言っていたことは、本当だったんですね……。私の話をお願いします、聞いてください。おじいちゃんは脳梗塞で半身麻痺になって、もうここには来られません。リハビリ施設から数ヶ月後には退院します。この土地は手放して、もっと福祉のサポートのある地域に引っ越してもらおうと思っています。おじいちゃんは約束を守れなくなってしまうと葛藤しています。大好きだった人がいるとおばあちゃんにも言えなくて、一人で苦しんでいました。話しだしたら涙が止まらなくなるからと、私にだけ教えてくれたんです。無理矢理聞き出したような感じでしたが……私の名前が
守人がここで開業医を始めたのは、あれから少し時間が経っていた。やはり大学病院などで修行する期間が必要だったからだ。そうしながら看護師さんと結婚したようだ。
ここで診療所を開設し、村おこしにも積極的に取り組んでくれていた。
長女はこの村の男性と結婚したものの、町に引っ越して二人で再就職をしたようだ。長男は医学の道を進み、いずれ守人の跡を継いでくれるときっと信じていたはず。
この子は長男の娘かな……入院していると言うのなら、両親と守人の自宅に何かを取りに来たのかもしれない。
私の思いを本当は紙にしたためたいけれど……私が字を書くと、この体に流れる血のように消えてしまう。
禍津神の力を……使うしかないか。
言の葉をまた、辺りに響かせる。
人の子よ 最初で最後の
「――――!」
彼女が口に手をやり……しばらく呆然としたあとに、慌てて持っていた鞄の中から筆記具を取り出した。
ゆっくりと言葉を放つ。
人として生きてくれたことを 感謝する
この地が朽ちても 妖の郷が私を待つ
滅びだけではない未来が そこにある
眩しいほどの輝きは いずれ消えるからこそ
命の終わりは 長きを共にした者の側で迎えよ
彼女の目から涙がこぼれていく。
彼と似たような華奢な体。優しそうな顔。
もう少し……私の言葉で……。
『お願いを叶えてくれてありがとう。最後まで幸せに。人間らしく、あがき苦しんで寿命が尽きるまで生きなさい』
人は老いていく。
自分の力だけでは望みも叶えられなくなり……。人の介助がなければ――、生きてさえいけなくなる。
『あなたにも、もう会わないわ。禍津神の災厄が降りかかる。神隠し……あなたは望んでいないものね?』
くすくすと笑うと、少し恐怖を感じたようだ。
慌てて筆記具を片付け始めた。
『その鶴を渡せば、守人は信じるわ』
彼女は何度もお礼を言うと、走り去って行った。
私が折ったその鶴は青い。交換したけれど……彼が今も持っているかどうかは分からない。
彼が折ったその鶴は紅い。さっきの彼女が持って行って……あの鶴の隣に置いてくれればと思う。
私の名は紅羽。
私と同じ飛べない羽を持つはずの紅の折り鶴は、私の手を離れて飛んでいってしまった。
……私はもう、そこには行けない。
人は老いる。
私は老いない……けれど村は寂れていく。
「いつかは消えてなくなるのかしらね……」
いつの間にか現れた恭介の方を見ることもなく呟く。
「そうしたら、最強の妖カップルの誕生だな」
「……もう少し感傷に浸らせて」
私の力は強くなっている。
ただの灯りにすぎなかった赤の炎も、今はきっと山火事すらおこせてしまう。
妖だけの学校ごっこをする日も……近いのかしらね。
なんとなく、彼の高校の制服を思い出した。
白い制服が輝いて見えて、その袖から覗く長い手足に少しドキリとした。
人の命は短い。
だからこそ……私も魅入られてしまう。
「恭介は人間には魅入られないの? 妖に刺激は必要なんでしょう? いいわよ、好きなだけ人間の女を観察してきても。別に私、嫉妬もしないし恋人でもないもの。妖の姿が見える女性を探してもいいのよ」
「……これだけ一緒にいて、まるで俺の愛が伝わっていないことに絶望したよ」
あら……今まで見たことのないくらいの落ち込み方をしているわね。
「変化が少しだけほしくなってきたな……」
「そう……変化……高校の制服……とかかしら」
「え、なんだそれ。着てくれるのか!?」
え……今度は今まで見たことのないくらいの輝いた顔をしているわね。
「次に妖の姿が見えて学校の制服を買ってくれると言う奇特な人間に会えたら、頼みましょうか」
「ぐ! そんな機会あるのか……? かっぱらった方が……」
「人間の世界に無駄に迷惑はかけないわ」
人を驚かせるのは
「はぁ……その日が来るのを何百年でも待つか……」
「気の長い話ね」
もう……守人には会えない。
知らないうちに、きっと死んでしまう。
私にはそれを知るすべもない。
禍津神の血を引く妖と人間との刹那の恋は――、こうして幕を閉じた。
後日、もう会わないと言ったのに彼女が守人の家族写真を持ってきた。その写真から、私が彼に与えた禍は福となったであろうことがうかがえた。
裏に引越し先の住所が書いてあるその写真を彼女の手から抜き取った時、彼女が言った。
「二羽の折り鶴をみる度におじいちゃん涙をにじませて、結局おばあちゃんにバレたんですよ」
にこにこと笑いながら、こう続けた。
「二人からの伝言です。ありがとう、紅羽のお陰で長生きができた。子供にも孫にも恵まれた。そこにいる紅華を生み出したのは君でもあるよ」
私が……人を生み出した……?
「私に命を、ありがとうございます!」
弾けるような笑顔を残して、軽やかに彼女は立ち去った。
――どうかこの世界の全ての禍が、福とならんことを――
鬼に愛されながら、妖の身で人間へと恋をする 春風悠里 @harukazeyuuri
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