前夜

細胞国家君主

前夜

 一筋の風が吹いた。

 それから廓の上に立つ不夜番の頭に一粒二粒何かが落ちた——と思う間もなくそれは勢いを増し、みるみるうちに鈍色に塗りこめられた夜空を破って雨が降り出していた。雨はいよいよ激しく世界を穿ち、砦の壁はしとどに濡れ、無数の雫を滴らせていた。

 男はてのひらで幼い顔を拭い、水煙に包まれている焼けた平原に目を凝らした。この地平線の向こうには、同じように血の通わない肌を雨に晒した火吹き獣が、一列横隊に並んで息を潜め、夜明けを待ち構えているはずだった。非情な視線の照準を男を囲む胸壁に合わせ、圧倒的な力で小さな命ひとつさえ残さずに全てを灰に帰さんとして、来たるその時に備えている——それを思う彼の心に恐怖はなく、ただ冷たくしんと冴え返っているばかりだった。

 彼は心に星を抱いていた。ちっぽけで頼りなく、安物のおもちゃのような光でしかなかったが、これだけは確かに唯一彼だけの、そして彼自身のものだった。羅針が常に指し示す先に浮かび、求めるまま誘い続けた。

 男は光の中に彼の故郷が浮かぶのを見たが、それはもはや遠い蜃気楼に過ぎなかった。

 今日まで人間の肥大する欲望は留まるところを知らず、二本の足は進むことを求めてさまよい続けてきたが、それももう終わりだ——男は暫しの間目を閉じた——皆、かえるのだから。在った場所へ。在るべき場所へ。決して消えない故郷へ。

 彼は最後の瞬間まで醜く足掻き叫び続け、苦痛にのた打ち回ることになるだろう。けれどその先に待つのは安息であると、知っているように思った。薄れゆく視界には緑の丘が映り、体温が消える瞬間に懐かしい匂いを嗅ぐ。

 男は目を開けて、眠気を払うように軽く頭を振った。夜は長く、雨は止む気配を見せなかった。



 ふと気がつくと、耳を聾する一塊の鈍い音響が天幕の中を充たしていた。どうやら雨が降り始めたようだ。指揮官である男は読んでいた書類から顔をあげ、彼の特権である狭い一人部屋を見るともなく見回した。野営地の灯はとうに消え、起きている者といえば、大天幕の毛布の下で人知れず神経質に寝返りを打つ若者を除けば、あとは彼だけだった。

 密に織られた分厚な敷物でも防ぎきれない薄ら寒さが、男の足元から這い上り、手元を照らせるだけに絞られた火をそっと揺らした。今は小さな明かりが影の中に佇む簡易ベッドや木箱の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている、この天幕で、いったい彼は幾つの夜を過ごしたことだろう。またあるいは森の中の岩穴で、彼ら自身の手による廃墟の片隅で、手足の転がる塹壕で。

 彼は胸に星を飾っていた。ほんものの作り物である光は、やがて色褪せるものであったが、今は確かに厳然とした輝きを放っていた。これは彼の誓いであり、誇りであり、証だった。期待であり、責任であり、遺物箱だった。彼を護る盾にはなり得ず、むしろ後頭部へ突き付けた銃のように男を嵐の中へ急き立てさえしたが、たとえ雷雨にのまれてしまっても——それは男にとって喜ぶべきことだったろう——この星が生きている限りは、彼の故郷は安全であり、家族は守られていた。

 家——居心地よく誂えた書斎や、枕の上の愛おしい寝顔を思い浮かべた男はしかし、ふいにとりとめのない恐ろしさに襲われた。彼にとってよく見慣れた、揺らぐはずのない風景が、酷く薄っぺらい、現実味のないものに思えた。この風景は本物なのだろうか? もう存在せず、いまや変わり果てた姿でいるのではないか? たとえ見た目は変わらずあっても——果たしてそこは私の居場所なのだろうか?

 灯の芯はじりじりと短くなり、やがて訪れる時が刻一刻と近づくのを知らせていた。雨の音は途切れることなく響き続けた。天幕の内側を彷徨う男の視線は、地図の上の名前でしか知らない砦の濡れながら聳える姿を、はっきりと捉えた。やがて崩れ去るそれは、男には何よりも間近く存在していた。



 雨は弱まることなく降り続け、緞帳のように平原を覆ってふたりの男を隔てていた。

 しかし、西の空の端では雲が切れ、ささやかな星の光が零れ始めていた。

 夜は深く長く、しかし確実に明けようとしていた。

 あと数刻で、幕が上がる。

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前夜 細胞国家君主 @cyto-Mon

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