夕日色の君
雪菜冷
夕日色の君
人間見た目じゃないと言うが、それは見た目に恵まれた人が口にする言葉ではないだろうか。少なくとも遊佐はその独特な髪の色に長く苦しめられている。
「おはよう、遊佐」
「おっはよー」
朝一番に爽やかな笑顔を振りまく。人間関係は挨拶から。ここは外せない。一声かければ遊佐の周りには次々と人が集まりだす。
「今年も一緒のクラスだね」
「よろしく!」
「こちらこそー」
顔見知りのクラスメイト達に順に声をかけていると、すぐ後ろを誰かが通り過ぎる。同時に、パサリと何か落ちる音がした。
「鷹羽、ティッシュ落としたよ」
拾い上げて声をかければ、鷹羽と呼ばれた男子生徒は無言でそれを受け取り去っていく。
「くっら」
「お礼ぐらい言ってけよ」
ぶつくさと野次を飛ばす友人達に、文句言って良いのは俺だけだぞと思いつつ笑顔を向ける。
「まあまあ。別にありがとうって言われるために拾ってるわけじゃないから」
「遊佐、やさしー」
「さっすが」
「そんなんじゃないしー」
いつものような軽口を叩いている内に、ホームルームを告げるチャイムの音が鳴る。同時に勢いよく教室の扉が開いた。今年新しく着任した担任は、体育教師だとは聞いていた。それでも想像以上に逞しい人物が入ってきて、室内の空気が少し張り詰める。
「今日からこのクラスの担任となった杉田だ。よろしくな!」
必要以上の声量と唾でも飛びそうな話し方に、熱血教師である事が窺える。
(やな予感……)
こういう時ほど予想はぴたりと当たるものだ。新学期初日が終わり、次々と皆鞄を手に教室を去ろうとしていたが、遊佐は教室を出たところで呼び止められた。
「遊佐、ちょっと来なさい」
(ほら来た)
内心悪態をつきつつ黙って杉田の後ろをついていくと、『生活指導室』と書かれた教室に辿り着く。予感が現実へと昇華され、遊佐は思わずため息をつく。
「遊佐、新学期初日から髪染めとは感心せんぞ」
舌打ちが出そうになるのを既のところで堪えて笑みを浮かべる。
「先生、これ地毛なんです」
「そんな明るい赤茶色があるか」
「そう言われても、ほんと染めてないんで。他の先生方に聞いてもらえれば分かりますけど、これ中学時代の写真です」
常に弁明のために持ち歩いている写真を手渡す。杉田は舐めるようにその写真と遊佐を交互に見比べながら、ふんっと鼻息を鳴らした。
「まあいい。今日の所は帰りなさい。ちゃんと来週の集会までには黒に戻してこいよ」
(だから染めてないっちゅうに)
胸の内の感情はお首にも出さずに、人の良い笑みを貼り付けたまま踵を返した。
あれから一ヶ月。勿論遊佐は黒染めなどしていない。地毛を染める必要がどこにあるというのか。杉田は事あるごとに熱意溢れる説教をしてくれたが、昨年度の担任が偶然現場を目撃したため間を取り持ってくれた。彼は穏やかな人であったが杉田より年配だったため、渋々この髪のことを納得してくれたようだ。とはいえ、未だに時折睨まれているような気がするのは気のせいではあるまい。
「あー一限から体育とかだりぃ」
「しかも何だよあれ。走高跳び? あんなのやったことねえし」
「杉田って、陸上の選手だったらしいねー」
口々に面倒臭いと言う友人達の横で、そっと情報通を発揮しながら相槌を打つ。彼らの口の悪さは時々辟易するが、今回は概ね同意である。走高跳びという種目は嫌いだ。高い壁を助走一つで勢いよく飛び越える。人生にそんな事があるか。
風が吹き前髪が目を掠める。そろそろ切らなければ。この赤みがかった髪が視界に入るのは虫唾が走る。この髪のせいでこれまでどんな目にあってきたことか。加えて彼は施設育ちであるため、本当に世間の風は冷たかった。幼い頃はただ傷付き、成長と共に周りと自分を憎んだ。やがて身を守る為には『いい奴』を演じるのが効果的だと気付き、相手の顔色を読み欲しがる言葉を投げかけるよう努力した。ファッションや流行りのネタにも精通し、カースト上位に友達を作る。一つひとつ着実に積み上げて、ようやく人の輪の中に入る事ができたのだ。勢いよくひとっ飛び、なんて信じられるものか。
「おい、次鷹羽だぜ」
友人達の声で我に帰る。どうやら皆やる気がないようで、適当に跳んではバーに当たって杉田の神経を逆撫でしているようだ。そろそろ頭から湯気でも出そうな顔をしている。
「あいつの番で爆発してくんねーかな。どうせ倒すだろうし」
基本的に鷹羽は体育の成績がよろしくない。走るのも早くないし、球技などで器用に立ち回れるわけでもない。ましてこんな突然降って湧いた競技で活躍することもないだろう。誰もが無様に怒鳴られる彼を想像していた。
だが、遊佐は感じていた。他人の観察が得意な彼だからこそ気付く変化がある。彼の纏う雰囲気が、いつもと違う。皮膚を刺すような空気の緊張、射抜くようにバーへ向けられた眼差し。
ドクンと鼓動が高鳴り、ほんの少しだけ息が止まる。そのわずかな時間の間に、鷹羽は走り始める。美しい姿勢、機械のように振られる腕。バネでも付いているのかと思える程高い跳躍──。一瞬、時が止まった。空中で高く、高く反り返る体。それは本来のバーの位置を大きく上回る。障害など始めからなかったかの様に優雅に舞う姿に、目が釘付けとなった。
ドサリと、彼の体がマットに沈み込む音で世界は元の速さに戻った。皆あっけにとられた表情の中、杉田だけは顔を真っ赤にして拍手をしている。
「素晴らしい! 完璧な跳躍だった! 一体どこで習ったのかね⁈」
興奮した杉田が鷹羽に矢のように質問を飛ばす内に授業終了のチャイムが鳴った。クラスメイト達が困惑の色を残した表情で帰る中、遊佐は未だ激しい鼓動にそっと手を当てる。脳裏には彼の鮮やかな跳躍が焼き付いていた。
(人には意外な特技があるもんだな)
朝の体育の出来事を振り返りながら、遊佐は夕焼けに染まる廊下を歩く。今日はどうもぼんやりしているようで、ミスが多い。授業で呼ばれてもすぐ気付かないし、友人同士の会話にもワンテンポ遅れる事が度々あった。極め付けは、明日提出予定の課題を教室に忘れた事である。ポケットに軽く手を突っ込みながら、どこを見るともなく宙をぼんやりと見つめる。うっかり、教室を通り過ぎようとしていた。慌てて足を止めて扉に手を伸ばすと、聞き慣れた声が聞こえてくる。
「調子のってんじゃねえよ」
次いで、何かを殴るような音。
(えぇ?入りづら)
そのまま硬直していると、さらに会話は続いていく。
「鷹羽のくせに粋がりやがって。そんなに杉田に気に入られたかったのかよ」
鷹羽という名前を聞いて、状況に合点が入った。つまり、遊佐の友人達は体育で目立った彼が気に入らないのだ。それで、誰もいない放課後になって突っかかっている。
(アホくさ。人を貶める事で、自分の価値を保つとか)
扉に、己の影が濃く落ちる。真っ白な表面は夕日の光が落ちて、うっすら赤みを帯びている。遊佐の髪も、一日で最も赤く見える時間だ。どこからか、仄暗い記憶が忍び寄る。遊佐は一つ大きく深呼吸をすると、足音を立てないように教室から少し距離を取った。迫り上がる過去を追いやり、心に鎧を被り直す。そして不自然でない範囲で声を張り上げた。
「先生、さようならー」
途端に教室から慌ただしい足音がして、がらりと勢いよく戸が開けられる。
「……なんだ、遊佐かよ」
「おっと、金子じゃん。こんな時間に何してんの?」
「そりゃこっちの台詞なんだよ」
「何って、忘れ物を取りに」
あっけらかんと言い放つと、金子は小さく舌打ちした後、中に残っているであろう仲間たちに「いくぞ」と声をかけた。わらわらと数人の男子が出てきて、チラリと遊佐を一瞥してから去っていく。彼らにとって遊佐は『いい奴』で、顔も広いため敵に回したくない人物なのだ。だから、大人しく引き下がる。人間関係は計算だ。誰とつるむのが自分にとって得なのか、皆自然に選び取っている。
彼らの背を完全に見送ってから、遊佐はようやく室内に足を踏み入れた。予想通り、壁際に座り込んだ鷹羽がいて、周囲には彼の荷物が散乱していた。
(……派手にやられちゃって)
遊佐は黙って手近な荷物を拾い始めた。鷹羽もまた、何も言わずに周囲を片付け始める。一つ、二つと拾い上げていく内に、喉の奥がぐっと詰まった。思い出したいわけではないのに、頭を中を走馬灯の様に小学校時代の記憶が巡る。授業中もくすくすと止むことのない忍び笑い。たびたび真っ赤に塗りたくられた机。殴る蹴るなどの暴行を受けた事はなかったが、そこには幼さ故の残酷さがあった。
『そんな気色の悪い髪だから、親に捨てられたんだろ』
心底楽しむ様に告げられた言葉。この髪は悪魔の色なのだと思った。
(……いけない)
遊佐は心に蓋をしていった。幼き日の自分を置き去りにして、『今』の自分で壁を作る。周りに合わせて、勉強も運動もそこそこできて、おしゃれも適度に楽しむ自分。空気が読めて、面白い冗談の一つや二つも言える。それが、今の遊佐なのだ。誰もこの髪を指差したりはしない。杉田でさえ、彼の気にいる言葉や態度を示し続けていれば、いつか態度も変わるだろう。それでいい。それでいいのだ。
ふと、視線を感じて顔を上げた。鷹羽が真っ直ぐにこちらを見ている。その目は明らかに遊佐の髪をとらえていて、遊佐は反射的に心を身構えた。
「……何?」
鷹羽が何も言わないので、平静を装って声をかける。どうやらジロジロ見過ぎたという自覚はあるらしく、鷹羽はぱっと視線を逸らした。見られていい気はしないが、その後余計な事を言わないのが彼らしい。そう思いつつ遊佐も床に視線を戻すと、ぼそりと馴染みのない低めの声が、誰もいない教室に響いた。
「遊佐の髪は、夕日みたいだな」
ドクンと鼓動が脈打ち、呼吸が止まる。そのわずかな時間の間に、その言葉は高く高く跳躍して、遊佐の前にそびえる壁をいとも容易く飛び越えていく。そのまま吸い寄せられるように、遊佐の心の中へ落ちてきた。込み上げてくる何かを反射的に堰き止め、今まで培ってきた演技力をフル活動させて言葉を紡ぐ。
「はは。そんなの、初めて言われた……」
遊佐は決して顔を上げる事なく立ち上がり、拾い上げた物を手近な机へ置いて教室を出た。ゆっくりと歩き始めた足は段々と勢いを早め、最後には全力で走って屋上への階段を駆け上がった。
壊れそうなほど勢いよく扉を開けてそのまま激突しそうなスピードで淵まで駆けてフェンスにしがみつく。空で傾いた太陽が、彼の髪も手も、全身を赤く染め上げる。もうその頬はぐっしょりと濡れていた。堪えていた嗚咽が漏れ、ポタポタと大粒の涙が床にシミを作っていく。
『夕日みたいだな』
誰も、この髪を受け入れてくれた事などなかった。ただ、目立たないように他の部分で必死に努力しただけで。自分自身でさえ、嫌いで嫌いで仕方なかった。まさか、こんなにも美しいものに喩えられる日が来るなんて。遊佐は声を上げて咽び泣いた。
明日になったら、鷹羽におはようを言おう。『いい奴』のキャラだからではなく、友達として。そうすれば、きっと前へ進むことができる。いつの日か、夕日色の自分を好きになれるように。
夕日色の君 雪菜冷 @setuna_rei
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