ヒナ鳥にサヨナラ 4 決別
結局私は、忘年会がお開きになるのも待たず、板垣さんに自宅まで送ってもらった。
自分で思っていた以上に酔っていたらしく、帰宅するとすぐに眠ってしまった。
目が覚めてスマホを確認すると、高乃さんから『大丈夫だった?』というメッセージが入っていた。受信した時間がかなり遅かったので、おそらく二次会や三次会まで参加していたのだろう。
高乃さんはまだ寝ているかもしれないと思ったが、私はメッセージを送る。
『ご迷惑をかけてすみませんでした。これから行ってもいいですか?』
いつ返事が来てもいいように準備だけでもしておこうと思ったとき、高乃さんからの返事が届いた。起きていたようだ。
『いいよ。私も、話したいことがある』
なぜだか嫌な予感がした。私は、胸のざわつきを抱えたまま、身支度を整えて高乃さんの家に向かった。
部屋に入ると、高乃さんは、カーテンを閉め切って電気も付けないままで何かを考え込んでいた。服装も昨日のままだ。
私は、明かりをつけて「高乃さん、寝てないんですか?」と声を掛ける。
「ん? いや、帰ってきてこのまま寝ちゃったみたい」
そう言って高乃さんは笑みを浮かべたが、どことなくぎこちない。
「コーヒーでも淹れましょうか?」
「ああ、うん。ありがとう」
高乃さんはどこかぼんやりとした口調で答えた。
私は、すっかり慣れた高乃さんの部屋のキッチンに立ち、ドリップ式のコーヒーメーカーに粉コーヒーと水をセットする。スイッチを入れると、ほどなくポコポコと小さな音がしはじめた。
コーヒーが落ちる間に、少量の牛乳をミルクパンで軽く温めて、おそろいで買った二つのマグカップに注ぐ。そして、そこにコーヒーを注いだ。
湯気が立つカップをテーブルに置くと、コツンと小さな音が鳴った。それでようやく気付いたように高乃さんが顔を上げる。
「ありがとう」
そう言って、高乃さんはマグカップを持ってひと口カフェオレを含んだ。
コーヒーと言っても、高乃さんの家で飲むのはいつもカフェオレだ。砂糖なしミルク多めのカフェオレをはじめて淹れたのはいつ頃だっただろう。あのときは、「本当はカフェラテの方が好きなんだよ」とか「ちょっと豆を多めにして、濃いコーヒーにするのがコツだね」なんて、高乃さんの好みの味を教えてもらった。
しばらく黙ってカフェオレを飲んでいた高乃さんは、意を決したようにマグカップをテーブルに置いた。
「久遠さん」
「はい」
「……別れようか」
高乃さんの声はとても静かだ。
マグカップを持つ手が震えて、私は慌ててカップをテーブルに置いた。私と高乃さんは釣り合わない。高乃さんが別れたいと望むのならば、私はそれを受け入れるべきだ。
高乃さんに出会うまではそうしてきた。相手が望む答えを返していた。自分が少し我慢をすればいい。最近は少し変わってきたけれど、高乃さんが望むことならば、それだけは受け入れるべきだ。
「……いやです」
考えとは裏腹な言葉が口からこぼれた。
「いやです」
私はもう一度はっきりと言う。
高乃さんは何も言わず、ただ私を見つめている。
「別れるなら、その理由を教えてください」
高乃さんは目を伏せた。
「私がいつまで経ってもダメなままだからですか?」
高乃さんは首を横に振る。
「私が、嫉妬して嫌な態度を取ったから面倒になったんですか?」
高乃さんは首を横に振る。
「私のことが嫌いになったんですか?」
高乃さんは首を大きく横に振る。
「他に……好きな人ができたんですか?」
「違う。そうじゃなくて」
「だったら、なぜ別れるなんて言うんですか? お願いします。理由を教えてください」
高乃さんは再び黙ってしまう。
「光城さんという人が、好きなんですか?」
「違う、サリーは関係ない」
あの人のことを親し気に愛称で呼ぶことに腹が立つ。
「それなら、どうして理由が言えないんですか!」
声を荒げた私に、高乃さんは目を見開いた。
「……その方が、久遠さんのためだから」
振り絞るように高乃さんが言う。そんな理由で納得できるはずがない。前の部署を異動になった理由も「その方がいいから」というものだった。あのときはそれで納得したけれど、今回は納得できない。納得できるはずがない。
「そんなの、分かりません」
「サリーに言われた。『あの子が飛び立てないのは梓のせいじゃないの?』って」
「私なりに、久遠さんを見守って助けているつもりだった。だけど、サリーに言われて気付いた。自分の翼で羽ばたけるようになんて言いながら、しがみついて、縛り付けて、私が久遠さんの翼を奪っていたんじゃないかって」
「何を、言ってるんですか?」
私は、高乃さんに縛り付けられているわけじゃない。私が、高乃さんの側にいたいと思っているだけだ。
私はこんなにも高乃さんのことが好きなのに、どうして気付いてくれないのだろう。
そのとき不意に、以前の高乃さんの言葉を思い出した。
高乃さんは「私だって間違える」「私が間違えたときに、それは違うって言えるように」と言っていた。
あのときは、高乃さんが間違えるなんて思えなかった。もしも、間違えたとしても、それを違うと言えるはずがないと思っていた。
「高乃さん、間違ってます」
「え?」
「高乃さんは、間違っています」
そうだ。高乃さんも間違えることがある。この間違いを受け入れてはいけない。高乃さんが間違えたときは「それは違う」と言わなくてはいけない。高乃さんが望んだように、高乃さんと対等に愛し合うために、これは言わなくてはいけない。
「高乃さんは、間違っています」
「久遠さん?」
「私は、高乃さんが好きです。見つめられるだけでドキドキして、顔も見られないくらい、高乃さんが好きです」
「……」
「高乃さんも、私のことが好きなんですよね? 私のために別れようと思うくらい。そんなに辛そうな顔をするくらい、好きなんですよね?」
「……」
「光城さんが、どうしてそんなことを言ったのかは分かりません。だけど、他人の無責任な言葉で、どうして私たちが別れなくちゃいけないんですか?」
「……」
「もしも、足りないことがあるなら、それは二人で話して決めることですよね? 違いますか?」
「それは……」
「どうして、光城さんの言いなりになるんですか? 高乃さんは間違ってます」
高乃さんは右手で額を抑えて俯いた。高乃さんを怒らせてしまっただろうか。心臓がドクンドクンと大きく跳ねる。
静寂が重くのしかかり逃げ出したい気持ちになったが、私はそれを堪えて高乃さんの言葉を待った。
「ありがとう」
高乃さんは静かに言う。
「私が、間違ってたね」
微笑んだ高乃さんを見て体の力が抜けた。
「別れようって言ったこと、取り消していい?」
私は大きく頷いた。ホッとしたら涙があふれてくる。高乃さんは静かに体を寄せて私を抱きしめた。
どうやら高乃さんは、昨夜帰宅してから一睡もしていなかったらしい。お風呂にも入っていないとうので、とりあえずお風呂を沸かして入ってもらうことにした。
「一緒に入る?」
高乃さんはそんなことも言ったけれど丁重にお断りした。高乃さんの家のお風呂は広い。高乃さんはお風呂重視で部屋を選んだと自慢していた。だから、二人で入ることもできるのだけれど、そんなことをしたら絶対に倒れる。無理。
高乃さんがお風呂に入っている間にカーテンと窓を開けて、軽く部屋の掃除をした。午後の日射しが差し込み、先ほどまでの重い空気を洗い流していく。
なんだか、妙に心が軽い。
お風呂から出た高乃さんは、もう半分目が閉じている状態だった。ベッドに寝かせて、ついでに私も横になる。
高乃さんは、いつもと同じように、私を抱きしめてやさしく頭を撫でてくれた。いつもと違ったのは半分眠ったような状態で、ホゥと深いため息を付いたことだ。
「久遠さんだ。ずっと久遠さんが足りなかったから……落ち着く……」
まるで寝言のようにつぶやくと、頭を撫でる手がゆっくりと止まり寝息が聞こえはじめた。
私は、高乃さんのつぶやきにうれしさを感じる以上に驚いていた。
高乃さんの腕の中は落ち着く。安心できる。私はずっとそう思ってきた。私を抱きしめることで、高乃さんも同じように思ってくれているなんて想像もしてなかった。
私は、高乃さんにもらってばかりだと思っていた。だけど、こんな私でも、高乃さんにあげられるものがあるのだ。なんとなく、以前高乃さんが言っていた「対等でありたい」という言葉の意味が分かったような気がする。もらうばかりではない、与えるばかりでもない。そんな関係が続けられたら素敵なことだと思う。
私は手を伸ばして、いつもしてもらっているように高乃さんの髪をゆっくりと撫でる。そうしていたら、いつの間にか私も眠りに落ちていた。
目が覚めると、笑みを浮かべて私の顔を見ている高乃さんの顔があった。
「高乃さん、よく眠れましたか?」
「うん。久遠さんもよく寝てたね」
そう言いながら、高乃さんは私の髪をもてあそぶようにして撫でる。
「それ、やめてください」
私は高乃さんの手を押さえた。
「え? 嫌だった?」
高乃さんは少し慌てて手を引く。
「いえ、嫌じゃないんです。むしろ好きなんですけど、そうされると、また眠たくなっちゃいます」
「ああ、そっか」
高乃さんはうれしそうに笑みを浮かべると、体を起こして壁に寄り掛かる。私も同じようにその隣に座った。
「なんだか、今回は本当にごめん。ずっと忙しくしてたし、さっきはあんなことまで言って」
「忙しいのは……寂しいけど、仕方ないです。でも、別れるなんて言ったのは、ちょっと……かなり怒ってます」
「うん、ごめん」
「どうして、光城さんの言葉を信じてしまったんですか?」
「信じたっていうか、ああ、そうだなって納得しちゃって」
「光城さんのことが、好きだったんですか?」
「え? いやいや……まあ、入社してすぐにお世話になった先輩だから、憧れっていうか、あんな風になりたいっていうか、そういうのはあったけど……」
高乃さんの言葉がどうも煮え切らない。
「高乃さん?」
疑いの眼を高乃さんに向けると、高乃さんは困ったような顔をして笑った。
「幻滅した? 私なんてこんなもんだよ。全然大人じゃないし、しっかりもしてないし。すぐに迷うし、すぐに間違える」
「幻滅なんてするはずありません。やさしくて、かっこよくて、頼りになって、でも、ときどき間違えることもある高乃さんが好きです。間違えたら、私ちゃんと言います」
「すごいな、久遠さんは」
高乃さんはそう言うと、私の肩に腕を回して体を少し私に預けた。
「すごくないです」
「やっぱり、サリーの言った通りだった」
私は頬がピクリとひきつるのを感じた。言っていいだろうか。嫉妬しているだけだし、面倒だと思われるかもしれない。でも、どうしても言いたい。
私は体をずらして高乃さんと向き合う。支えを無くした高乃さんは少しふらついたがすぐに体勢を立て直した。
「それです」
「ん? どれ?」
「サリーってなんなんですか。あの人も、高乃さんのこと、あ、あ、梓って……」
「ああ、そのことか」
軽い口調の高乃さんにちょっと苛立つ。
「私のことは久遠さんとしか呼ばないのに、あの人のことはサリーって……」
光城さんが私に送った挑発的な視線を思い出して、余計に腹が立ってきた。
「それは、昔の名残だよ。私が入社したころの社長の思い付きでね。確か、フラットな組織づくりの一環、だったかな? それで、ニックネーム呼びを推奨したんだよ」
「組織づくり?」
「そう。今でも、ウチの会社は役職呼びしないでしょう? ニックネームは不評ですぐにすたれたんだけど、役職で呼ばないのはその名残だよ」
「そうなんですか」
「で、サリー……光城さんは、ニックネーム呼びを面白がってね。サリーって呼ばないと、返事をしてもらえなかったんだよ。で、今もそのまま」
「特別な関係だからじゃないんですね」
「うん。私の梓だって、交渉して譲歩してもらったんだから。アズアズにするか、アズリンにするか、ってくじ引きで決めようとしてたから、泣いて頼んで梓って呼び捨てにしてもらうことにしたの」
高乃さんは当時のことを思い出したのか、クスクスと楽しそうに笑った。呼び名に深い意味がないことは分かったけれど、仲の良さを見せつけられたようでやっぱり苛立つ。
「久遠さんも、呼びたかったら梓って呼んでいいよ」
高乃さんは笑みを浮かべて余裕のある表情で言った。
「あ、あず、あずさ、さん」
「それだと、『さ』が重なって呼びにくくない?」
確かにちょっと早口言葉みたいだ。うまく呼べないことよりも、私の顔を楽しそうに見ている高乃さんの顔の方が腹立たしい。
「じゃあ、私のことも美星って呼んでください」
「いいよ。美星」
高乃さんはやさしい声でサラッと言ってのけると、余裕の笑みを浮かべて私の頬を撫でてキスをした。
この感情は何だろう。うれしいし、はずかしいし、ドキドキするし、だけど、イラっとするし、くやしい。
赤くなってしまった顔を見られたくなくて、私は高乃さんに抱きついた。そして、耳元で「あずさ」と言ってみる。
「おわっ、なんだろ、なんか、照れるね」
急に高乃さんがしどろもどろになる。少し体を話して高乃さんの顔を見ると、多分私よりも赤い顔をしている。
「梓」
今度は顔を見て、もう一度名前を呼ぶ。高乃さんは顔をさらに赤くして「は、はい、何?」と答えた。
「私、まだ怒ってます」
「あ、うん」
「だから、今日は私がします」
「え?」
パジャマ代わりのトレーナーの裾からそっと手を入れる。高乃さんの肌に触れると、くすぐったがるように少し息を漏らした。
「だから、梓は大人しくしてくださいね」
「え? ちょ、ちょっと……」
少し抵抗しようとする高乃さんに、その間を与えないようにトレーナーをたくし上げた。そして、両手を上げさせた状態のままトレーナーを絡めておく。
「え? あの、手が……」
「大人しくしててください」
高乃さんが戸惑うのを無視してベッドに押し倒すと、二の腕に、ワキに、首筋にキスを落としていく。
「え? ちょっ、あ、……ん」
次第に甘くなる高乃さんの声が耳に届くと、背中にゾクゾクと快感が走る。
なんだか、新しい扉が開く音がした。
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