ヒナ鳥の育て方2

 うちの会社は昼休みが決まっていない。これは良い面も悪い面もあると思う。

 悪い面といえば、仕事が忙しいと、ちゃんと昼休みを取れないことだ。もう少し、あとここまで、と思っていると、昼休みを取りそびれてしまうことがある。もしくは、昼休みをとっても短い時間で仕事に戻ってしまう。

 良い面といえば、自分の仕事の段取りに応じて休憩が取れることだ。だから、ランチタイムで混み合う前に休憩に入ったり、逆に遅めに休憩を取ったりすることも可能だ。

 久遠さんがうちの部署に来てすぐに「お昼は、キリのいいところで適当にとっていいからね」と伝えてある。前の部署でも同じだったはずだが、気を遣うといけないと思ったからだ。

 だが、久遠さんは私が昼休憩に入るまで、絶対に休憩しようとはしない。それも苛立ちポイントの一つだった。仕事のキリがいいのなら休憩をすればいいのにと思ってしまう。久遠さんの仕事の進捗は、パソコンに貼り付けてある付箋の様子で分かってしまうから、余計に気になるのだ。

 でも、それはきっと私に気を使ってのことなのだろう。

 例の田中さんは真逆だった。数量限定ランチを食べるために、仕事を放り出して早い時間に昼休憩に入ったことがある。平常時ならばいい。だが、その日は十三時までに提出しなければいけない資料を任せていた。

 十一時半に「休憩行きまーす」と出て行ったので、てっきり終わっているのかと思った。だが、最終チェックをするために共有フォルダを見てもファイルがない。仕方がないので田中さんのパソコンをチェックすると、かなり中途半端な状態の資料が放置されていた。

 十二時半に昼休憩から戻って作業をしても、田中さんのペースで間に合うとは思えなかった。もしも、ギリギリ間に合ったとしても、ノーチェックで提出することになってしまう。

 私はその資料を共有に放り込み、チェックをしつつ残りの作業をすることにしたのだ。

 田中さんが昼食から戻ってくる頃には作業を終えて提出を完了させていた。そしてさらに、休憩から戻った田中さんの発言がひどかった。

「高乃さん、私のパソコン、触りましたか? プライバシーの侵害です!」

 そのときの私は、怒るのも呆れるのも通り越して面白くなってしまったのを覚えている。

 それに比べれば、久遠さんがいかにいい子なのかは考えなくても分かる。けれど、どうしても苛立ってしまうのだ。

「えーっと、あのね、久遠さん」

「はい」

「お昼の休憩ね、別に私の仕事が終わるのを待たなくてもいいんだよ」

「あ、はい。分かっています」

「でも、いつも私が休憩に出るまで休憩取らないよね? どうして?」

 私は、できるだけ穏やかでやさしい声色を心掛けて質問する。すると、久遠さんは質問の意味が分からないといった顔をしながら答えた。

「普通、後輩が先に食事に出たら嫌ですよね?」

 また「普通」だ。そして今度は「相手が喜ぶ」ではなく「相手が嫌がる」を考えている。

「久遠さん、それ、疲れない?」

「疲れる?」

 そうして久遠さんはコテンと小さく首を傾げた。それは子リスのようで愛らしい姿に見える。ああ、これは部署の男性陣が浮足立つのも仕方がない。そう考えてさらに胸の奥に苛立ちが募る。

「あー、ともかく、普通はどうか知らないけど、私は気にしないから。自分の作業の段取りに合わせて休憩を取っていいからね」

 すると、久遠さんはまだ納得しきれないという顔だったが、小さく「はい」と返事をした。

 久遠さんは真面目ないい子だ。だけど、田中さんよりも厄介な存在かもしれないと思うようになっていた。


 そんな話をした翌日、久遠さんが私の言葉を理解したかを確かめることはできなかった。急ぎの仕事が大量に回ってきたからだ。

 朝から久遠さんと手分けしてその処理にあたり、なんとか目処がついたのは十三時半を回ってからだった。

「久遠さん、疲れたでしょう。頑張ってくれてありがとうね」

 私がそう言うと、久遠さんはうれしそうに笑った。

「ちょっと遅くなったけど昼休憩にしようか。よかったら一緒にランチに行く?」

 そう誘ってから、休憩時間まで先輩と一緒なんて嫌かもしれないと考えたが、久遠さんは間髪を入れずに頷いてくれた。しかし、その返事を見ても「断らない方が喜ぶだろう」、「断ったら嫌がるだろう」、なんて考えているんじゃないかと勘繰ってしまう。

 ともかく誘ってしまったものは取り消すわけにもいかないので、私は久遠さんと連れ立って会社を出た。

「時間が遅いからどこでも空いてると思うけど……何か食べたいものある?」

「私は何でも大丈夫です」

 予想通りの返事に私は小さく息を付いた。

「それならパスタでいい? おいしいパスタ屋さんがあるんだけど」

 私の言葉に、久遠さんは少し俯いて「はい」と答えた。

 目的のパスタ屋のランチタイムは十四時までだ。店内に入ると遅い時間にも関わらず半数以上の席が埋まっていた。

 店員に案内されてテーブルに着くと、手書きのランチメニューが差し出される。三種類のパスタからひとつを選ぶと、パンとサラダ、スープ、ドリンクが付く。

 今日のパスタは、カルボナーラ、ボンゴレビアンコ、明太子と書かれていた。

「申し訳ないんですが、ボンゴレは売り切れてまして……」

 店員が申し訳なさそうに告げた。私は頷いてから久遠さんを見る。

「決まった?」

「え? あ、えっと……」

 久遠さんは口ごもって視線を下げた。まだ迷っているのかもしれないと思い、私が先に注文を伝える。

「私はカルボナーラで。ドリンクはカフェラテ」

 すると、久遠さんは俯いたまま店員に注文伝えた。

「あの……私は、明太子をお願いします。ドリンクは……レモンティーを」

 久遠さんの言葉が終わると、店員は注文を繰り返してから厨房にオーダーを伝えに行った。

 二人きりになってしまった。友人とのランチなら、料理が届くまでくだらない話で盛り上がるだろうが、久遠さんとは共通の話題がない。そして、久遠さんから話題を振ってくれる気配もなかった。

「どう? うちの部署には慣れた?」

 とりあえず何か話題をと思って口に出してみたものの、休憩時間に聞きたくない話題の上位に入りそうだと、我ながらげんなりしてしまった。

 だが、久遠さんは気にする様子もなく私の質問に答える。

「はい。まだ覚えることはたくさんありますけど……皆さんがやさしくして下さるので」

「そう。それならいいんだけど……。あー、そういえば、どうして中途半端な時期に異動になったの?」

「私にもよくわからないんですけど……。その方がいいからと聞きました」

 なんだ、そのモヤモヤする理由は。久遠さんが隠しているようには見えない。そうすると、本人にはっきりとは言えないような理由があるのだろうか。

 それからしばらく仕事の話をしていると、注文したランチセットが運ばれてきた。

「じゃあ頂きましょうか」

 私の言葉に、久遠さんは手を合わせて「いただきます」と小さく言った。そういう仕草がいちいちかわいらしい。多分、私が五歳くらいには失くしてしまったかわいさだ。

 私はサラダを一口食べる。シャキシャキとした瑞々しいレタスの食感が心地いい。サラダにかかっているイタリアンドレッシングが野菜の美味しさを際立たせている。このドレッシングを売ってくれないだろうか。それにスープも絶品だ。深いコクが口の中いっぱいに広がる。さあ、次はいよいよメインのパスタ。ベーコンをフォークで刺し、パスタを巻いて口の中に放り込む。コクのあるソースに負けないベーコンの旨み。ピリッと効いた黒コショウが、さらに次のひと口へと誘う。しっかりと噛み締めれば、ほんのりと小麦の香りを感じた。

 食事に集中することで、久遠さんの存在を忘れようと思ったが無駄な抵抗だった。私はチラリと久遠さんの様子を伺う。

 久遠さんは、器用にフォークでパスタを一本引き抜きながらクルクルとまるめている。そうして出来上がった小さなパスタ玉をパクっと口の中に放り込む。そしてすかさずスープを一口。あまりに小動物的な食べ方に目を見張る。さらにパスタを一本、先程と同じように口に運ぶと、またスープを一口飲んだ。

「ちょっと待った」

 思わず言うと、久遠さんはビクッと体を震わせて動きを止める。

「久遠さん、もしかして、パスタ嫌いだった?」

「いえ、パスタは嫌いじゃありません」

「だったら、明太子苦手?」

 すると、少し視線を落として逡巡する様子を見せてから「そんなことはありません」と言った。

 私は、深いため息をつく。

「苦手なのに、どうして明太子を選んだの?」

 久遠さんは黙ってしまう。

「怒らないから理由を教えて」

「……あの……。女性同士の場合、普通、別々のメニューを選んでシェアしたいかと思って」

 私が先にオーダーしてしまったのがいけなかったようだ。私はカルボナーラの皿を持ち上げて久遠さんに差し出す。

「え?」

「交換しましょう。カルボナーラは食べられる?」

 すると、久遠さんはすぐに「はい」と返事をした。そして、おずおずと明太子パスタの皿を渡す。

 皿の交換が終わり、私たちは食事を再開した。久遠さんの一口は、やはり小さかったが、一本ずつ食べるようなことはなかった。何より、スープで無理やり飲み込むような真似はしていない。

 私も明太子パスタをじっくりと味わう。明太子の辛みはクリームソースでまろやかに仕上げられている。何より明太子自体の旨みが深い。

「明太子パスタもおいしいわよ」

 私が言うと、久遠さんはジッと私の顔を見る。

「別に同じものを食べてもいいじゃない。もしも別々のものを食べたいとしても、お互いに好きなものを食べた方がいいでしょう?」

「……はい」

 久遠さんは叱られた子どものような顔で俯いた。

「別に怒っているわけじゃないからね。んー、久遠さんは、中華、和食、イタリアンなら、どれが一番好き?」

 私の質問の意図を測っているのか、私の顔色を伺うような様子が見える。私は、パスタを口に運びながら、ゆっくりと久遠さんの答えを待った。

「その三つなら……和食です」

「そっか」

「でも、イタリアンも好きで……」

 久遠さんは青ざめて言葉を足した。

「私も和食、好きだよ。イタリアンも好きだけどね」

 私が笑うと、久遠さんは少しホッとしたように表情を緩める。

「例えばね、ランチどこにする? って聞いたとき、久遠さんが和食を好きだって言ってたら、私の知ってるとっておきの和食屋さんに連れて行ってあげたよ」

 神妙な顔をする久遠さんを見つめて私は続ける。

「相手のことを考えるのはとてもいいことだけど、それは久遠さんが全部我慢すればいいってことじゃないからね。久遠さんは、自分の好きなものを好きだって言っていいの。嫌いなものは嫌いだって言えばいいんだよ」

「……はい……」

 久遠さんは返事をするが、納得したようには見えない。

「少なくとも私は、それくらいのことで久遠さんのことを嫌いになったりしないから安心して。久遠さんは、もっと自由にしていいんだからね」

 すると、久遠さんはキョトンとした顔をしたあと、少しだけうれしそうな笑みを浮かべた。

「お母さん……」

 一瞬聞き間違いかと自分の耳を疑ってしまう。

「さすがに私、そんなに歳じゃないんだけど」

「いえ、違うんです。そんな風に言ってくれるのは最初のお母さんだけだと思ってたので」

 そう言った久遠さんは、とてもうれしそうに見えた。お母さん扱いは少々納得いかないけれど、それで久遠さんが少し楽になるのならいいか、と思えた。

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