第3話 君と私の終わり

 妻はきっと事故死だろうと思っていた。

 何度も検診に行かせたが、異常は見つからなかったから、何か急な不幸が彼女の命を奪うのだとそう思っていた。


 しかし、病は密かに妻の体を蝕んでいた。

 発見されたときには癌はかなり進行していた。

 自分だけが彼女の寿命を見れる力を持っていたのに、それなのに、気付くことが出来なかった。


 いや、早く気付いたところで、結果は何も変わらなかったのかもしれない。

 砂時計が指す寿命は決して変わらない。

 だから、私が何をしても、妻の命を伸ばすことには繋がらないのだ。


 そうと分かっていても、手を尽くさずにはいられず、彼女を入院させ、手術と投薬による治療を行った。安くない医療費を稼ぐために身を粉にして働いたが、やはり何も効果はなかった。


 病室の窓からは立派な桜の木が見えた。

 入院が始まった頃には青々と茂っていた木の葉は、茶色く枯れ、寒風に吹かれて落ちていった。

 妻の頬は痩せかけ、髪は抜け、そして時計の砂は落ちていった。


 砂時計は残酷に変わらぬ速度で時を刻んだ。


 ある冬の日、病室で私は妻に尋ねた。


「僕は君を幸せに出来ただろうか。」

「何言ってるの、当たり前でしょう。」


 体調が良いのか、妻の発声は普段の掠れるようなものではなく、はっきりとしていた。


「でも、僕はまだ君に特別なことは何もしてやれてない。」

「十分よ。あなたといるだけで私は幸せでした。」

「僕と会わなければ、癌にならず健康に過ごせたとしても。」

「そんなこと言わないで。私の病気はあなたのせいじゃないって何度も言ったでしょう。」

「いや、やっぱり僕のせいだ。僕が君の運命を歪めたんだ。」


 そう言った私の手を妻の萎れた手が包んだ。そして泣きじゃくる子どもを宥めるような優しい声で言った。苦しんでいるのは彼女のはずなのに。


「たとえ自分の人生の終りまで全てを知っていたとしても、私はあなたと一緒になります。」

「終わりなんて言うなよ。君は僕と一緒にこれからもずっと生きるんだ。」


 私はまた嘘をついた。


「だったらあなたも笑ってちょうだい。励ますのならそんな悲しそうな顔をしないで。」

「…….そうだね。ごめん、僕は昔から君に叱られてばかりだ。」


 私の下手くそな笑顔を見て妻は微笑を浮かべた。そしてしばらく沈黙が続き、病室が静謐な空気で満たされた頃、妻が口を開いた。


「ねえ、春には桜を見に行きましょう。病室の窓からじゃなくて、もっと近くで。どこか名所に連れて行ってくれないかしら。」

「ああ、もちろん。約束するよ。」

「……ありがとう。」


 妻は疲れたのかゆっくりと目を閉じて、眠りについた。安心したような表情で。


 その3日後、妻は亡くなった。


 春を迎えることなく、砂時計が示す寿命通りにきっかりと終わりは訪れた。

 妻が旅立つとき、私は彼女の手を握っていた。

 妻の体温が低くなり脈が落ちていく感覚は、今でも手にこびりついている。

 妻は最期に私に顔を向けて何か言った。

 しかし、苦しそうな呼吸音が混じって絶え絶えになった言葉を、私は聞き取ることが出来なかった。

 

 妻の最期をもって始めて、私はそれまで身近に感じていた死の残酷さを知った。


 

♢♢♢



 妻が亡くなってからの時間はやけに長く感じた。

 

 時々、妻の後を追いたくなる衝動に駆られることもあったが、きっと彼女はそんなことを許さないだろうと思って留まった。


 働いて、食べて、寝るだけ。

 妻がいない人生は私にとって余生だった。

 世間的にはまだ若いとされる歳だが、実際、私に残された時間は短いのだから余生という表現はあながち間違っていないだろう。


 妻の墓参りだけは、私の余生の中で唯一意味があるものに思えた。

 毎年春になると、墓の前に桜の木の枝を水に刺して置いた。その行為は私にとって約束を破った償いであり、また妻への変わらぬ愛を証明する儀式のようなものでもあった。


 妻が亡くなってから5回目の春、私の命の砂もとうとうひとつまみほどになった。


 私は預金を親の口座に振り込んだ。親に先立つ不孝者なりに何か恩返ししてやりたかったのだ。私の葬式代の足しになると良いが。


 最期の日の朝、私は髭を剃って、髪をセットした。それから長い間閉まっていたジャケットに袖を通した。不健康な生活を続けていたせいか、少しきつかったが、彼女に会いに行く日くらいは格好をつけたかったので我慢した。


 私の終わりが春で良かった。

 今年は直接、彼女に桜を届けることが出来そうだ。


 玄関の戸を開けると、暖かい陽射しが私を迎えた。

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