第4話
(肆)
朝食を終えた楠本は宛がわれた病室には戻らずに食堂の窓辺に立って窓の外を眺めていた。彼の目の先にあるのはひっきりなしに花を散らす染井吉野である。桜の樹の周りには数人の警察関係者らが忙しなく立ち働いていた。周囲には立ち入り禁止のテープが張られている。ここからは見えないが、病院の敷地外では報道機関の人間が押しかけてカメラを向けながら事の成り行きを見守っていた。
朝からT病院は蜂の巣を突いたような大騒ぎであった。未明に桜の樹で首を括った屍体が発見されたからである。口さがない病院の清掃員の話では第一発見者は夜勤の看護師と当直医であったらしい。夜、院内の見回りをしていた看護師がふと見た窓の外に何か変なものを見たので、念のために医師に報告した後、二人で確かめに行った末に発覚したという。また地面には穴が掘られており、その中には小さな白骨があったとも。おまけにその白骨の一部には鱗のようなものがあったとか――。
入院患者たちは病院を揺るがしたこの事件に酷く動揺して体調を崩す者が大半だった。食事の後は皆、食堂に残って他愛のないお喋りに興じたり、トランプで遊んだりと呑気に過ごすのだが、今日ばかりはそれぞれ病室に引き払ってしまい、食堂に居残っているのは楠本だけだった。
体調が悪化した患者らの対応や事件に関する細々とした用事などに追われているのか、看護師や助手は普段よりも慌ただしい様子で、院内も殺気立ったような気配がそこここに漂っていた。
つけっ放しのテレビから笑い声が虚しく流れたかと思うとふっつりと音声が途絶えた。視軸を転じると看護師がテレビのリモコンを所定の場所に戻していた。
「楠本さん、お部屋に戻りましょう」
事件を気にしてか、看護師は何時も以上に気遣わし気な目をして近付いてきた。自殺者が精神病院の敷地内で見つかるなど、ショッキングな事件である。心身に影響してはいけないと病院のスタッフは気を配ってはいたが、人の口には戸を立てられないし、個々の好奇心を御することは難しい。
「亡くなった方の身元は解かったのですか?」
「さあ、わたしたちは何も聞いていないから」
「もしかしたら、私の知り合いかもしれないのです」
「え?」
看護師は目を瞬かせて楠本を凝視した。と、院内放送が流れた。楠本を呼び出すものだった。
「これから診察なのね。何とも云えないけれど、先生が何か知っているかもしれないわ」
少し困ったふうに眉尻を下げて患者を送り出した。
担当医に呼ばれて楠本は診察室へ入った。丸椅子に腰掛ける。左斜めに白衣を着た医師が座り、多田と書かれた名札をつけていた。いつもと同じ部屋の明るさ、白さ。見慣れた、取り立てて特徴のない壮年の医師の顔。
「調子はどうですか? 今の薬の処方で眠れていますか?」
多田はカルテを広げながら愛想良く問う。これも、いつもと同じ。
「ええ、問題ありません」
「そうですか。何か困っていることや不安なことはありませんか?」
「あの亡くなった方は?」
単刀直入に訊ねると多田医師は少し面を喰らったような顔をして、僅かに目を逸らした。楠本は漆黒の眸でじっと医師を見詰める。
「もしかしたら私の知り合いかもしれないのです。数日前に彼と話をしました。彼は友人のお見舞いに来たのだと云っていました」
「その人の名前は?」
「名前は聞いていません。でも警察の方で照会がもう済んでいるでしょう。あの日は確か、見舞客はその彼と、三〇一号室の渡辺さんのご家族だけだったように記憶しています」
「それで?」
「ただ知りたいだけです。いけませんか?」
「そう云われてもね、事件に関しては私もまだそう多くは知らされてないんですよ」
「他の患者さんも気になっているようです。下手に隠すと悪影響ではないですか?」
「それはそうだけれどね。でも、新聞に載る程度の情報しか警察の方からも話がまわってこないでしょうね。保証はし兼ねます」
「それでも構いません」
平素と違った様子を見せる楠本を、内心珍しく思いながら多田は物分かりが良いような体で頷いて何やらカルテにペンを走らせた。
「先生、それからもうひとつ」
「何ですか?」
「あの桜の樹は、どうするのですか?」
問われて多田は少しだけ目を細めてカルテに桜、と書き込む。
「ああ、あの樹。見事な桜だけどね、患者さんの一部では伐って欲しいという意見があがっています。お気持ちは解りますが。楠本さんも?」
「ええ、そうして頂けると」
頷きながら、あの桜の樹が焔に包まれ、黒く焼け落ちてゆくのを夢想して自分の中から何かがすうと抜け出ていくのを感じた。ゆっくりと桜が散るように、膚から鱗がぽろぽろと落ちてゆく。
楠本は多田の前で初めて朗らかに笑った。
「先生。何だか長い夢から目が醒めた気分です」
(了)
人魚の骨 椿蓮子 @renko619
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