第6話 逆転

 時は少し遡る。


 姉のいる控え室を後にしたエリエは、食堂の給仕の仕事に戻るために早足で闘技場の廊下を歩いていた。


 人でごった返している、一般に解放された廊下とは違い、今エリエが歩いているのは関係者のみが行き来できる廊下のため、人の数もまばら。

 死合前はひりつくことが多い闘奴の控え室に繋がる廊下となると、なおさらすれ違う人の数は少なかった。


 しばらく歩いていると、道行く先に、燕尾服を着た男が立ちはだかるようにして廊下の真ん中に立っているのが見えて、つい歩速を緩めてしまう。


 エリエも、カリオンと名乗る従者と面識があるので、燕尾服を着た男が皇族の従者であることを知っている。

 知っているからこそ、不気味に思えてならなかった。

 肝心の主をほったらかしにして、こんなところで何をしてるんだろう――と。


 歩速は緩めども、歩いている以上、男との距離は必然的に縮まっていく。

 今すぐ回れ右をして、大好きな姉に泣きついたところだけれど、大事な試合の前に心を乱すような真似はしたくないとか、そもそも給仕の仕事に戻らなきゃとか、諸々の気遣いやら責任感やらが、足を前に進める以外の選択をとることを許さなかった。


 ほどなくして、男の傍まで辿り着き、


「し、失礼しまぁす……」


 恐る恐る脇を通り抜けようとした、その時だった。


「ひっ!?」


 ここは通さないと言わんばかりに男に立ち塞がれ、思わず引きつるような悲鳴を漏らしてしまう。


 エリエは慌てて横に逃げ、今度こそ男の脇を通り抜けようとするも、またしても立ち塞がれてしまい、思わず涙目になる。


「あ、あの……通してくれませんか……?」


 恐る恐る見上げ、恐る恐る男に訊ねるも、返ってきたのは虫を見るような冷たい視線のみ。

 気圧されたエリエは一歩二歩と後ずさるも、


「……っ!?」


 三歩下がったところで、いつの間にか背後に立っていた誰かに背中がぶつかり、息が止まりそうになる。

 先以上に恐る恐る背後を振り返ると、そこにも、虫を見るような冷たい視線を向けてくる燕尾服の男が立っていた。


 直後、後頭部に鈍い衝撃が奔る。

 その一瞬の痛みを最後に、エリエの意識は奈落の底へと落ちていった……。



 ◇ ◇ ◇



「あれは……あれはいったいどういうことですか!」


 珍しくも声を荒げるイサラに、セグメドは心底愉しげに笑った。


「わからんか? 見てのとおりだ」

「……! 皇族が奴隷相手に人質をとるなんて……! あなたには恥という概念がないのですか!?」

「そういう貴様には、政治という概念がないようだな。国家間においては人質を交わすことなど、そう珍しい話ではない」


 政治などは露ほども知らないが、少なくとも目の前にいる皇子が、人質をとることを恥とも何とも思っていないことを理解したイサラは、苦々しげに口ごもる。


 二人の会話が聞こえる席にいた観客たちを起点にどよめきが拡がっていくも、やはり相手が帝国の皇子である手前、野次を飛ばす者は一人もいなかった。


「まずは、剣を捨ててもらおうか」


 ニヤニヤと脂下やにさがった笑みを浮かべながら、命じてくる。

 イサラは数瞬セグメドを睨みつけた後、観念したようにその手に持っていた剣を放り捨てた。


 セグメドのはるか後方、観客席にいる燕尾服の男が、懐から取り出したナイフをエリエの眼前でこれ見よがしに弄ぶ様が見えている以上、大人しく従う以外に選択肢はなかった。


「それから……そうだな……ここから先、貴様には指一本すら動かすことを禁ずる」


 言いながら、セグメドは剣を手にしたまま、こちらに近づいてくる。

 眼前まで来たところで、切っ先をイサラの喉元に突きつけると、そこから真っ直ぐに下におろしていき、襟ぐりから麻服の上衣を縦に斬り裂いていく。


 斬り口がハラリと揺れ、果実の谷間が露わになると、セグメドは「ほう……」と嬉しげな吐息を吐いた。


「やはり貴様は、の意味でも極上だな」


 ねぶるような視線が、谷間に向けられる。

 それだけで穢されたような気がしたイサラの顔が、恥辱の赤に染まる。

 目尻には、わずかに涙が溜まっていた。


 闘技場最強の女が生娘じみた反応を示し始めたからか、セグメドは心底愉しげに、下卑た笑みを浮かべる。


「これはこれは……俺様の見込み以上に、辱め甲斐があるでは――」



「そこまでだッ!! ッ!!」



 不思議とよく通る、青年の声が闘技場に響き渡る。

 聞こえてきたのは観客席。エリエが捕らわれているあたりからだった。


 観客たちの視線が声の主に集中する中、セグメドは億劫そうに背後を振り返り……瞠目する。

 声の主が誰なのか確かめるまでもなくわかっていたイサラは、誰よりも遅れて声が聞こえた方を見やり……セグメドと同じように瞠目した。


 声の主は、イサラの想像どおりカリオンだった。

 しかしその表情は、イサラの想像とは異なっていた。


 カリオンの表情からは、いつもの胡散臭い笑顔が消えていた。

 代わりに浮かんでいる表情は、どこまでも真剣で、どこまでも真摯なものだった。


 そして、何よりもイサラを瞠目させたことは、エリエがもうすでに助けられていたことだった。

 カリオンの従者と思しき、白い燕尾服を纏った男たちが、エリエを捕らえていた黒い燕尾服の男たちを捕縛していたのだ。


 一方セグメドは、イサラとは別のところで驚愕を露わにしていた。


「馬鹿な……その〝白〟は、父上の近衛隊ロイヤルガード!? なぜ貴様如きが従えている!?」

「兄上が帝王学というものを、まるで理解していなかった。そのおかげといったところだね」

「ど、どういう意味だ!?」

「どういう意味も何も、我らが帝国にとって、人質とはあくまでも献上されるものであって、手ずからとるものではない。なぜならその行為は、そこまでしなければ相手を従わせることができないと自白していることと同義だから」


 帝国の皇子として学ばされた内容なのか、セグメドは痛いところを突かれたように青ざめ、口ごもる。


「この度兄上は、確実な勝利欲しさに人質をとった。その卑しい行為は、を怒らせるに有り余るものだった。だから僕に、近衛隊ロイヤルガードを貸してくれたというわけさ」

「待て……いくらなんでも、それはおかしい! 俺様がイサラに人質を見せてから、まだ数分しか経っていない! そんな短時間で父上に拝謁し、父上を納得させるだけの説明をした上で近衛隊ロイヤルガードを連れてくるなど、できるわけがない!」

「勿論、そんなことは僕にもできないよ」


 そう言って、カリオンは肩をすくめる。


「だったらなぜッ!? こんなことになっているッ!?」

「兄上は僕に内緒にしていたつもりだったんだろうけど、イサラの妹君いもうとぎみを人質にとるつもりでいることがバレバレだったからね。人質の用途も簡単に推測できたから、あらかじめ父上にこうお願いしておいたのさ」


 カリオンの顔に、いつもの胡散臭い笑顔が舞い戻る。


「『兄上が本当に、民の面前で勝つために人質をとるという醜態を晒した場合は、それを咎める権限を僕にください』とね」


 つまりカリオンは、セグメドの悪巧みを事前に看破した上で、特別試合が始まるよりも前の日に皇帝に拝謁し、一時的に近衛隊ロイヤルガードを行使する権限を得た――そう言っているのだ。


 完全にカリオンの掌上だったことを知ったセグメドは愕然としながらも、その手に持っていた剣を取り落とした。



「わたしからも一つ、よろしいですか?」



 イサラは、放り捨てた剣を拾いながらカリオンに訊ねる。

 その際にセグメドはビクリと震え上がるも、恐怖でも抱いているのか、こちらを振り返ることはなかった。


「今からわたしは、彼にさらなる醜態を晒させるつもりでいます。奴隷の身でありながら皇族を辱めること、許していただけますか?」


 その言葉に、カリオンは破顔した。

 胡散臭さの欠片もない、心底から湧き上がった笑顔だった。


「構わないよ。人質を使った時点で、兄上は継承順位はおろか、皇族としての権限も剥奪されているからね」

「剥奪ッ!? 待て……本当に待てッ!?」


 狼狽を露わにするセグメドの背後で、イサラは「では……」と剣を脇に構える。


 転瞬、


 幾十もの剣閃が、セグメドの周囲にまたたいた。


 遅れて、額に巻いていた革紐が、細切れになってパラパラと舞い落ちる。


 さらに遅れて、革紐と同じく細切れになった王衣がパラパラと舞い落ちた。


「……へ?」


 下着一枚だけになったセグメドの口から、間の抜けた声が漏れ、


「ぴぎぃいぃいぃいいッ!?」


 イサラの絶技におののいたのか、豚のような悲鳴を上げながら卒倒する。


 これにはさすがに観客たちもこらえきれず、五万を超える帝国民の笑い声が闘技場の空にこだました。

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