第2話 妹
「イ・サ・ラッ!! イ・サ・ラッ!! イ・サ・ラッ!!」
声援を背に受けながらも、イサラは闘技場の舞台から下り、入場口にいる兵士に剣を返却――反乱防止のため、奴隷は原則的に武器の携行を認められていない――してから、闘奴の控え室へと戻る。
基本、控え室は死合待ちの闘奴でごった返しているが、今回はこの闘技場におけるトップ闘奴同士の死合というビッグイベントが行なわれたため、イサラとグラド以外の死合は組まれていない。
そのため、今日に限れば控え室には誰もいないはずなのだが、
「お姉ちゃんっ!」
部屋に入ってすぐに、こちらに抱きついてきた女の子を前に、死合中一度も表情を崩すことがなかったイサラが目を丸くした。
「エリエ。どうして
丸くした視線を落とし、自分よりも頭一つほど背の低い女の子――エリエを見やる。
彼女が「お姉ちゃん」と言っていたことからもわかるとおり、エリエはイサラの妹。
ゆえに、腰に届くまで長い銀色の髪も、宝石のようにキラキラした碧い瞳も、イサラと全く同じ色。
身に纏っているものが奴隷用の麻服であるにもかかわらず、お人形のように愛らしく見える容姿は、イサラとは方向性が違うものの、確かに二人が姉妹だと思わせる要素の一つになっていた。
「どうしてって……そんなの、お姉ちゃんが心配だったからに決まってるじゃない!」
五歳年下の妹に涙声で返され、イサラは弱った顔をする。
「いつも言ってるでしょう。お姉ちゃんは誰にも負けないって。それとも、お姉ちゃんのことが信じられませんか?」
「信じてるよっ!! けど……今回戦った人は、お姉ちゃんと同じくらいに強い人だって聞いたから……」
エリエが、こちらの胸に顔を埋めてくる。
ほどなくして胸元が濡れてきていることに気づき、イサラはますます弱った顔になる。
だからか、つい無意識の内に妹の頭を撫でようと手を持ち上げ……あと数センチでエリエの髪に手が触れるというところで、イサラは硬直した。
私は今、人を殺してきた。
血塗られた手で、妹の頭を撫でようっていうのですか?
そんな考えが脳裏をよぎってしまい、中途半端に手を持ち上げたまま、動けなくなってしまう。
自ら稼いだ金で自分と妹を買い、奴隷という身分から解放されるという大義名分はある。
けれど、どれほどご大層な理由があろうが、すでに何十人という闘奴を殺してきたこのて手が血に塗れているという事実は、決して変わることはな――
「お姉ちゃん」
先程と同じように、けれど先程よりもはるかに優しい声音で、エリエは名前を呼ぶ。
「わたしは気にしないから。お姉ちゃんの手がどれだけ血で汚れてたとしても、お姉ちゃんの心が誰よりも綺麗だってことを、わたしは知ってるから」
そう言って、こちらの胸に埋めていた顔を上げ、微笑んだ。
目尻からはまだ、涙をこぼしながら。
「敵わないですね。エリエには」
観念したように、それでいて救われたように、エリエの頭を撫でる。
「えへへ」と嬉しそうに笑い返されたことで、さらに救われた心地になる。
「てゆうか、そういうことを気にするくらいなら、やっぱり闘奴なんてやめた方がいいと思うんですけど」
「私は闘奴として帝国に買われたのですから、買い戻せるだけのお金を稼ぐまで、やめられるわけがないでしょう」
正論を返しながらも、イサラは後ろめたそうに妹から視線を逸らす。
エリエは、イサラが闘奴をしていることに今でも反対していた。
大切なお姉ちゃんに死んでほしくない、その一心で。
勿論、妹を心配させたくないという気持ちはイサラにもある。
だからこそ、今もこうして妹を心配させていることに後ろめたさを感じていた。が、仮に今すぐ闘奴をやめることができたとしても、自分がその選択をとることはないことは断言できる。
死合に勝つたびにまとまった金が入る闘奴は、奴隷という身分において大金を稼ぐことができる数少ない職種。
体を売るという意味では同じな愛玩奴隷と比べても、命を賭けている分、得られる金額は文字どおりの意味で桁が違う。
自分と妹――二人分を買い戻せるほどの金を稼ぎ、揃って奴隷という身分から解放されるには、闘奴として勝ち続ける以外に道はなかった。
(それに……女として体を売ったって知ったら、お父さんもお母さんも哀しむでしょうし)
闘奴として戦っているなんて知ったら、父にも母にも心配されるということは、ここでも棚上げにする。
三年前。
イサラはエリエともども親に売られて奴隷になった。
しかしそれは、病弱だった母の命がいよいよ危うくなり、医者に診せるための金を工面するために父とイサラとエリエの三人で決めたことだった。
誰が母の看病をするために残るかで揉めに揉めたが、父が奴隷としての価値が最も低かった上に、当時一〇歳の割りに賢しかったエリエが、一番役に立たない自分が売られるべきだと頑として譲らなかったため、父が残るという形で落着した。
だからイサラもエリエも、奴隷として売られたことには納得しており、そのことで両親を恨んだりはしなかった。
いくら金が必要だとはいっても、娘たちが愛玩奴隷になることだけは良しとしなかった父は、多少値が下がってでも娘たちを愛玩奴隷として売らないようにと、奴隷商と契約書をかわした。
しかし、密かに自分と妹を自力で買い戻す気でいたイサラは、父には内緒で、妹を護るために磨いていた剣の腕を奴隷商に見せつけ、闘奴として己を売り込んだ。
当時から懸絶した実力を有していた上に、美少女という観客の人気を博する付加価値がついていたイサラは奴隷商に高く評価され、闘奴市場としては最大級にして最高級の買い手である、ラグエラ帝国首都の闘技場にエリエともども売られた。
言うまでもないが、エリエは闘奴として売られたわけではない。
給仕奴隷として、今も闘技場内にある食堂で働いていた。
形は違えど姉妹揃って闘技場に売られたのは、買い手である帝国が、それだけの価値をイサラに見出したからに他ならなかった。
そしてその見立て以上にイサラは人気を博し、闘技場の売り上げに大きく貢献できたおかげで報酬も増え、順調に自分と妹を買えるだけの金を稼いできたわけだが、
(ここから先は、少々時間がかかるかもしれませんね)
頑として闘奴を続けるこちらへの抗議の意味を込めているのか、ジットリと視線で見上げてくるエリエの頭を撫でながら、一人思う。
グラドを倒した今、この闘技場にはもうイサラを超える闘奴は存在しない。
人気があるためそれなりには死合を組んでもらえるだろうが、今までよりも格段に数が減るのは目に見えている。
賭けが絡む以上、勝敗がわかりきっている死合など、闘技場を運営する帝国からしたらあまり組みたくはないだろうから。
そんなことを考えていたせいか。
あるいは、噂をすればと言うべきか。
あきらかに闘奴のものではない気配が控え室に近づいてきていることを察知し、イサラは入口の扉を鋭く睨みつける。
尋常ならざる姉を様子を見て察したエリエは、涙を拭ってからイサラの胸から離れた。
コンコン。
扉をノックする音が響き渡る。
ここは闘奴の控え室。
そんな部屋に入るのにノックをする人間は、余程育ちの良い人間か、中に異性がいることを知っている人間、あるいはその両方といったところだろう。
いずれにしろ、闘技場の運営に関わっている帝国の人間、それもかなり高い身分の高い者に仕える人間と見て、まず間違いない。
イサラはエリエを見やり、首肯が返ってくるのを確認してから、扉の向こうにいる人間に言う。
「どうぞ」
促すと、それが礼儀だと言わんばかりに一拍おいてから扉が開く。
入ってきたのは、黒い青年だった。
着ている燕尾服も黒ければ、髪の色も、瞳の色も黒い青年だった。
顔立ちは、町中ならば異性の目を引きそうなほどに整っているが、顔に貼り付けている笑みが胡散臭いことこの上ないせいか、引いたばかりの目を即座に引き剥がす不気味さも併せ持っている。
歳の頃は、イサラと同じ一八か、少し上といったところだろうか。
青年は恭しく一礼してから、歌劇を思わせるほどに耳に心地良い声音で名乗る。
「初めまして、イサラ・ルーラン。僕はカリオン。とある御方に仕えるしがない従者なので、僕の名前を呼ぶ時はどうか呼び捨てで。できれば親愛を込めて」
言い回しのせいでますます胡散臭いと思ってしまったせいか、イサラは欠片ほども親愛がこもっていない声音で訊ねた。
「それで、あなたは何の用があって私のところに来たのです?」
「つれないなぁ。せめて名前くらいは呼んでくれないかい? そしたら答えてあげるよ」
イサラはうんざりとしたため息をつくと、言われたとおりに名前で呼びながら、先と同じ問いを返した。
「カリオン。あなたは何の用があって私のところに来たのです?」
名前を呼んでもらえたことが嬉しいのかどうかは定かではないが、カリオンは胡散臭い笑みを深めながらも答えた。
「僕の主が、君に会いたいって言っていてね」
「主ですか。どうせ
それは、自分のためというよりも、先程から不安げに会話を聞いているエリエのために言った言葉だった。
「別に構わないよ。お姉さんが誰と会うのかわかっていた方が、妹さんも安心するだろうしね」
どうやらカリオンも、エリエの不安を察していたらしい。
意外な気遣いにイサラは少しだけ感心するも、直後に彼の口から出てきた名前に全てを吹き飛ばされてしまう。
「僕の主の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます