25.ゆーちゃんのお父さんとお母さん
小料理屋の板前さんと妖の女の子のロマンスは、上下巻同時発売になることが決まった。
そのときに僕のサイン会も開かれる。
サイン会でどういう反応をされるかは怖かったけれど、僕はそれどころではなくなった。
上下巻の二冊分の原稿を仕上げてしまわなくてはいけなくなったのだ。
ライターの仕事をしばらく休むことを契約会社に伝えると、鈴木さんから後押しがあった。
『いっそ、専業になっちゃいませんか?』
『僕でなれますか?』
『メープル先生は今の状態でも二か月に一冊は出してます。専業になればもっと出せると思います』
それだけ書いたものが売れるのか自信がないが、ライターの仕事と作家の仕事をもう両立できる状況ではなくなってしまったのは確かだった。
部屋の家賃や水光熱費は仕事場も兼ねているので経費で落とせるし、寛と折半しているので半額で済ませられる。
最悪、専業作家の道が上手くいかなくても、僕にはもう一度ライターとしてやり直すこともできる。
『やってみます』
僕は編集の鈴木さんに返事をしていた。
『本当なら、このご時世、ほとんどの作家さんには、「本業は持っていてください」ってお願いするんです。専業ではどうしても厳しいから。でも、メープル先生は売れているし、大丈夫だと思っています』
鈴木さんの評価が高いことに僕は喜びつつ、前作の増版の報告も聞いた。
厳しいご時世だからこそ、ひとは甘く切ないロマンスを求めるのかもしれない。
上下巻で締め切りが二か月先。
相当タイトなスケジュールだが、僕は何とか書き進めていた。
プロットも企画を通っているし、書き上げた部分も鈴木さんに送っているが、大きな手直しはない。
『ここの店員の言い方を変えてもらえますか?』
『まずかったですか?』
『私が気になるだけかもしれないんですが、こういう言い方をされたら、「責任者を出せ!」って気分になります』
ショップの店員さんの気持ちが分からない僕に鈴木さんが教授してくれる場面もあった。
朝から昼まで寛のお店で、昼過ぎからは自分の部屋で書く毎日。
パソコンを持って寛のお店に行くのも日常になった。
小説の展開で迷っているので、タロットクロスを広げてタロットカードを引こうとしたら、混ぜている間に死神のカードが飛び出して来た。
逆位置だ。
意味は、さだめだが、僕は嫌な予感がしていた。
寛が店の奥で電話を取っている。
それを僕はぼんやりとしながら見つめている。
いつも通りに見えるがどこか消沈した寛が、店の奥から出て来た。
「俺の父親が死んだらしい」
「え?」
「病気で危ないから見舞いに来て欲しいって言われてたんだが、ずっと断ってた」
寛の父親がそんなことになっていたなんて知らなかった。
寛の父親も母親も、寛が保育園の頃から不倫していた。小学生のときには寛に食事を与えず、寛はこの店の女将さんに賄いを食べさせてもらっていた。
中高一貫の学校に寛を入れてからは、それぞれに別々の家族と暮らしだして、寛は長期休暇に寮から追い出されると一人で実家に帰っていた。
寛が高校を出ると、寛の両親は離婚して実家も売り払って、寛には帰る家がなくなってしまった。
「かーくんに言ってなかったことがあるんだよ」
「なに? 何でも聞くよ」
「シェアハウスしてるあの家、俺の持ち家なんだ」
「え? そうなの?」
家賃の振り込みも高校を出た時点では僕は全く分からなかったから、両親に頼んでいた。
寛は自分の両親が離婚するときに貰った金であのシェアハウスの部屋を買ったのだ。僕をシェアハウスに巻き込んで、家賃振り込みに関しては、僕の両親に口止めして自分の物件だということを気付かせないようにしていたようだ。
「金だけ出せばいいと思ってる両親に腹が立ったから買ったんだけど、かーくんには黙っててごめん」
「ううん、気にしてないよ。それであんなに広い家なのに家賃が安かったんだね。儲かっちゃった」
リビングにエアロバイクを置いても怒られないし、リビングでヨガマットを敷いてプランクをしても寛が一緒にしてくれるだけで何も言われない。
自由に使えるスペースの広いあの場所が僕は大好きだった。
先ほど出た死神のカードは、寛の父親の死を暗示していたのだろう。
「どうするの、ゆーちゃん?」
「通夜にだけ出て欲しいって言われた。どうしようか、迷ってる」
こうして誰にも言わずに寛はずっと迷い続けてきたのだろう。
自分を捨てた父親を許せずに、病気になったと聞いても見舞いにも行かず、僕にも話さなかった。
「ゆーちゃんが決めていいよ。決めたら、僕はついて行く」
「かーくん、来てくれるのか?」
「親友のお父さんが亡くなったんだもん、行っていけないわけがないよ」
僕が言うと寛は顔を上げた。
「一度だけだ。これで最後だ」
「分かった。行こう」
通夜にどんな格好をすればいいのか分からない。
女将さんに聞いてみると、教えてくれた。
「ひとの死は予測していいものではないから、何も準備をしてなくて当たり前なのよ。お葬式ならともかく、お通夜はどんな格好で行ってもいいの。仕事着のまま行ってもいいのよ」
靴も服も、通夜には決まりは全くないらしい。
僕はタロットクロスを丸めて、タロットカードをポーチに入れて、パンダの描かれたバッグに片付けた。パソコンも片付ける。
「かーくん、荷物を置いて来た方がいい。俺も、シャワー浴びて着替える」
季節は少しずつ涼しくなってきていたが、厨房は暑い。汗だくになる寛は一度部屋に戻ってシャワーを浴びて着替えるつもりだった。
僕も部屋に戻って荷物を置いて来て、祖父母に大学の入学祝いに買ってもらった革の鞄に持ち替える。
シャワーから出た寛は、黒いシャツに綿のパンツですっきりとした姿だった。
電車とバスを乗り継いでお通夜のある葬儀場に行く。
葬儀場にはひとはほとんど来ていなかった。
ご家族らしき人たちも淡々としている。
「この度はご愁傷さまでした」
僕が挨拶をすると、ご家族らしきひとたちは頭を下げただけだった。お香典袋を出すと、香典返しの紙袋を渡される。
もうこのひとたちにとっては、寛の父親は亡くなることを覚悟した相手だったのかと用意のよさに察せられる。
そのときの僕はお通夜やお葬式に行ったことがほとんどなかったので、そういうものは業者が手配すると知らなかったのだ。
ご家族らしきひとたちの態度も僕の勘違いを助長させた。
焼香台の前に通されてもひとはほとんどいない。
焼香を済ませると、ご家族らしきひとたちからお茶を出された。
「本日は来ていただきありがとうございました」
「いえ……」
ご家族らしきひとたちは寛が誰かも分かっていないようだった。
お茶を飲んでいると、寛の隣りの席に化粧の濃い女性が座る。
「寛じゃない。あんたたち、まだ一緒に暮らしてるの?」
「どうでもいいだろう」
「あいつがくたばるなんてね。まぁ、酒も飲む、タバコも吸うで、長生きしそうになかったけど」
女性は下品に笑っている。その声がご家族らしきひとたちに届いても気にならないようだ。
僕が黙っていると、女性がじろりと僕を見た。
「寛の結婚の邪魔にならないでくれるといいんだけどね」
「あれだけ放置したくせに、親の面をして口出しするな!」
寛の怒号が飛んで、女性は「あぁ、怖い」と肩をすくめて立ち去って行った。
僕も寛の肩に手を置いて落ち着かせて、帰ることにする。
帰る途中で僕は黒い影に追いかけられていることに気付いた。
黒い影は僕に危害を加えるつもりはないようだが、泣いているようだ。
『すまなかった……寛……すまなかった……』
僕はすぐにこの黒い影が寛の父親だということに気付く。
これが死神のカードの示していたことなのか。
「ゆーちゃん、お父さんが追いかけて来てる」
「なんだと?」
「謝ってるよ、ゆーちゃんに」
黒い影は寛に向かって語り掛けている。
『お前を置いていくんじゃなかった。新しい家族も、結局、最期には俺を見放した。病気の俺の見舞いにも来なかった。お前は俺が懐かしかっただろう? 恋しかっただろう?』
こうやってひとは死んだ後に思念になっていくのだとよく分かる。
自分の思い込みを強くして、それだけに執着して、醜く他人を攻撃するようになる。
僕は黒い影が言っていることを一言一句間違いなく寛に伝えた。
寛の眉間にぴしりと皺が寄る。
「俺には見えないし、聞こえない。そいつの言っていることは、聞こえない、見えない相手に対する自己満足だ」
言い切った寛だが、僕はこの黒い影が変質していくのが怖かった。
このままでは歪んでそのうちに周囲を攻撃するようになるのではないだろうか。
今ですら家族への恨み節を呟いている。
こういうときはタロットカードに頼る。
部屋に戻ってから、僕はテーブルにタロットクロスを広げて、タロットカードを引いた。
出たのは、ワンドの五の逆位置。
意味は、勝ち取る。
逆位置なので、相手を打ち負かすという意味がある。
『そのまま放っておいてもその影は強い思念になって周囲を呪うだけよ。今のうちに打ち負かしておいた方がいいわ』と猫又の声が聞こえた。
「ゆーちゃん、お父さんのこと、ちゃんと天に送ってあげよう」
「そうするだけの価値のあるやつか?」
「そうしないと、僕や周囲に迷惑がかかっちゃうよ」
「それなら、やる」
天に送るのは納得できないが、放置しておくと迷惑をかけるという点では寛は納得してシャドーボクシングを始めた。
寛の真ん前に立っているので、黒い影はぼこぼこに殴られて、散り散りになって消えていく。
『ゆ、たか……』
縋るような声すらも、寛には届かない。
僕はそれを聞かなかったことにした。
「結婚の邪魔なんて、思ってないからな」
「分かってる」
「かーくんにも、思って欲しくない」
お通夜で寛が母親に言われたことの方が、寛は気にしていたようだ。
「思わないよ」
答えた僕に寛は胸を撫で下ろしたようだった。
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