第26話 彼女はなにを拒んでいるか

 途中途中で立ち止まり、時には迂回しながらひらけた道のりを進む。

 目的地までそれほど離れていなかったこともあるが、絶鬼を倒してから一度も鬼と遭遇せずにすんだのは兎呂のおかげだろう。ドーム球場を一回りも二回りも小さくしたような建物の前に到着し、そのてっぺんを見上げる。

「ここの三階、って言ってたよな」

「そうです。三階が最上階なので、このドーム型のてっぺんに当たるところですね」

「中に鬼は?」

「分かりません。ここまで来ると、みのりさんの妖力にほとんどかき消されてしまって判別不能ですね。建物自体は無事なので、ヤバイ鬼はいなさそうですが」

 もう一度、升の中身を確かめる。

 MPがもう三分の一しか残っていないのに、ラスボスのダンジョンに突入する魔法使いはこんな気持ちなのだろうか。湧き上がりかけた弱気を殺して、前を向く。

「行こう」

 今は全開になっている入り口のすぐ近くには、カードキーを差し入れる装置のようなものがついていた。普段は関係者以外が立ち入れないようになっているのだろう。

 ドームの中に入ると、正面に扉があり、左右には緩い曲線を描く通路が伸びていた。

「正面の部屋はお針子たちの共有スペースです。一階は基本的に、お針子たちの生活居住区になっていますね。ちなみに二階への階段は、ドームの円周をぐるりと囲っているこの通路上にあります」

「どっちに行けばいい?」

「直近の階段までの距離はどちらも変わらないので、お好きな方へどうぞ」

 どっちに進んでも一緒なら特に悩む必要もない。なんとなくで左に進む。

 ドームの円の内側に当たる壁には、等間隔に扉がついていた。この扉の先の一つ一つが、お針子たちが普段暮らしている部屋なのかもしれない。

「やはり、ここでも多少の戦闘はあったようですね」

 この中のどこかに、みのりの部屋もあるんだよな。

 そんなことを考えながらよそ見をして歩いていたが、兎呂の言葉で正面に目を向ける。

 通路の先の壁や天井には、遠目からも分かるくらいに血痕が飛び散っていた。

 床のそこかしこには、餓鬼の死体が転がっている。

「……なんかこう、鬼とはいえ、何回見てもやっぱ気持ちいいもんじゃないよな」

 自分が最先端の武器を使わせてもらっているからこそ言えるだけの本音が、ついぽろりとこぼれてしまう。

「あ、ごめん。別に『らいこう』の人たちを非難してるわけじゃないんだけどさ」

「いえ、おっしゃりたいことは分かりますよ。殺生など、しないですむならしないに越したことはないんですから」

 次元の壁という境界線が壊れなければ、鬼という異形と戦うことだってなかっただろう。

 その境界線が壊れた時、そこに人の血が流れるか、鬼の血が流れるか。違いがあるとすればそれだけだ。

「鬼を殺さずに次元の向こうに還す鬼退治武器が、成海さんのような新しい世代のお子様にしか使えないというのも、なんというか示唆的ではありますね」

「なんだよ、イヤミか?」

「誰かの犠牲や殺し合いがなくても成り立つかもしれない、優しい未来への期待ですよ」

 鬼たちが流した血を踏み越えて、さらに先へと進んでいく。

 周囲を警戒しながらゆっくりめに歩いていくが、幸いにも動く鬼には遭遇しなかった。やがて緩い曲線に合わせて作られた、上り階段が見えてくる。

 ほっとすると同時に、喉の奥から緊張がこみ上げてくる。

 この階段を上がっていけば、みのりはもう、すぐそこだ。

 警戒を緩めないように一歩一歩、階段を上っていく。二階に上がると、三階への階段はすぐ目の前にあった。二階をうろついているかもしれない鬼に襲われないよう、通路にも目を走らせる。

「成海さんっ!」

「え?」

 通路に目を向けた一瞬に、それは起こった。

 上の階から、ガラスをひっかいたような奇声が降ってくる。

 どん、となにかが身体を揺さぶった。

 体当たりしてきた兎呂が、わらわらと降ってきた餓鬼の攻撃線上から俺を押し出す。

「兎呂っ!」

 二階の通路側に押し出された俺の代わりに、兎呂が餓鬼のターゲット上に残る。

 次々と飛びかかってくる餓鬼たちの爪や牙を、兎呂は紙一重でかわしまくった。餓鬼たちの何匹かは勢いあまって一階への階段を転がり落ちていき、何匹かは床に貼りついて態勢を立て直す。

「くそっ、こんな不意打ちありかよ……!」

「なにやってんですか! 今のうちにとっとと上に行ってください!」

 カバンの中に手を突っ込んだ瞬間に、兎呂が怒鳴る。

「は? お前なに言って……!」

「こんなところで豆を使ってどうするんですか!」

 豆をつかんで、投げる直前にぴたりと動きを止める。

「ご心配なく。この鬼たちをうまくまいたら追っかけますんで!」

 餓鬼の群れに囲まれながら攻撃を避け続けるのは、さすがの兎呂でも簡単ではないのだろう。

 余裕などみじんもないはずなのに、餓鬼たちを引きつけるために兎呂が両手を打ち鳴らす。

「さあさあ、鬼さんはこちらですよ! リアル鬼ごっこ、俊敏かつクレバーなこの私が受けて立とうじゃありませんか!」

 ぐっと下唇をかみ、つかんだ豆を升に戻す。

 俺から餓鬼の群れを引き離すために、階下に降りていく兎呂とは逆に、俺は三階への階段を一足飛びで駆け上がった。

 一度だけ後ろを振り返ったが、餓鬼たちはこちらにはついてこない。三階に到達すると、そこは踊り場のような空間になっていた。目の前をふさぐ壁には、『次元制御室』と掲げられた扉が一つだけついている。

 俺は二回、深呼吸をした。

 緊張を吐き出し、上がった心拍を整える。

 こんな俺のわがままを、兎呂は自分の身を挺してまで汲んでくれた。

 これはもう、俺一人のわがままじゃない。

「よし……っ!」

 意を決して、俺は目の前の扉に手をかけた。

 物理的にも心理的にも重厚なその扉を、自分の手で押し開ける。

 開かれた視界の先に広がったのは、広く、人工的な空間だった。

 薄暗い空間をぼんやりと照らす光の正体は、半円球の壁天井を埋め尽くすように設置されたモニターだった。無数のモニターの各々に、都市部や住宅街、山村や海岸などのあらゆる風景や、座標を重ねた地図などが映し出されている。

 そんな部屋の中央にもう一つ、淡い光を放つ存在がいた。

 その存在を、白衣やスーツ姿の大人が数人、遠巻きに囲っている。中には武器を手にしている人間や、白紫色の髪をした人間もいた。彼らの視線が、いきなり制御室に押し入ってきた俺に集中する。

「ちょ、ちょっと君……どうしてここに? いったいどこから……」

 一番近くにいたスーツ姿の大人に声をかけられる。

 その手には、サイレンサー付きの拳銃が握られていた。

 その銃口は、いったい誰に向けられようとしていたのだろう。

 目の前の現実に、憤りとうすら寒さを感じながら、部屋の中央に向けて足を進める。

「地域保安員に採用された学生、か……?」

「君! 危ないから下がりなさい!」

 思い思いの言葉を口にする大人たちの輪を割って、俺は広い部屋の中央にうずくまっている〝それ〟に近づいた。

 まず目についたのは、高い天井に向かって突き出した、コウモリのような薄い翼だ。その周囲を、白紫色の長い髪が下からあおられるようにふわふわと漂っている。

 鬼の特徴であるねじれた角は、右側だけに生えていた。

 深くうなだれているので、表情まではうかがえない。

 破れて布の破片と化した衣服をまとっていて、その隙間から生えた四肢は、獣のような白紫色の体毛に覆われていた。両手首足首には、太い鎖とつながった枷がはめられている。

 そして左の手首には、枷のほかに、もう一つ。

 ……ああ。

 あんなことがあったのに。俺は君を助けられなかったのに。

 まだ、それをつけてくれていたんだな。

「それ以上近づいちゃいけない!」

 さらに一歩、前に進もうとした俺の肩を誰かがつかむ。

 俺は反射的に、その手を振り払っていた。

「こんな……閉じた場所で、大人数に囲い込まれて……」

 怖いよりも、悲しいとか切ないとか。多分、そんな感情が上回っていた。

「銃や刀を向けられて、さ。そんなん、身を守るのが当たり前だろ? 自分を殺そうとしているやつらを、近づけたくなんかないんだろ?」

 大人の事情など、知ったことじゃない。

 胸の奥から湧く、怒りにも近いなにかが原動力となって俺を前へと進ませる。

「なあ、そうだろ? みのり」

 桃色数珠のブレスレットを身につけた、幻想的なその鬼に手を伸ばす。

 バチン。

 分厚い壁に触れるような感触とともに、指先に電撃が走り、思わず手を引っ込める。

 やけどにも近い熱と痛みに指先を見ると、親指と薬指をのぞく三指から血が流れていた。

「痛って……」

「だから言っただろう、近づいてはだめだと……! 刃物も弾丸も受け付けないんだ。人間の身体など、下手に触れようとすればひとたまりもない」

 俺を止めようとしたスーツの大人が、再びいさめてくる。

「この鬼が、北条みのりだと知っているんだな? 君と彼女の間になにがあったかは知らないが、見ての通りだ。今の彼女には会話も通じないし、妖力の暴走も止まらな――」

「会話……?」

 現状を説明しようとする声を、俺は視線でさえぎっていた。

 ずいぶんと都合のいい言葉選びだな。

 そう思いながら、自分の父親くらいの歳の人間をにらむ。

「会話ってなんだよ。武器を持って取り囲んで、もう殺すしかないから納得してくれ、ってせがむのが会話なのかよ」

 いら立ちに任せて、つい心のままを口走ってしまう。

 ……いや、これじゃさすがに、俺も少し言葉が悪いな。

 冷静になるために、ゆっくりと息を吐き出す。

「……すみません。少しの間でいいんで、俺とみのりを二人だけにしてくれませんか?」

「君! 今の話を聞いていたのかね!」

 少し離れた場所にいた、白衣のじいさんの叫びが割って入ってくる。

 目の前の、スーツの男もかぶりを振った。

「それはできない。むしろ、君の方こそ出ていってくれ。もしも君の身になにかあったら、我々は責任が取れない」

「自分のことです。責任なんて取ってくれなくて構いません」

「君はまだ未成年だろう。そういうわけには……」

「ちょっと、待ってくれないか?」

 またしても、別の大人の声が割って入る。

 ただしさっきと違うのは、その声に場の空気を止める、不思議な力があったことだった。

 俺もスーツの男もしゃべるのをやめ、声の方を見やる。

 そこにはみのりと同じ髪の色をした、白狐の面が立っていた。

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