第25話 近所の犬が怖い小学生は全力で逃げていい

 敷地内に入ってすぐのところにある花時計はぐちゃぐちゃに荒らされていた。

 踏まれた、というよりも、食い荒らされたという感じだ。鬼は花まで食べるのだろうか。花壇に群がる餓鬼の姿など想像しながら、前に出た兎呂のあとについて走る。

「みのりのいる部屋はどこだ? こないだのビルじゃないのか?」

 兎呂は正面のビルをスルーして、花時計の左右に伸びている道を右に進んだ。ところどころで背の低い植樹が折れていたりはするが、ぱっと見、思っていたよりも大きな損壊はないようだ。

「この前来ていただいたところはオフィスです。次元制御室はお針子たちの生活居住区と一緒の建物にあります」

「ほかのお針子たちは?」

「『らいこう』社員と鬼の討伐に当たる者と、みのりさんが裂いた次元の壁をかたっぱしから縫合する者の二手に分かれて動いてもらっています。うち数名はみのりさんの暴走を止めるために制御室に向かったようですが、現状を見る限りでは解決には至っていないようですね」

 プレッシャーから、無意識に息をのむ。

『らいこう』に連れ戻されたあの日、みのりは手を触れることすらなく、一瞬で餓鬼たちを次元の向こうに還してみせた。

 あの時のみのりと同じ力を持つお針子たちにどうにもできないなら、それこそ俺が真正面から豆をまいてもあまり意味がなさそうに思える。

「不安になりましたか? じゃあ少しだけ、元気が出る話をしましょうかね。説明が難しいのですが、鬼退治武器とお針子たちが行う鬼の返還は仕組みが違うのですよ。お針子たちは確かに妖力を操りますが、彼女たちに妖力を〝削る〟という概念はありません」

「さっき言ってた、鬼退治専用武器ならもしかしたら、っていうのはそういうことか」

「そういうことです。希望的観測には違いないですけどね」

 希望的観測で充分だった。

 たとえどんなに小さく頼りないものでも、希望さえあれば前に進める。

「ちなみに『らいこう』社員もほとんど街中に出払っているはずなので、加勢も期待できませんからね。作戦は常に、いのちだいじに、でお願いしますよ!」

 その兎呂の言葉が合図になった。

 進行方向、広い道の先に大型犬のような影が現れる。

「……あのおぅわっ!」

 あの鬼は? と兎呂に尋ねるつもりが、途中で悲鳴に変わる。

 黒い毛並みと、額に反り返った角を持つその鬼は、こちらに気付くやいきなり襲いかかってきた!

 身体的スペックの勝負になったら、人間は絶対鬼には勝てない。逃げ回るよりは即反撃、というのがこれまでの鬼退治経験で培った鉄則だ。噛みつき攻撃を避けると同時に、豆をつかんで投げつける。

「これは絶鬼という鬼です。俊敏なので早期決着をおすすめします!」

 さっきまで隣にいたはずの兎呂の声が、えらく遠いところから聞こえてくる。

 さんざん心配してくれてたわりに、意味分からんくらい逃げ足速いな、あいつ。

 猛鬼が赤虎だとしたら、絶鬼は黒狼、といったところか。

 一投目があらかた命中したおかげで、絶鬼は大きくのけぞった。猛鬼に匹敵するほどのスピードがあるが、人鬼ほどの体格はない。それでも直感的に、二投目を大きくつかむ。

 俺が選んだのは豆を節約することよりも、この二投目で確実にこの鬼を倒すことだった。

 再びこちらに牙を剥いた、その顔面に力いっぱい豆をぶつける。黒い煙が盛大に噴き上がった瞬間、俺は初めて絶鬼から距離を取った。

 念のため升に手を突っ込んだまま身構えておくが、胴体しか見えなくなった絶鬼はそのままばたんと真横に倒れてくれた。黒い煙が黒狼の全身に回り、ぶすぶすと空間に溶けて消えていく。

「どうやら私の的確なアドバイスが効いたようですね」

 秒で安全圏に避難していた兎呂が、しれっと戻ってくる。

「まあ……即倒さないと厄介なことになりそうな気がしたのは確か、だけどな」

「? その心は?」

「多分、この絶鬼は、俺の武器とは相性がよくない」

 群れるが一発で気化できる餓鬼のような鬼や、身体が大きい鬼に対しては、遠距離広範囲に攻撃できる豆は強い。

 が、縦横無尽に動き回って的が大きいわけでもない、このタイプの鬼はおそらく豆の天敵だ。

「ちょこまか動かれたら豆、当てづらいしな。刀とかの武器と違って、俺は近づかれてもとっさに防御できないし」

 そう、焦ってうっかり升を振り上げたりしようものなら、地面にぶちまけられた豆とともに俺も終わる。

 そんなダサい終わり方だけは、なにがなんでも避けなければならない。

「ふむ、さすがはプロの豆まきラーですね」

「勝手に変な称号を作るな」

「そんな成海さんに一つ、いいことを教えて差し上げますね」

「なに?」

「狼って群れで行動するんですよ」

 自分の顔面から、さっと血の気が引いていくのが分かった。

 顔を上げてあたりを見回す。

 目標捕捉。約百メートル先に三匹、いや、四匹の黒い狼の影。

 うち一匹の頭がこちらを向いた瞬間、俺は全力で逆方向にスタートダッシュを切った。

「ちょっと成海さん! さっきまでの意気込みはどうしたんですか!」

「お前こそ、いのちだいじに、はどこいったんだよ!」

「絶鬼相手に走って逃げたって追いつかれますよ! ……ほら、四十、三十、残り二十メートル!」

「え? いやあああこれは無理! 無理だって!」

 走りながら後方を振り返り、悲鳴を上げる。

 ほんのついさっきまで離れていた絶鬼の群れは、バフバフ吐息を吐き散らしながら、もうすぐそこにまで迫っていた。

 今なら近所の犬に吠えられておびえる小学生の気持ちが分かる。痛いほど分かる。

「くっそ……!」

 俺は振り向きざまに、豆を広範囲にばらまいた。ひるませるくらいはできたが、餓鬼とは違い、一粒二粒当たったくらいではどうにもならない。

「そうだ、木だ! 木に登れ俺!」

 犬とか狼は木に登れない、はずだ!

 相手がイヌ科ではなく鬼であることはすっかり忘れて、若干錯乱気味に自分に言い聞かせる。

 木登りなどほとんどしたことはないが、今はそんなことを言っている場合じゃない。升をいったんカバンに押し込み、道に沿って等間隔に並ぶ植樹の一本に飛びつく。

「うおあああああ!」

 これが火事場の馬鹿力というやつだろうか。幹のわずかなでっぱりやくぼみを手掛かりにして、駆け上がるように三メートルほど上の枝に到達する。

 俺が枝にまたがると同時に、追いついてきた絶鬼が一匹、下から飛びかかってきた。

 が、その爪は木の幹を削るだけで、こちらにまでは届かない。

「よ、よし……っ!」

 俺は即座にカバンの中に手を突っ込み、木の下に集まってきた絶鬼たちに向けて豆をまき散らした。必死な俺とは対照的に、兎呂は軽やかなツーステップで隣の枝に着地する。

「はなさかじいさんならぬ、はなさか高校生爆誕ですね」

「それは俺も思ったけど今それどころじゃない」

 灰の代わりにまいた豆は、格好の的となった絶鬼の上に次々と降り注いだ。昔話のように花が咲く代わりに、黒い煙が眼下にもくもくと立ち込める。

「……やったか?」

 いっせいに上がった黒煙が薄らぐのを待って、枝の上から下をのぞき込む。

「ほぼ動けなくなってはいるようですが、まだ二匹、実体を保っていますね。まぁもう数十秒も待てば、自然に次元の向こうへ還るでしょう」

 豆を温存したいという俺の意図を察して、兎呂が絶鬼の様子を分析してくれる。

 確実に倒した、と言えるだけの豆をまければいいのだが、なにせ俺の戦闘力は升一杯分だ。ここで無駄豆を使うわけにはいかない。

「はあ……こんなんじゃ先が思いやられるな」

 絶鬼が自然消滅するのを待ちながら、手元の升に目を落とす。

 この前に猛鬼と戦っていることもあって、升の中身はもう三分の一ほどしかない。

「制御室って、遠いのか?」

「いえ、少し先の、あのドーム型の建物、見えますか? あそこの三階です」

「みのりを助ける以前に、まずみのりのところにたどり着くまでに豆が持つかどうかだよな」

 ため息をつきながら、もう一度木の下を見やる。

 残っていた二匹の絶鬼が濃い霧になってかき消えるのを見届け、重い腰を上げる。疲れてはいたが、いつまでもここでじっとしているわけにはいかない。

「研究所内に出現しためぼしい鬼は、あらかた『らいこう』メンバーが討伐しているはずです。中型クラス以上の鬼に遭遇することはないと思いますが……」

「みのりのバリアが一発で破れるとは限らないし、破って終わり、ってことにもならないだろ、多分。ともかく今は豆一粒だって無駄にはしたくない」

 これが豆じゃなくて銃の弾なら、少しは格好いいセリフになるんだろうけどなぁ……

 現実逃避的にそんなことを考えながら、登った時の三倍くらいの時間をかけてじりじりと木から降りる。

「面倒見ついでに、もう一つわがまま聞いてくれるか?」

「なんですか?」

「建物の中にまで鬼がいたら難しいかもしんないけどさ。多少遠回りになってもいいから、ここから制御室に着くまでの間、避けられる戦闘は全部避けたいんだ。案内、頼めるか?」

 ようやく地面に到着した俺のすぐそばに、兎呂が危なげなく着地する。

「……これだけ妖力が充満している中で、低級な鬼を感知し分けるのは難しいのですが……」

「そこをなんとか! できるだけ、でいいからさ」

「……分かりました。これも乗りかかった船ですからね。ただし、結果的に豆が切れて、鬼に食われても化けて出ないでくださいよ?」

 妖力を感知できる兎呂の耳が、ぴこっと動く。

「ありがとう。助かる」

「なんですか、やけに素直じゃないですか」

「そりゃそうだろ。鬼退治を避けるのも、みのりを助けたいのも……全部、俺のわがままなんだからさ」

 しばらく無言で耳を動かし続けていた兎呂が、進行方向を定めて四つん這いになる。

「……ちょっとだけ、大人になったんじゃないですか? ちょっとだけですけどね」

 こちらの反応を待たずに走り出した兎呂を、俺は慌てて追いかけた。

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