十.今一度夜に駆けて

 真夜中、桃子が自室でぐっすりとデパ地下から出られない夢を見ていると、


「んぐ……、う」


何かがと上に乗っかった。異様な圧迫感にぼんやり意識が戻る。八割夢中二割現実。するとその何かは焦れているようなハァーハァーという吐息を桃子の顔のすぐ近くで繰り返している。


「ううーん……?」


桃子が少しずつ覚醒しつつある中、それは遂に


ベロン、と桃子の頬を舐めた。


「おおう!」


思わず桃子が飛び起きるとそこには


「あ、なんだ。大五郎ですか」


飼い犬である大五郎がいる。


「もう、こんな夜中にどうしたんですか?」


桃子が大五郎を抱き寄せて撫でてやると、


「やっと起きたか」

「ぎえっ!」


大五郎は低い女の声で唸るように独りごちた。桃子は驚きのあまり


大五郎を抱き締めた。


「わぁー大五郎! 遂に言葉が喋れるようになったんですね! えらい! えらいぞぉ! 繰り返し繰り返し『ポ◯モン』のニ⚪︎ースが言葉を覚える回を見せた甲斐がありました!」

「違わいっ!」


大五郎が大声で否定する。なんだかその声は苛立ちと焦りが滲んでいるようだ。


「どうしたんですか大五郎。普段は吠えない良い子なのに」

「呑気言ってないで表に出て」

「ん?」


なんだかいつもより低い感じの声だし何より桃子が寝起きだったので気付かなかったが、声をよく聞いていると


「紡さん?」

「そうだよ。事情は後で説明するから、可及的すみやかに下まで降りて来て。出掛ける支度も忘れずに」

「えぇ、急になんですか、この真夜中に。非常識ですよ」

「飼い犬に手を噛まれたいか?」

「乗っ取っといてよく言いますね!」


正直今の桃子にとって紡はあまり会いたい相手ではないのだが、断れる剣幕をしていないので桃子は渋々上着だけ羽織って玄関まで出た。






 桃子が玄関を開けるとそこには寝巻きのまま飛び出して来たといった風情の、金盞花きんせんかの浴衣を着た紡が煙草の煙を揺らしながら愛車の運転席に座っている。


「どうしたんですか。一体なんですか」

「まずは乗って」


彼女の声は、ゆったりしながらも有無を言わさぬ響きがある。桃子が空気に負けて助手席に座ると、車は素早く発進した。






「ぬーがいなくなった?」


桃子はポッカーンとしているが、紡は逆に眉根が険しい。


「そうだよ」

「ちょっと待って下さい、どういうことですか?」

「そういうことだよ」


よく見ると紡は自分でハンドルを握っている。そして法定速度を無視した猛スピードで夜の町を走り抜けて行く。式神の安全運転すらもどかしい焦りがあるようだ。

本来なら桃子も警官として咎めたいところだが、話題が話題だけにそれどころではない。


「ねぇ桃子ちゃん」

「なんでしょう」

「あの子、桃子ちゃんのことや他の人のこと、チラとでも食べようとした?」


桃子は紡の質問の意味を考える。


「ま、まさか! そんなことありません! 私のことだって今まで会った誰のことだって、あの子は食べようとしませんでした! 誓ってあの子は人を食べたりしません! だから!」

「だから?」


紡は横目でジロリと桃子を見る。さっきまで大慌てで釈明していた桃子が、今度は急にしおらしくなる。


「だから、人を食べに抜け出したとかじゃないはずです……。退治、しないで下さい……」


紡は何も言わない。前を見据えて車を飛ばしている。


「紡さん!」

「何も言ってないじゃない」


そう突き返されると桃子も何も言えなくなった。気不味い沈黙になったので、桃子は何かしら話題を振ることにした。


「そう言えば、どうして紡さんが『あの子がいなくなった』って知ってるんですか? その、やっぱり……」

「やっぱり?」


紡はもう桃子の方を向かない。ひたすら前を見ている。


「やっぱり知ってたんですよね? 私があの子を交番に匿ってたことは。山に帰しに行って、後で私がこっそり迎えに行った翌朝には交番に来たくらいですし」

「うん。君が食われてないか確認にね」


紡が新しい煙草を咥える。元から喫煙者の紡だが、その動きには何処か「普通に吸いたい」と言うより、精神安定剤として使うような動きの雰囲気がある。


「あの、あれだけ言われて勝手に連れ帰ったことは申し訳無く思いますけど、こればっかりは仕方無いんです」

「いや、それは責めないよ。どうせそうなるだろうとは思ってたし。それより『どうしてあの子がいなくなったのを知ってるのか』だったね。簡単だよ。つばきちゃんが見えない状態で交番に常駐してたんだ。桃子ちゃんが襲われでもしたらすぐに対応や連絡が出来るように」

「そ、そうだったんですか……」

「思わぬ方向への保険になったけどね」


正直「ぬ」を捨てて行けと言われた時は心底腹が立った。なのにその裏で自分のことを気にして見張ってくれたり「ぬ」がいなくなったら動いてくれたり。桃子は頭の中が整理出来なくなってきた。

なので譫言うわごとのように自分の偽らざる気持ちを吐き出す。


「お願いです……。あの子を見付けても、殺さないで下さい……」


言葉と共に涙も溢れる。それに対して、さっきは無言を貫いた紡がふっと笑った。


「また言ってる。殺すなんて、今頃? そのつもりなら連れて帰ってるって分かった時点で即行動するけど。人喰い妖怪を二日三日放置する理由無いし」


今度はしっかりした言質げんちがある。桃子は思わず


「紡さん!」

「危ない危ない!」


運転中の彼女の腕に抱き付いた。紡は桃子を押し剥がすと、少し低い声を出した。


「ねぇ、確認だけど」

「なんでしょう」

「本当に桃子ちゃんのことも、誰もチラとでも食べようとしなかったんだね?」

「はい!」

「そっか」


紡は一瞬だけ悲しそうな瞳をする。そして、


「じゃあつばきちゃんが追跡してくれてるから、あの子を迎えに行こうか。……覚悟はいいね?」

「はい! お願いします!」


固く、決意の強さのように拳を握る桃子に、紡はさっきより一段低い声を出した。


「本当に、覚悟はいいね?」

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