第4話 燕よ燕
――燕よ燕
ファラがその唄を歌い出すと、頬杖をついて寝台に横たわっていたトゥパク・ユパンキは静かに目を閉じた。
――海風がおまえを招く
暖暖、南方の風
出会えよ、紡げよ
羽根、翻し
相鳴き、
睦めよ、燕――
歌は朗々と流れる。それは北の地の歌だった。トゥパク・ユパンキは、この耳に新鮮な歌の調べにゆったりと心を委ねた。
――燕よ燕
海渡りておまえは来たる
語れよ、教えよ
彼の人、息災なるかを
声泣き、
答えよ、燕――
この歌はカタニアという土地で唄われるサリュートと呼ばれる哀歌である。この海に面した貧しい土地に生まれた男たちは、富と栄達を夢見て、次々と海へ乗り出していった。男たちの帰りを待つ女たちは、南の海を眺めながらただサリュートを唄うだけであった。
一座にカタニア出身の女がいて、ファラは彼女からサリュートを教えてもらった。女の名はユーリアという。
――燕よ燕
海越えておまえは去る
漠漠、南方の空
伝えよ、知らせよ
我、変わらずして在るを
彼よ聞け、恋恋
届けよ、燕――
ファラは部屋隅に座り、膝に抱えた
ファラは物悲しく唄う。しかし唄うファラの心に漂う悲しみは、サリュートが唄う悲しみとは別のものだった。
(待つ人がいるだけでも幸せでしょうに)
ファラはユーリアのことを思った。
男を待たずに故郷を出たこの女は、しかし砂漠を越える途中で死んだ。その赤味を帯びた金色の自慢の髪を、誰にも撫でられることなく。
ファラは二弦琴をつま弾く。
(私たちには歌を唄う相手も、唄ってくれる相手もいない――)
ペトロはファラを三万グルテン相当の金塊に換えた。今やファラは目の前の寝台に横たわる男のものだった。
歌声は絶え、曲が尽きた。
トゥパク・ユパンキはしばし静寂を楽しむように目を閉じていたが、やがておもむろに目を開きファラを寝台に手招いた。
「よい歌だった。歌の内容がわからないのは残念だが」
半身を起こしたトゥパク・ユパンキは、自分の横にファラを迎え入れる。
「お前は美しいな」
トゥパク・ユパンキはファラの瞳を覗いて呟いた。
「……その目だ。お前は……怖くはないのか?」
言葉を解さないファラは、その問いに答えることなく目の前の男の顔を見続けた。
「畏れないのであれば、それでいい」
トゥパク・ユパンキはその目を緩く細めると、満足げにうなずいた。そしてファラの小さな足を手に取って、その足先に厚い唇を触れさせた。
一点に熱が降りた。
皮膚を這う男の舌のざらりとした感触が、あたたかい息とともにゆっくりとファラの脚を上っていく。その漏れる息は低く、深い。男の指はぬくもりを求めるように肌を走り、やがてファラの手首に行き着いて、その小さな
ファラの視界に男の顔が見える。
(――孤独な顔)
その表情は
男の節くれた指が繊細にファラの衣服を脱がす。あらわになる
男の腕が背中に回った。
熱が身体を染めていく。
(――何故だろう?)
ファラの脳裏に疑問が浮いた。身体を焼くこの熱は、しかし燃えれば燃えるほどに、ファラの心を凍らせていくのだった。
(――痛い)
凍てついた心に熱が触れるたびに、その痛みは鈍く響き、耳の奥底で軋んだ音を鳴らす。
(すべて棄てたつもりだったのに――)
凍った心から生じる疼くような鈍痛の底には、微かなぬくもりがあった。それは淡くほのかなぬくもりで、そのぬくもりがこの熱に焼かれてしまうのを防ぐように、ファラの心は氷よりも冷たく凍てついていくのだった。
(――まだ、痛いのね)
男の唇がファラの唇を閉ざした。
潤む瞳がこぼした涙は、男の影にまぎれて消えた。
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