第3話 美しい少年
寝所にトゥパク・ユパンキの訪れを待つファラは、なすことなく部屋に佇む。簾越しに見える庭からは、水の流れる音が聞こえてくる。
甘く花の香を含み、部屋にかようのは水の匂いか。
ファラはたゆたう
貧しい寒村に生まれたファラは、幼い時分、口減らしのために人買いに売られた。そして奴隷として旅芸人のペトロ・コステロに買い取られてから十年になる。そんな娘が今は異国の地で寝所に王の訪れを待っている。
(確かに三グルテンで私を売った両親も、娘が一晩でこれだけの稼ぎをするようになるなんて思わなかったでしょうね)
ペトロの言葉を思い返してファラは少し笑った。
ファラはおもむろに立ち上がり、簾を払う。
月下煌々。
広大な宮殿に連なる幾十もの高楼を飾る
ファラは満ちた月を見た。
(けれど私になにが残るというのかしら)
見上げる月の真円が、しかし明日には欠けていってしまうものであることを、すでにファラは知っていた。
(――みなが私の上を過ぎていって、私を奪って去っていく)
金の鎖はもうファラの手の内にはない。あるのは
(――それもまた奪われる)
花は淡麗に浮かび、草葉は陰影に沈む。
ファラはその狭間に自らの影を見た。
光陰の定まらない境界。
浅い夢のまどろみに形を結ぶ幻にも似た儚い影は、しかしその一瞬に確たる感触となって
奪われ消えるこの一瞬を肌に染み付けるように、ファラは
「
不意の声が訪れた。それは宴に聞いたトゥパク・ユパンキの太く通る声とは違う、高く澄んだ若い男の声だった。
驚きに視線を落としたファラは、はすむかいの回廊に立つ人影を見た。
「
微笑。
美しい少年がそこにいた。
年の頃はファラと同じくらいだろうか。幼さを帯びる女性のような目鼻の丸みに、くっきりとした顎の線が確かな男性の影を走らせている。
それは不確かな輪郭がわずかな時の隙間に覗かせる、刹那の美しさであった。
「トウリ様。おそらくは今日の宴に招かれた北の地の者でしょう。彼の地の者は白い肌をしていると聞いております」
ファラが少年に見とれていると、少年の後ろに従う女性が口を開いた。袖と裾を赤糸で縫い取った純白の長衣を着たこの女性は、まっすぐ横に引かれた眉に凜とした高潔さを感じさせた。少年の側仕えのように思われたが、厳かな雰囲気を漂わせるそのたたずまいは、普通の侍女のようには見えなかった。
「そういえば今夜は『鏡月の宴』でしたね。そうですか、貴女は北の地の人ですか」
トウリと呼ばれた少年は回廊を歩いてファラに近づくと、柔和な微笑みで彼女の身体を上から下に眺める。しかし二人の話す言葉を解しないファラは、ただ戸惑いに立ち尽くすだけだった。
少年の目がファラの目を捉える。
――深い色。
そこに見えたのは、凪いだ風に波を絶やした湖面が浮かべる、どこまでも深く見る者を誘う青のしじまのような、静穏の色だった。
「トウリ殿!」
太い声がファラの背から突然にこの静寂を破った。
「これはトゥパク・ユパンキ様。
少年とその侍女がひざまづき頭を垂れる。ファラが振り向くと、左右に従者を従えたトゥパク・ユパンキの姿がそこにあった。
「トウリ殿、
トゥパク・ユパンキは宴のときのような、金銀宝石で飾り立てた
「いいえ。それは私も同じでございます」
「トウリ殿は寛容であられる」
かしこまり答える少年にトゥパク・ユパンキはゆっくりとうなずいてみせる。
「それにしても、何故このようなところにトウリ殿が?」
トゥパク・ユパンキの問いに少年は顔を上げたが、返事をしたのは後ろに控えた女性だった。
「僭越ながら、
「なるほど、今夜はよい月です。『鏡月の宴』もすばらしい宴となりました」
月を見上げ深くうなずいたトゥパク・ユパンキは、そこでファラに目を向けた。
「こちらの少女ファラーレが、今宵の宴をもっとも盛り上げてくれました。とても美しく舞うのです。皆、心を奪われて舞い終わったときには声も上がりませんでした」
そこで少年はファラを見た。ファラは我に返ったかのように膝を折ってかしずき、額を床に付けた。おそらく少年はかなり高位の身分にある。ファラは
「ファラーレさんと言うのですか。容姿と違わず美しい名前ですね」
少年の言葉が向けられる。しかしファラはその言葉に顔を上げることができなかった。
(――あの目を見たら、また吸い込まれてしまう)
宴でファラは王であるトゥパク・ユパンキの目を正面から見返した。しかしこの少年の目を見ることはどういう訳かできなかった。
そこには熱があった。
身体の奥に熱が灯り、それは火に焼かれた肌が持つ痺れのような疼きとなって、ファラの胸から全身へと広がった。
(――私はなにをあの目に見たの?)
戸惑いを自覚するにつれて高まる動悸への驚きに、ファラはついに最後まで少年の顔を見ることができなかった。
「ではトゥパク・ユパンキ様。よき夜を」
ファラがようやくに上げた顔が見たのは、立ち去る少年の後ろ姿だった。
「ファラーレ」
トゥパク・ユパンキの手が肩に触れた。
その手は肌に冷たかった。
遠ざかる少年の残した熱が、肩の冷たさと混ざり合って溶けていく。
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