第3話 4月25日 4:56
3
朝、雀の鳴き声が室内に響く。
「……んぅ……」
ベッドの上、
十畳を超えるマナセの部屋に悠々と納まるセミダブルのベッドは、扉とは反対側の北西に置かれている。北と東には窓が配置され、今は紺色の遮光カーテンで隠れている。北東には机、南東には本棚。そして本棚の反対側、南西にはウォークインクローゼット。中央のラグにはローテブルが載せられ、その上には数種類の植物図鑑が置かれている。
悪く言えば簡素、良く言えば機能的と評価できる部屋。その主は、未だ夢路を引き返す様子は見られない。
「……きみ、は……」
時折寝言を零し、雀が鳴き止んで十五分後――。
「……んぁ~……」
マナセは漸く目を覚ました。
「……何か、変な夢見た……」
欠伸を噛み殺し、ベッドから降りて全身の筋肉を伸ばす。右腕の肘に左手を添え、十秒以上の時間を掛けて肢体を解した。
「……あれ? 何で、こんな恐る恐る身体を動かしてるんだろ……?」
首を傾げ、しかし次の瞬間には「いいか、別に」と疑問符を投げ捨てた。
寝間着からジャージに着替え、部屋を出て廊下へ。扉を開けてリビングへ入り、縁側に出て庭へ。
母から受け継いだ一軒家の小さな庭には、季節に合わせた花を植えている。今の時期はチューリップ。特に彼女が好んだ色は、赤やピンク。他には紫色など。
マナセは、サンダルを履いて如雨露で水を撒く。
「綺麗に咲いてくれて、ありがとう」
縁側に座り、暫く花壇の彩を観賞した後は廊下から奧の浴室へ。
シャワーを浴びたマナセは、タオル一枚で洗面台の前に立った。鏡の前に並べた化粧水や乳液など、母から教わったスキンケアの後はドライヤーで長い髪を乾かす。
母の存命中は十分か二十分で終わっていた作業が、今では三十分以上の時間を要する。マナセの長髪を愛した彼女は、もう居ない。悩んだ結果、結局腰まで伸びていた髪を胸元で切り揃えて貰った。
歯を磨き、タオルを腰に巻いて廊下へ出る。そのまま自室の扉を開け、ブレザーの制服に着替える。
現時点で、時刻は七時五分過ぎ。
リビングとダイニングから繋がるキッチンで冷蔵庫の扉を開け、中から鍋を出す。その中身は一週間分の味噌汁。片方のガスコンロで温め直している間、もう一方で卵焼き調理。時間通り炊き上がった炊飯器から白米を装い、最後に漬物と納豆をテーブルに並べて完成。
「頂きます」
マナセはダイニングのウッドチェアに座り、手を合わせた後にテレビを点ける。
『――今月も万年桜は見頃を維持し、来週のゴールデンウィークには観光客が多く訪れる事でしょう』
『――英国が主導する、世界で三基目の軌道エレベーター建設は順調に行われています。日本企業も多く参画する本プロジェクトは、計画通り三年後に完了する事が先日の会見で改めて発表されました』
『――火星では人口増加に伴う宅地の不足が問題視され、戸建て住宅に対して規制が検討されています』
チャンネルを回し、一通りニュースを見た後は食器を片付けて弁当を用意する。中身は昨日の夕食で余らせた鯵のフライと、今朝の卵焼き。隙間には適当な野菜を詰めて完成。
時計の針は、丁度八時を指していた。
弁当をテーブルに置いて廊下へ出たマナセは、長い髪を揺らして階段を上がる。二階の廊下を挟んで向かい合う扉を通り過ぎ、その一番奥――三番目の扉を開ける。
桃色のカーテン。レースのベッドカバー。生活感は既に無く、綺麗に掃除された女の子の部屋。その中央のローテーブルに、ハートを模した写真立て。親子が笑顔で映る写真の前で、マナセは正座と共に手を合わせる。
「行って来ます」
暫く黙祷し、マナセが家を出る頃には八時を十分ほど過ぎていた。
「おはようございま~す」
「はい、おはようございます」
「センセー、おはよー」
「はい、おはよう」
未種学園は都内でも有数の敷地面積を誇る私立校で、生徒の登下校時には北門と南門が解放される。両者を結んだ直線距離は、優に七百メートルを超える。故に、中高生が肩を並べて両門を利用していた。校門には中高の教員が毎日一人ずつ立ち、登校する生徒達を見守っている。
「おはようございます、先生」
「はい、おはようございます」
マナセも他の生徒達と同様に教員と挨拶を交わし、南門から登校する。高等部の二年生が通う第一校舎は、敷地内で最も北の校舎に当たる。
「……ねぇ、ほら見て。あの方、御十神先輩じゃない?」
「え? ――わっ、ホントだ!」
「ねぇ、誰先輩?」
「ミトガミ先輩。ある意味で、ウチの学校で一番有名な先輩だよ」
「えぇ~、もうすっっっごいキレイ! 素敵だよぉ~」
「へぇ。確かにスゲェ美人。でも、何で……えっと、ミトガミ先輩だっけ? は、男子の制服着てるの?」
「だって、御十神先輩男だし」
「実は天使だって噂も……。キャー! 流石です御十神先輩っ!」
「何が流石か分からんケド……マジで男? ……アレで、男……?」
ざわざわ、と敷地の中央を南北で結ぶ桜の並木道が喧騒に包まれる。マナセと擦れ違う生徒は必ず振り返り、北へ足を向ける生徒は自然と彼の歩調に合わせて視線を外さない。
注目を一手に集めるマナセは、微笑を顔に張り付けて歩き続けた。時折下級生から呼び止められ、写真やサインを請われる。時には男子生徒から直筆の手紙を渡され、それでも彼の笑顔が崩れる事は無かった。
二年一組。二年年の中で最も優秀な生徒が集められるクラスまで辿り着いたマナセは、窓際最前列の席で大きく息を吐き出した。
「毎朝大変ね」
古清水ミナミ。隣の席に座る彼女は、椅子ごと身体を向けてマナセに声を掛ける。
「そんな事は……まぁ、ちょっとあるけど。でも、皆良い子だから」
「ふぅん。……で、今朝のイイ子は何人?」
「……二人」
マナセは鞄から手紙を二通取り出し、机に置いた。両方共、緊張に震えて尚も綺麗な字で『御十神先輩へ』と書かれている。
「……男だけ?」
「うん、まぁ……」
「――そう。なら、いいわ」
「別に何も良くないよ~、もう……」
「いつも断ってるんだから、いいじゃない。……え? ね、ねぇ……。もしかして……つ、つ付き合うの……?」
「いや、そうじゃないけど。断る方も、気を遣うっていうか……。ね?」
「……そう」
マナセの言葉を受け、ミナミが小さく胸を撫で下ろす。
「ミナミは――……あぁ、うん」
「……何よ」
「……いや、その場で付き返しそうだなって」
「そうね。まあ、ラブレターなんて幼稚園で貰って以来だけど」
「え、そうなの? 意外かも」
「この学園に通う生徒で、古清水の娘に恋文渡すバカなんて居ないわよ」
「あぁ~……、うん」
古清水家。元々は、地方で細々と代議士を続けていた家系。しかし先々代、ミナミから見て祖父の代で急激に影響力を増した。父は現内閣の官房長官。――そして、その要因が彼女の才覚。
ミナミが三歳の誕生日を迎える頃には既に祖父へ助言を授け、六歳を過ぎた頃には六十や七十の議員が彼女の話を聴く為に自ら足を運んでいた。
ミナミは政界に於いて、その超越した才覚と美貌から――現代の卑弥呼とも言える崇拝を受けている。
その特性から政財界の子息が多く通う学園では、ミナミはマナセとは別ベクトルで有名な人物と言えた。
「……ま、まぁ……。絶対に欲しくないワケじゃ、ないけど……」
「へぇ? やっぱり、ミナミも女の子だね。凄くカワイイと思うよ」
「――か、かわっ……! ……う、うん……。えへへ……」
「はいはい皆、席に着いて。日直、号令」
ミナミが朱く染まる頬を両手で隠した頃、教室の前扉が開いた。
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