漂流学園 ~御十神マナセは、人類新興のアダム~

五味はじめ

第1話 ??日目 4:36

   1


 毛布の中で小さな呻き声を上げ、御十神みとがみマナセは目を覚ました。

 コンクリートの床に敷き詰められた十数枚の毛布。その上に、盛り上がった毛布の山が二人分。その片山が蠢き、マナセが上半身を持ち上げた。


「――んぅ~……」


 ゆっくり右腕を持ち挙げ、その肘に左手を添えた姿勢で上半身の筋肉をググッと伸ばす。瞼を強く閉じた事で刻まれる眉間の皺。喉の奥から漏れ出る震えた吐息。この二週間で、マナセの身体は限界を迎えていた。


「……」


 小さな窓から差し込む光が、室内を薄暗く照らし出す。一輪車やサッカーボールなど、学生の日常を彩る為の道具は全て四隅に押し退けられ――マナセ達が営む非日常の犠牲者として寂しく佇んでいた。

 マナセは右隣で眠る少女の寝息に耳を傾け、暫し目を閉じる。その瞼の裏に映る光景は、彼が流す一粒の涙に表現されていた。想い出を指先で拭い、眠る彼女の白練の美肌に毛布を掛け直し――その頭を撫で、立ち上がる。


「よし。今日もガンバろう」


 少し汚れた、しかし尚も艶を残す濡羽色の長髪。大きく、そして和やかな山鳩色の瞳。嫋やかな肢体を彩る白練の肌。マナセは以前――今は亡き学園では、正に両性具有の天使と一部では持て囃される程の有名人だった。その美少年が、裸で体育用具室の扉を開けた。




 天気は快晴。青い空を流れる風が、初夏の陽気でマナセの頬を撫でる。見上げる景色は爽やかな朝を見事に演出していた。彼も少し気の抜けた表情を浮かべる。しかし、その顎を引いて正面の光景に焦点が定まった時――唇を噛んで俯いた。

 直径七百メートルを超える巨大クレーター。砂埃の舞う緩坂を下った先には、灰色の瓦礫の山。無数に砕かれたコンクリートと、熱で溶け曲がった鉄筋。


「……すぅ――……はぁ……。……すぅ――」


 マナセは面を上げて胸を張り、少し大袈裟な深呼吸を一つ、二つ――三つ、と繰り返す。五つ、と数えた所で両手で頬を叩いた。


「……よし」


 そのまま両手の人差指で口角を持ち上げ、無理矢理に笑顔を作る。


「笑顔、笑顔……」


 自分に言い聞かせた後、マナセは目線を横に移した。体育用具室の直ぐ傍に自ら並べたハードル、その白木のバーには制服が二人分干されている。胸元に紅色の校章が縫われた紺地のブレザー。更に他のハードルには、白のスタンダードなスクールシャツ。チェック柄のスラックスとスカート。そして最後に、男女二人分の下着。

 マナセは黒いボクサーパンツに足を通し、更にスラックスを穿く。スクールシャツの埃を払って袖を通し、ボタンを留める。


「……行って来ます」


 紐の真新しい、しかし汚れたスニーカーを履いて体育用具室の中を振り返る。薄茶色の毛布が形作る小さな山を見て確かに微笑み、マナセは扉を閉めた。


 ▼御十神マナセのスキル発動!


 胸元まで届く髪を一本だけ指先で摘み抜き、手を放して地面に落とす。ひらり、ふわり。風の階段を下りて毛先が土の上に立った――その瞬間、虚空に黒いインクが走った。


 ▼御十神マナセの《U細胞》は水と食糧に造り変えた!


 再びインクが走り、マナセの髪の毛が土の中に溶け消えた。次に地面が沸騰した水面の如く泡立ち、ボコボコと大きな円柱と小さな円柱に――水入りペットボトルと乾パン入り缶詰に姿を変えた。

 片手サイズのペットボトルが三本。乾パン百グラム入り缶詰が二個。

 マナセはペットボトルを一本手に取り、扉の前から離れてキャップを開ける。水で口の中を何度か濯ぎ、戻って次は缶詰を開けた。四百カロリー分を、時間を掛けて咀嚼する。その間、彼の視線は常にクレーターの奥底に向けられていた。

 朝食を終えた後は、残った二本と一缶を袋に詰める。白地に赤い文字『非常持出袋』と書かれた袋の中に、僅か半日分の水と食糧を詰め込む。――そして肩に提げ、クレーターに向かってマナセは今日も足を踏み出した。




 直径七百メートル超のクレーター。ベタに東京ドームで換算すれば、三個と半分が並ぶ。それだけ広く大きな穴――故に、勾配は緩い。蟹を参考に歩けば、転がり落ちる事は無い。

 クレーターの底には、無数の瓦礫が湖の水が如く溜まっている。坂を三分の二ほど下り、マナセは湖面に到着した。湖畔の土には新品のショベルが立ち、その柄に袋を掛ける。


「……ん、ん……っ」


 マナセは身体を解し始めた。特に、足首の関節を入念に。――十分以上の時間を掛けたストレッチで身体を温めた彼は、今日も瓦礫を片付け始める。

 二週間前、突然の咆哮と共に全て瓦礫の底に沈んだ。マナセと少女は奇跡的に生き残り、今では彼は彼女を慰める為に肌を重ねている。

 瓦礫の中から這い出て二日目、マナセは力の存在を知った。そして三日目の朝から準備を整え、今でも同級生の残骸を探している。二週間の成果は、指が二本のみ。爪が剥がれ、血と砂で汚れた小さな指。誰の指か、そんな事は当然分かる訳が無い。それでも彼は涙を流し、想い出の証を両手で抱き締めた。今は、体育用具室から少し離れた場所に埋めている。


「……ふぅ。――……ふぅ」


 幸い、コンクリートは細かく砕かれている。マナセが両手で運べない物は見当たらない。しかし両手に納まる土と石の塊は当然重い。途中で休憩を挟み、今朝自作した水で流した水分を補給する。太陽を真上に見上げる頃、乾パンで僅かなエネルギーを摂取した。――そして日が暮れ始めた頃、彼の作業は終わる。


「……――ふぅ」


 今日も何も見付からなかった。マナセの顔に一瞬だけ差した影は、次の瞬間には夕焼け色に塗り潰されていた。

 軽量化された袋を再び肩に提げ、緩やかな坂道を上る。朝と同様に蟹を真似、しかし朝とは違って慎重に足を運ぶ。影の長い夕方は足許が暗く、マナセは数日前に一度だけ足を滑らせてしまっていた。幸い捻挫等の怪我は無かった――が、それ以来帰り道は少し気を張っている。

 坂を上り切った所で、体育用具室がマナセの目に入る。彼我の距離は百メートルも無い。肉眼で確認できる扉の前には、指先程度の影が一つ。その姿を捉えた彼の表情は、自然と綻んだ。


「ただいま」


「……おかえりなさい」


 少女から少し離れた、彼女が見上げた所で首を痛めない距離からマナセは微笑んだ。

 対する少女の表情は暗く、声に覇気も無い。一週間程前から遂に制服を着る事も止め、今では毛布に身を包んでマナセを待っている。


「お腹空いてない?」


「……べつに」


「喉渇いてない?」


「……べつに」


「そう、分かった。じゃあ、中で待っててね。服を洗って来るから」


「……うん」


 扉を開け、少女が体育用具室の中に入る姿を見送る。床に敷き詰めた毛布の上に座った所を確認し、用具室の中に置き貯めている水の入ったペットボトルを二本手に取って外に出る。

 マナセは体育用具室の裏手に回り、パンツまで服を全て脱ぐ。一日中瓦礫の撤去作業に従事すれば、相応の汗が流れる。表同様自ら運んだハードルのバーに制服を掛け、まず頭から水を浴びた。


「――はぁ~……」


 マナセは、喉の奥から疲労を絞り出した。ペットボトル一本を使い切り、次は彼の力で造り出した桶に水を入れる。一日分の汗や埃で汚れた服を入念に洗い、水をキツく絞って皺を伸ばす。


「うん、よし」


 一旦表に戻り、洗濯の終えた服をハードルに干す。そして再び裏手に回ったマナセは、まず汚れた桶の水を捨てた。元の置き場所に戻し、次に空のペットボトルや空き缶を地面に広げる。――そして、ゴミの上に髪の毛を一本落とた。


 ▼御十神マナセのスキル発動!

 ▼御十神マナセの《U細胞》は水と食糧に造り変えた!


 今朝と同じ文字が虚空を走り、新品未開封の水入りペットボトル及び乾パン入り缶詰が造り出された。

 ペットボトル二本と缶詰二個を手に取り、マナセは体育用具室の中に戻った。




「……これから先、どうする……?」


 窓から僅かな月光が差し込む体育用具室。毛布に身を包み、大きな山を一つ作って――マナセが独り呟く。

 毛布の中、マナセの腕の中には小さな少女が抱かれている。彼は流される形で、初めて肌を重ねた。声も漏らさず無表情に涙を流す彼女を突き放す事は、できなかった。

 しかし、


「……はぁ」


 時折漏れる溜息には、マナセの確かな後悔の念が籠められていた。周り一面を深い森に囲まれた場所で、電話は不通でネットも当然繋がらない。病院もドラッグストアも無く、ただ男と女が二人で暮らす小屋が一つ。正に、神話か聖書の話。


「……明日、ゴム見付けたって言ってみる?」


 マナセは力の事を、少女に話さなかった。しかし今後も彼女と二人で生活を続ける以上、彼は決断しなければならない。

 だが、




「おはようございます、父様」


 今回は遅かった。

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