やくびょうがみ
長月 八夜
――あぁ、疲れた。
日々満員の電車に揺られ、気力を削がれながら出社して。
仕事は真面目にやっている筈なのに、些細な事で叱られる。どうも俺自身が気に食わないのか、他のヤツが同じことをしていても何も言われていないのに、俺にばかり上司は突っかかってくる。
同僚も見て見ぬふり。
……まぁ、俺が同僚の立場なら『触らぬ神に祟りなし』と同じく見て見ぬふりをするのだろうが。
いつからこんなに疲れるようになったのだろう。
やけに叱られるようになったもの、ここ数か月の事。
「疫病神にでも憑りつかれたかな」
ははっ、と乾いた笑い声を無理矢理出して、自分の言った面白くない冗談を吹き飛ばそうとしたその時。
「え」
毎日通っている筈の通勤路だというのに、見たことのない赤提灯が目に飛び込んできた。
さらに気持ち悪いことに、
「やく、びょう、がみ」
その赤提灯には『やくびょうがみ』と達筆に崩した平仮名で書かれていたのだ。
赤提灯はぼんやりと灯っており、その横には濃紺の暖簾。暖簾には何も書かれておらず、暖簾の奥の引き戸からはあたたかな照明の光、出汁のいい香りが漂ってくる。
「なんて店名なんだ……」
怪しすぎる、そう思っていても妙に心惹かれる佇まい。そんな一瞬の迷いを見透かすように、腹がぐうと鳴った。
これも何かの縁か。そう覚悟を決め、俺は引き戸に手をかけた。
「いらっしゃいまし」
カラカラと音をたてて引き戸を開けると、上品な声が出迎えてくれた。声は聞こえたものの、奥に居るのだろうか見えるところには誰もいない。店員どころか客も居ないため、不安になる。
「えー……と、一人なんですが」
「どうぞ、奥へお入りください」
後ろ手に引き戸を閉じ、中を観察する。
入ってすぐ左に折れており、正面には酒や食器棚が見えている。奥へ、と招かれたので突き当りを折れると、カウンターと二名掛けのテーブル席が二組あるだけのこじんまりした空間があった。
カウンターの中には、和服に結いあげた髪がなんとも色っぽい女将がいる。
「こんなお店があったなんて、知りませんでしたよ」
「えぇ、えぇ。初めて来て下さったお客様は、皆そうおっしゃいます」
少し寂しそうに微笑んだ女将に、失言だったか、と焦ったが言ってしまった言葉はもう取り消すことができない。
「あ、いや、失礼」
「いいんですよ。それより、どうぞお座りください」
言われ、腰を下ろす。何にしましょう、と聞かれたがメニューが見当たらない。
「あの、メニューはありませんか?」
「あぁ……すみません、今日はこちらを用意できます」
そういって一枚の紙を差し出す。それを受取り、まじまじと見つめる。
赤提灯が出ていたが、飲み屋というよりは小料理屋に近いようだ。酒の
決して品数が豊富ではないが、女将が一人で切り盛りするのなら仕方ないのだろう。
「じゃあ、これと……これに。酒はおすすめを一合頂けますか?」
料理にあう酒など分からない。ここは素直に女将に選んでもらうのが良さそうだ。
「はいはい、少しお待ちくださいね」
そういって女将はカウンターの奥をパタパタを行き来する。包丁のリズミカルな音や、くつくつと鍋の煮える音が聞こえたあと、ふんわりとよい匂いが鼻腔をくすぐるまでさほど時間はかからなかった。手際の良さが年季を感じられ、料理の味にも期待が高まる。
少しドキドキしながらおしぼりを広げ、手を念入りに拭き上げる。
「はい、どうぞ」
ことり、とカウンターに小鉢がひとつ。それを受取り、手元に置いて中をじっくりと観察する。鮮やかな緑色が美しい、ほうれん草のお浸しだ。添えられた鰹節のいい香りが、なんとなく懐かしさを感じさせる。
「いただきます」
ぱきんと割り箸を分け、ひと口分の束を摘まむ。じゅわっと口に広がる出汁の味と、ほうれん草の甘みが何とも言えない調和を生み出していて美味い。ほう、と感嘆が漏れるのも当然だ。
「お客さん、美味しそうに食べてくれますね」
女将が微笑む。何とも言えない色香が迫ってくるような気がして、ゴクリと息を飲んでしまった。お冷を飲んでそれを誤魔化し、
「いやぁ、美味しいですよ。お世辞でなく」
苦笑いをしながらそう答え、もうひと口お浸しを口へと運んだ。
旨味が口内に広がって、訪れる至福のひと時。
「さ、こちらもお待たせしました」
シンプルな焼き魚と、ぬるめの燗酒。脂のノリがよく、香ばしい香りが食欲をそそる。
箸先で丁寧に身をほぐし、ひと口含んですぐさま酒で流すと何とも言えない心地になれた。
「うん、美味い。これは何処のなんていうお酒ですか?」
「これは――の、――でございますよ」
「へぇ、初めて聞きました」
そうでしょう、と女将が微笑むと、視界がぐにゃりと歪む。
「え」
カウンターの板材が、どろりと溶ける。目の前にあったはずの料理や酒がぐにゃぐにゃになったカウンターに飲み込まれ、置いていた自身の腕もそこに取り込まれている。
訳がわからない。
戸惑いながら女将の方へ視線を向ける。しかし、そこには誰も居ない。それなのに、
「うふふふふ。お客さん、駄目ですよぉ」
声だけがどこからか聞こえてくる。視界はどんどん歪んでいき、渦を巻き、自分と景色の境界線が曖昧になっていく。
「疫病神に魅入られてしまっては」
「や、くびょう、が――」
あぁ、そういえばこの店はそんな名前だったな、と思い出す。
妙な店名だとは思っていたが、人当たりのよい女将と明るい店内の雰囲気ですぐに気にならなくなっていた。
――お客さん、食べたねぇ。
――異界の食べ物を食べた。
――どうだい、美味しかろう?
ぐにゃぐにゃと回り続ける世界の中で、女将だった何者かの声が響く。
自分と世界の境目が溶けてなくなり、意識だけが浮遊する。どうして自分がこんな目に合わなければならないのか。
「疫病神に魅入られたといったな、それは受動的なもので能動的なものではないだろう」
自ら好んで疫病神に近付いたわけではない。疫病神とやらが数多の人間の中から勝手に俺のことを選んできたんじゃないか。
もはや人の形をしていないような気がするが、渾身の力を込めて叫ぶ。
「ふざけるな! 勝手にお前みたいなモノが擦り寄ってきたんだろう? こっちが来てくれなんて頼んじゃいないんだ!」
あぁ、なんだ。怒ることができるんじゃあないか。
己の口からスラスラと文句が出てくることに、思わず感心してしまう。
不満はこうして口に出せば、何かが変わっていたのだろうか。
「今更かな」
ふっと毒気を抜かれたように、体――もうどこまでが自分の体なのか判らないのだが――の力が抜けた。それを見計らったかのように、またあの声が響く。
――あぁ、あぁ。そういうものさ。
――厭なことは内に内に溜め込むものじゃあない。
――お客さん、自分で疫病神を産み出したんだ。
「俺が……ははっ、自業自得っていうのか? 元はと言えば俺に下らない嫌がらせをしてくる奴らが悪いんだろう」
――ほう、他人のせいにしてしまうかい。
「当たり前だ、俺に不満を抱かせるような奴らが居なければ、俺だって……?」
ふと気がつくと、自室の万年床の上に寝転んでいる自分が居た。
先程までの事は一体何だったのだろうか。夢なのか、それとも――。
時計を確認すると、あの時寄り道せずに帰宅していたら帰り着いていただろう時間だ。日付も今日に相違ない。
狐につままれたような、とはまさにこのような状況なのだろう。
両拳を握ったり開いたりして、体に異常がないことを確かめる。違和感なく動かせることを確認し、もう深く考えるのをやめてシャワーを浴びることにした。
普段より熱めの湯で体を流すと、不快感も一緒に排水溝の渦に巻き込まれて行くような気になる。心身ともにスッキリし、穏やかな気持ちで就寝した。
翌朝、いつも通りの時刻に目覚ましがなり、いつも通りの時刻に家を出る。
いつもの通勤路を通り、駅に向かう。昨夜寄ったはずの店は見当たらなかった。
いつもの電車に乗り、いつもと変わらない時間に出勤する。
「おはようございます」
オフィスに入ると、不思議な光景が目に飛び込んできた。
「え」
俺にばかり突っかかる上司と、それを見てみぬふりする同僚だけが別人になっていた。顔も声も、昨日までとは全く違う。だが、彼らが同一人物だということだけは何故か理解できる。
更に他の同僚や後輩、上司は何事もないかのように振る舞っていた。まるではじめから彼らはこんな人物だったかのように。
「おはようございます、どうかしました?」
普段ならこちらから挨拶しても無視する同僚――と思われる人間――が心配そうにこちらを見つめる。
「あ、いや、なんでもないよ」
消え入りそうな声で、ありがとう、と付け足す。
その日の業務はとてもスムーズに進んだ。俺の仕事に無駄なダメ出しをする上司が居ないというだけで、これほど仕事は進むものなのか、と感心するほどに。
これはやはり、昨夜の出来事が夢ではなかったということなのだろう。
快適な仕事環境を得た俺は、些細なストレスはありつつも過去のように腐ることなく日々の生活を送ることができるようになった。
あの時の料理屋を見つけることは出来なかったが、疲れ切っていた俺に神様が与えてくれた超次元的な力だったのだろう。
只一つ、頭の隅に引っかかって消えないことがある。
元の上司と同僚は、今、どこでどうしているだろうか。
もしかすると、あの時味わったようなどろどろでぐにゃぐにゃの世界に俺の代わりに行ったのかもしれない。
そう考えると、足元が不安定になるような悪寒に襲われる。
同時に、不満を溜め込みすぎないように、疫病神に魅入られないように、と襟を正す。
忘れないようにしなければ、またいつか足元をすくわれるだろう。
やくびょうがみ 長月 八夜 @nagatsuki8ya
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