乙女心 林城静

 その日の目覚めは、いつもより少しだけお日様の匂いがした。



 意識が覚醒して、瞳を開くより前に、額を何かにくっつけている事に気が付く。


 枕じゃない。

 温かくて、柔らかいんだけど少し硬い。


 ゆっくりと目を開ける。

 十字模様で編み込まれているTシャツの繊維が目の前に広がって、目の筋肉が急いで収縮を始める。

 カーテンからは淡い光が差し込んでいて、私たちを薄っすらと照らしていた。


 …………どうやら私は蒼馬くんに抱き着いている。

 私が顔をくっつけていたのは、蒼馬くんの大きな背中だった。叫びだしそうになるのを必死で堪える。

 起きたら、もうここには戻れない。


「んん…………」


 わざとらしく寝ぼけた声をあげて、私は身体を密着させた。

 胸は小さいけど、そのおかげで全身をくっつけることが出来る。蒼馬くんへの接地面積は私が一番広いんだ。


 今がチャンスとばかりに顔を背中に埋め込んで、視界を蒼馬くんで満たした。呼吸をすると蒼馬くんの匂いがした。好きな匂いだ。


 身体の芯から温まるような、心の深い所が癒されるような、そんな感覚。出来るなら、一生こうしていたい。


 私が身体をくっつけると、蒼馬くんはビクッと身体を震わせた。起きちゃったのかな。お願いだから、もう少しだけ夢から覚めないで。



 思えば、一人暮らしを始めてから目覚めはいつも少し寂しかった。私は寂しがり屋だったんだなと親元を離れてから思い知った。もう20歳なのに、子供だなと自分でも思う。でもどうしようも無かった。蒼馬くんが居なかったら、私はどうなっていたんだろう。


 いつの間にか私の片手は、蒼馬くんを抱き締めるようにお腹側に回されていた。とんでもないことだ。私はその手に力を込めて、ぎゅっと蒼馬くんに抱き着いた。さっきまでとは比べ物にならない安心感が私を満たす。ずっとこうしたかった。背中からなのは残念だったけど、今はこれが精いっぱいでもあった。


 結局私は、蒼馬くんのスマホがアラームを鳴らすまで寝ぼけたフリをし続けた。


 その日の目覚めは、いつもより少しだけお日様の匂いがした。





 結局一睡も出来ないまま、俺はスマホのアラーム時間を迎える羽目になった。


「……………………ねっむ…………」


 地獄から響く地鳴りかと思ったが、どうやらそれは俺の喉から発せられているようだった。


 上半身を起こすと、背中側から回されていた静の手がずるっとタオルケットの上に落ちた。俺が眠れなかった元凶でもある。手に力が込められてない所を見ると、静は今のアラームで起きなかったらしい。


 熟睡出来て大変ようござんすね。あなたのお陰で私は一睡も出来ませんでしてよ?

 …………寝不足過ぎて頭がバグってるな。お嬢様が出てきてしまった。


 背中にいるであろう存在を極力意識しないようにベッドから這い出て、洗面所に移動する。鏡を眺めると、それはもう酷い顔をしていた。徹夜だけならまだしも精神まですり減らしたのが露骨に効いていた。


 …………だってよ、静のやつ、俺を抱き枕だと勘違いしたのか途中から思いっきり抱き着いてきたんだよ。胸とかめちゃくちゃ当たってたんだよ。それらしい感触はあんまり無かったけど、体勢的に当たってたのは間違いないんだ。


 もうそうなったら、胸が小さいとかデカいとか関係ない。ゴミ屋敷製造機だろうが関係ない。


 女の子が密着してんだぜ、当然興奮するだろうが。俺は20歳の男だぞ。ふざけるなよ。誰か俺にノーベル我慢賞を授賞してくれよ。つーか超ねみいよ。今日大学休んでいいかな。ダメだよな、分かってる。


「うーん、スッキリ爽快!」


 洗った顔をタオルで拭いていると、寝室の方から艶々した声が聞こえてきた。どうやら静が目を覚ましたらしい。タイミング的には洗顔した直後の俺が言いそうなセリフだったが、こっちは洗顔くらいじゃ全くさっぱりしなかった。


 寂しそうにしていた昨晩の静を思い出す。それが熟睡出来たというのなら、徹夜した甲斐くらいはあったのかもしれないな。


「おはよう、静」


 リビングに戻ると静はテーブルに座っていた。よほどいい睡眠が摂れたんだろう、寝起きだというのに顔がつやっつやだった。


「おはよう蒼馬くん。よく眠れた?」

「ぼちぼち。そっちは寂しくなかったみたいだな」

「ふふふ、おかげさまでねー♪」


 そう言って静は笑った。

 …………その太陽みたいな笑顔を見ていると、多少の睡魔は許せてしまうんだからズルい。

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