第一章

01

 始まった。

 ワーグナー作曲、ワルキューレの騎行。

 昨夜……、いや、今朝だ。ベッドに横になったのは何時だ。三時か。四時か……。

 頭の上に交響楽団がいるかのような大音量に、中嶋日暮なかじまひぐれは思わず唸り声を上げた。


 大音量は五階建てビルの最上階から聞こえてくる。

 午前八時。朝が苦手な楠陽平くすのきようへいの目覚まし音だが、これは本人が起きるためのものではない。階下に住む日暮か玄蔵げんぞうのどちからが、根負けして陽平を起こすためのものだ。玄蔵は四階。日暮は二階。間にはりんが住んでいるが、一応女なので除外する。つまり、目下その役割は玄蔵のものと決まっていた。


 玄蔵が五階のドアを開けたと思われる一瞬、音量はさらに増し、その後唐突に鳴り止んだ。

 耳鳴りがした。近いうち俺は難聴になる自信があると思いながら、吸い込まれそうになる睡魔を無理やり押し退け、こじ開けた右目で煙草を探す。


 ない。

 部屋の真ん中にある小さなテーブルの上に、ぼんやりと白い箱が見える。内心でチッと舌を打った。起き上がるのも面倒で、ベッドヘッドにある灰皿から吸い殻を一本摘まむと、プラスチックのライターで火を点ける。深々と吸い込んだ煙が肺を満たしていくのを味わいながら、ようやく両目が開いた。


 眩しい。昨夜開けっ放しだったカーテンのせいで、四方を無機質なコンクリートの壁に囲まれた部屋に、白い朝の光が満ちている。遠くから苛立ったようなクラクションが聞こえてきた。世界は今日も変わらず動き出している。

 天井に吸い込まれていく紫煙を眺めていると、ジリッとフィルターの焦げる匂いがして、日暮は慌てて飛び起きた。

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