第663話 ……真名って何?

「ふむ。体には何の異常もない。心持ちはどうだ?」


 熱を測り、脈を取り、自律神経の働きを観察したネルソンは正気を取り戻したプリシラに尋ねた。


「何だか少し頭がぼうっとしています」

「頭が痛んだりはせぬか?」

「それは……ありません」


 どうやら病気のような症状はなさそうであった。

 懸念されるのはジェーンの憑依によって精神の一部が傷つけられていることだ。


「記憶はどうだ。ステファノの家族が死んだと聞かされた時からのことを覚えているか?」

「えっ? はい、覚えています。ただ……」


 額に手を当てたプリシラを見るネルソンの目が細くなる。


「ステファノとヨシズミさんが水瓶を運んでくると聞いた日からのことが、何だかぼんやりしています」

「記憶が飛んでいるのか?」

「覚えてはいるんですが……他人事みたいで。おかしいわ」


 ステファノの家族が無残にも殺されたと聞いた。その時は激しく動揺したことを覚えているが、その後は霧を通して景色を見ているような感じの記憶しかない。

 まるで心が麻痺していたようだった。


「ステファノと会った時のことを覚えているかね?」

「はい。汗を流して着替えたステファノの手首が傷ついていて、新しい包帯を巻いてあげました」

「その時ステファノに何か尋ねたそうだな?」


 静かな口調のままネルソンは言った。


「そう言えば、ステファノの真名を尋ねました。……真名って何?」


 額を押さえるプリシラの手に籠める力が強まった。

 自分の記憶でありながら、その意味が分からない。プリシラは足元が揺らぐような不安を感じた。


「気をしっかり持ちなさい。プリシラ、本当のことをお前に話しておこう。そこ頃から先ほどまで、お前は何者かに心を乗っ取られていた」

「えっ?」

「その『何者か』とはおそらく我々が『まつろわぬもの』と呼ぶ存在だろう。本当の狙いはステファノで、お前をそのための道具に使おうとしたらしい」


 プリシラには記憶が残っている。適当なことを言って誤魔化せば、後々その記憶がプリシラ自身を苦しめるかもしれない。ネルソンはそう考えて、彼女に真実を伝えることにした。


「あっ! わたし、ドリーさんを襲おうとして!」


 プリシラにはジェーンとしての記憶は残っていない。行動の裏側で何を考えていたかは覚えていないのだが、気絶を装ってドリーを攻撃しようとしたことは覚えている。


「大丈夫だ。ステファノが皆を守ってくれた。お前が気にすることは何もない」

「ステファノが……」


 プリシラは額を押さえていた手を下ろし、膝の上で両手を握りしめた。


「ステファノのことは誰が守ってあげるんですか? わたしは守られるだけで、何もしてあげられない――」


 膝の上の手が震え、うつむいた顔から涙がこぼれた。

 しばらく無言でいたネルソンは、変わらぬ声でプリシラを諭した。


「そんなことはない。お前の祈りはステファノを支えている」

「わたしの祈り……?」


 涙を目に浮かべたまま、プリシラは顔を上げてネルソンを見た。


「お前が巻いた包帯にはお前の祈りが籠められている。傷よ、癒えよ。二度と傷つくこと無かれ。そう願って巻いた包帯がステファノを守り、支えているのだ」


 ネルソンは慰めではなく、真実を語る。真実こそ癒しのために必要なものであることを、医学者ネルソンは知っていた。


「昨日お前が巻いた包帯には祈りが籠っていなかった。あるはずのものがないことに気づいたからこそ、ステファノはお前を救うことができたのだ」


 ジェーンの失策だった。


 ジェーンにとってプリシラただのNPCは何者でもなかった。その行動が周りにもたらす意味などを考慮するはずもない。

 注意して見ていれば、プリシラがステファノの治療に籠める思いがどれ程のものであるかは容易に知れるはずだった。


 しかし、人が蟻の行動を気にしないように、ジェーンにとってプリシラの一挙一動など関心の外にあった。ましてや、その心の動きなど気にも留めていなかったのだ。


 それがジェーンの命取りとなった。


「『まつろわぬもの』はお前をステファノにとっての弱点だと考えた。それはとんでもない間違いだった。お前こそが触れてはいけない、『まつろわぬもの』にとっての弱点だったのだ」

 

 強者は弱者の思いを知ることができない。その行動の意味を測ることもできない。

 それこそが強者の弱点なのだった。


「お前だけのことではない。人は皆そのままの姿で、誰かを守り、誰かの支えになっているものだ。お前はそのままでいい」


 ネルソンの言葉を受け止めて、プリシラは石のように固めていた両手を解いた。


「ありがとうございました。早く元気になって、ステファノにしっかりお礼を言えるようになります」

「うむ。それでいい。無理はしないようにな。どこか具合が悪くなったら、コッシュに言いなさい。すぐこちらに連絡が届くようにしておく」

「はい。旦那コッシュ様は最近お忙しいのにご心配をおかけして申し訳――あっ!」


 話を終えようとしたプリシラが大きく開けた口を手で覆った。


「うん? 何か思い出したか?」


 何か記憶がよみがえったか? ネルソンは慎重にプリシラを促した。

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