第511話 色は陽、散るは陰。
ステファノは「いろは歌」を詠唱しながら、足を運ぶ。その意識は足元でも前方の景色でもなく、内なるイドに向けられていた。
「色は匂えど、散りぬるを――」
どうしたらイドの振動数を変えられる? 魔力操作の基本はイメージだが、ステファノには「振動数」を変化させるイメージが掴めなかった。
(答えが見つからない時は、本質に立ち返れ。イドとは何だったか? 無意識の自我、俺はそう定義したはずだ)
自分を自分たらしめるもの。世界と自己を分ける認識。
(魔力錬成の元となる要素。俺はイドを練り上げて「
生きているだけで存在するイドと魔核はどう違う? イドを持っているはずの
イドは魔核の元であっても、魔術発動には何かが不足している?
(錬成とは何だ? 魔核を練る時、俺は何をしている?)
ステファノが作り出すのは「
練り上げた太極玉が魔核となるのだ。
(陽気と陰気。陽と陰。2つの極を1つに練り上げる――)
陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ずる。
陰陽2つの勾玉は互いを追い掛けて、ぐるぐると回る。回り、回って大きく成長する。
(陰と陽。2つの極が互いに入れ替わる。陰から陽へ、陽から陰へ――)
「色は匂えど、散りぬるを――」
色は陽、散るは陰。
「我が世誰ぞ、
陽と陰は常に入れ替わり、移り変わる。それが宇宙のあり様である。
「有為の奥山、今日越えて」
陰陽が転換を繰り返すことによって、現実界からイデア界への移転がなる。
この歌はそういう秘密を伝えているのではないのか?
(山を越える……山を越えれば谷だ。山と谷……。そうか!)
山と谷とは「波」を表しているのではないか? 陰陽転換は波なのだ。
(つまりID波だ! 陰陽の切り替わりを速くしてやれば、ID波の振動も速くなる)
掴みどころのなかった課題が、ステファノの頭の中で形になりつつあった。
(やってみよう!)
ステファノは道をそれて開けた野原に座った。胡坐をかき、丹田の前で両手を重ね、手のひらと親指で輪を作る。
結んだのは「
いつもよりゆっくりと入念に太極玉の錬成を行いながら、ステファノはその反応を詳細に観察していた。
陽気は陰気を追い、陰気は陽気を追いかける。
ステファノの眼には、ある瞬間は陽と映り、次の瞬間は陰に姿を変える。
(陰陽は対極にして一体)
陽が山であるとすれば、陰は谷だった。ステファノの中で太極玉は「波」を体現していた。
(ならば、回る速さが振動数を変えることになる。もっと速く、更に速く回したら――)
ステファノの手中で太極玉が回転の速度を増した。やがて眼で捉えられぬ速さで回る太極玉は、陰も陽も定かでない「魔核」に成長した。
(俺の
ステファノは高速で回転する魔核を体全体に広げるイメージを構築した。血液が全身を巡るように、魔核が全身に行き渡る。
「浅き夢見じ、
いろは歌の結びの句。それはイデア界を象徴するとともに、何物にも侵されない精神の自由を宣言していた。
「魔核を制するものは、精神の自由を得る。そういうことだったのか」
ステファノは確信とともに、その真理を得た。もう精神攻撃がステファノを脅かすことはない。
ステファノは禅定印を解き、地面から立ち上がった。
(後は、どうやって魔核を常時高速振動させるかだ)
道着の尻をはたきながら、ステファノは考える。
(焦ることはない。時間はたっぷりある。歩きながら考えよう)
旅路をたどりながらステファノは「いろは歌」の暗唱を続けた。同時に魔核を高速で練り続ける。
成句と魔核の高速回転を結びつけようとしていたのだ。
成句を暗唱すれば、意識せずに魔核の高周波化ができるように習慣づけする。それができたら今度は成句さえ意識せずに、普段からそれを維持できるように体に染み込ませようとしていた。
(やっぱり旅は面白い。普段できないことに没入できる)
歩みを進めながらステファノは鍛錬を楽しんだ。新しいことができるようになるのは純粋に心ときめく経験である。
ほんのり赤く陽気を漂わせていたステファノのイドは、透明な光となって薄く体を覆うようになっていった。量ではなく「密度」が鎧としての機能を支えている。それでいてしなやかだった。
(そうか。きめが細かくなって、まとまりやすいんだな)
ステファノは試みに左手を水平に振ってみた。手の先に杖が伸びているイメージ。
茫洋とした塊ではなく、きっちりと杖の形になったイドが目の前の空気をないだ。
(これは……。ここまで形になるのか)
左に振った腕を正面に振り戻した。
イドは鞭になって空気を斬った。
(固めるだけではなく、鞭にもできる。素手の戦いに使えそうだ)
ステファノの工夫は飽きることなく、その日の目的地に到着するまで続いた。
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