第468話 酒は要らん。もう一生分飲んじまったよ。
サポリの街を着の身着のまま、無一文で離れ、マランツは街道を進んだ。
峠を越える時分には足取りもしっかりと定まった。
隣町では一軒の飯屋に立ち寄り、掃除洗濯の下働きをして一宿一飯の恵みを乞うた。
頭を下げることに恥などない。呪タウンにたどりつかねばならないという目的があった。
やせこけたマランツの体を見て、飯屋の主人は手伝いの仕事を与えてくれた。
マランツが魔術を操れると知ると、掃除洗濯は良いから火の番、水の番をしてくれと主人に言われた。
マランツにとっては容易いことであった。
錆びついていた魔力が、滑らかに動く。マランツは忘れていた感覚を取り戻していた。
飯を食えば細胞が燃える。体が再生を果たそうとしていることが、ほてりとして伝わって来た。
いくら水を飲んでも追いつかぬほどだった。
夜になり、店の灯を落とすと、主人はマランツに寝床をあてがってくれた。納戸のような部屋に毛布を持ちこんだだけであったが、構わない。今のマランツなら、どこでも眠れる。
「今日はよく働いてくれた。酒でも飲むかい、爺さん?」
「酒は要らん。もう一生分飲んじまったよ」
主人に向かって手を振りながら、マランツは自分の手が数年ぶりに震えていないことを知った。
思わず手を止めて目を向ければ、その手は赤々と血の色を浮かべていた。
朝日の温もりがそこにある。
「明日の日の出に出ていくよ。一晩の宿、ありがたい」
「そうかい。俺は朝から仕込みがあるからな。勝手に出て行ってくれや」
そう言って、飯屋の主は去って行った。
翌朝、薄暗い中ドアを開けると、扉の前に弁当の包みが置いてあった。マランツはそれを押し頂いて、懐に入れた。
包みからは温かい温もりが伝わって来た。
◆◆◆
町から町へ、マランツはそうやって人を頼りながら旅をした。働いては歩き、歩いては働いた。
1週間をかけて、老人は
◆◆◆
名前だけを頼りに、人に聞きながらマランツは大きな建物の前までやって来た。
「ヨハンセン魔術道場」
そう大書された看板が門の上に掲げられていた。
「爺さん、何か用か?」
門番に尋ねられ、マランツは名を名乗り、用向きを告げる。
「わしはマランツと申す者。ヨハンセン殿にお会いしたい。取次ぎを」
「マランツ? ヨハンセン様の知り合いか?」
「そうだ。古い知り合いが来たと伝えてくれ」
「わかった。ここで待て」
門番はマランツの来意を告げに、玄関へと向かった。
(ヨハンセンの道場も大きくなったもんだ。門番を雇えるほどになるとはな)
マランツの弟子の中では精々中の下という実力だった。ここまで出世するとは予想ができなかった。
教え方と世渡りのうまさで機会を掴んだのであろう。
背が高く、肩幅の広い外見が貫録となって印象を良くする要因となっていた。
(それに、ヨハンセンは弁が立つ。お貴族様の扱いが抜群にうまかった)
考えてみると、いずれも自分にはない資質であった。
(わしが落ちぶれたのも無理はない。戦の後どうなるかなど、考えたこともなかったからな)
当然ながら魔術の腕ならば、マランツがはるかに勝る。酒に毒された今の状態であってもだ。
(
「お待たせしました、マランツ
戻ってきた門番が、礼儀正しくマランツを招き入れた。先ほどまでとは大違いだ。
(落ちぶれ果てても師匠は師匠か。ヨハンセンはどこまでも礼儀正しい男だ)
玄関にはヨハンセン道場の門弟が待ち構えていた。
「いらっしゃいませ。
「邪魔をする」
背筋が伸びた男の後に従って、マランツは奥へ通された。
(この男もただものではないな。道場は充実しているようだ)
先に立ちながらもマランツとの距離を絶妙に保っている。「一瞬では襲い掛かれない距離」をだ。
「先生、マランツ様をお連れしました」
「お通ししろ」
奥の客間、門弟はドア越しに声をかけ、入室の許可を得た。
「どうぞ、お入りください」
滑らかな動きでドアを開けると、門弟はマランツに入室を促した。
「邪魔をする」
部屋に足を踏み入れれば、簡素ながら充実した家具が置かれていた。華美ではないが、使い込めば味が出る類の物ばかりであった。
ソファに腰を下ろしていたヨハンセンは立ち上がり、かつての師を出迎えた。
「これは先生。ようこそお越しくださいました」
「突然邪魔をしてすまぬな。久しぶりだが、元気そうで何よりだ」
「先生も顔色がよろしいようで」
簡単に挨拶を交わし、互いに腰を下ろす。メイドがやってきて、茶を給し、無言のまま去って行った。
応接間に残るのは、マランツとヨハンセンの2人きりである。
「立派な道場だの。良い門弟もいるようだ」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。ご案内を務めたのは当道場の高弟、ヘボンです」
「うん。そなたの教えが行き届いているようだ」
ヨハンセンは師の言葉に無言で目礼した。
「先生、本日はどのような用向きでしょうか?」
「単刀直入に話そう。ジロー・コリントを覚えていよう?」
「昨年王立アカデミーに入学したと聞いております」
ジローもマランツの弟子である以上、ヨハンセンから見れば弟弟子にあたる。有力貴族の次男である彼のことは、気にかけるべき人間として情報を集めていた。
「冬休みに会いに来てくれたのだが、アカデミーで苦労しているらしい」
「聞いております。魔術試射場で不始末を起こしたとか」
「1学期を棒に振り、挽回を目指した研究報告会も失敗であったそうだ」
「良い素質を持ちながら、もったいないことで」
マランツが語る内容は既に承知であったと見えて、ヨハンセンの口調に驚きはなかった。
「落ち着いて挽回を目指せば、やがて頭角を現すと思うのだが……」
「問題がございますか?」
マランツが言わんとすることを察したように、ヨハンセンは先を促した。
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