第273話 ステファノは脱力して『ぬかるみ』になった。
抵抗すれば体は固まる。それでは「岩」になってしまい、てこの原理で投げられるだけだ。
ステファノは脱力して「ぬかるみ」になった。ミョウシンにまとわりつき、足元を狂わせる泥になった。
そのままでは体重で勝るステファノに引き込まれる。投げ切れないと悟ったミョウシンは、瞬転して離れようとした。体勢を入れ替えれば落ちていくステファノの足元を払うことができる。
その動きの転換をステファノが捉えた。
ミョウシンが完全に静止し、逆方向に動くために力を集中した瞬間に、その力の方向をわずかに変えてやる。
真後ろに旋回しようとしたミョウシンの動きが、意識とは裏腹に右斜め下へと逸れていく。だが、止まらない。自分で起こした動きであるために、「違う」とわかっても止められない。
ステファノは……ミョウシンに引かれてついて行く。まるでミョウシンが倒れそうなステファノを引き起こしているように、ステファノの上半身が立ち直る。
「倒れまい」とミョウシンが意識した瞬間、ステファノの足が滑るように前に出た。
立場は入れ替わり、ミョウシンが「岩」になり、ステファノは流れる水となった。
ステファノが体を寄せてミョウシンを引き込むだけで、「岩」は「流れ」に巻き込まれて滝つぼに落ちた。
「うっ!」
背を打つ衝撃にミョウシンの肺から空気が絞り出される。
「かはっ! ごほっ、ほっ、はっ」
マットに倒れたまま、ミョウシンは酸素を求めてあえいだ。
「大丈夫ですか?」
ステファノはミョウシンの横に膝をつき、そっと背中を起してやった。
「今の返し技は?」
これほど完全に技を返されることは滅多にない。初心者のステファノがそれを為したことに、ミョウシンは驚愕していた。
「体術の師が教えてくれたことを再現しようと努めてみました。多分「鉄壁」の極意、その一端だと思います」
「速さ」ではなく「早さ」であると、マルチェルは言った。
『鉄壁は堅きに非ず。
「それが師より受け継いだ教えです」
「確かに技の起こりを完璧に抑えられました」
「あれでは、まだまだです」
素直に負けを認めるミョウシンに対して、ステファノはむしろ恥ずかしそうであった。
「我が師であれば、最初の跳び込みに合わせて投げを打っていたでしょう。一度止めなければ技を出せないのは俺が未熟なせいです」
唖然とするミョウシンに、ステファノは打ち明ける。
「実は『ズル』をしました。ミョウシンさんの『イド』を読み取ったんです」
「それで技の起こりがわかるのでしょうか?」
「はい。体の動きをコントロールして予備動作をなくしても、自意識は消せません」
「行く」という意識がある限り、それはイドに表れるということをステファノは説明した。
「それではすべての手の内が丸見えですね」
武術家にとって悪夢のような状態であった。
「初見であれば圧倒的に有利な立場に立てます。ですが、相手がそれを知っていればまた違うのではないでしょうか」
「対抗する方法があるということですか?」
「はい。俺が読めるのは『何かを仕掛ける』という意識の集中だけです。何が来るかはわかりません。読まれていることを知った上で、二重、三重の仕掛けをされたらどこかで対抗できなくなるでしょう」
一手で決めに行くのではなく、捨て駒のような手を挟んでステファノを誘導すれば技に入れる。
「もう1つは達人にしかできない方法になりますが……」
「達人になれば何ができるのでしょう」
「攻めるという意識を捨てることです。まったく無心に向かい立ち、ただ身を護る。そして攻撃されたらそれを返す。その形に徹せられたら、先読みの意味はなくなります」
ステファノがしているのと同じことを返すということであった。
「確かにその通りですね。柔とは本来身を護るための技。究極の術理は無心の返しなのでしょう。わたくしにはまだまだ遠い境地です」
「イドの眼がなければ俺も同じです。柔本来の技を磨くためにはイドの眼を封印した方が良いと思っていました」
「気持ちが変わったのですか?」
ミョウシンはステファノの意図を尋ねた。
「はい。未来の自分を引き寄せるためには、今できることをすべてやるべきではないかと」
「遠回りをしないということでしょうか?」
「そう言っても良いでしょうか。到達点が1つでも、人それぞれに道があるのではないかと考えました」
ステファノの言葉にミョウシンも思うところがあった。
「そうですね。人それぞれに道がある。わたくしにはわたくしの道があるのですね」
ミョウシンは爽やかに笑った。
「イドの眼を持つステファノをどうしたら投げられるか。わたくしはそういう課題に挑むことができる。なるほど、それは幸運なことなのですね」
「そして俺はそれを防ぎます。結局やることは1つです」
自ら持てるすべての資質をかけて、身を守りつつ、相手を倒す。武術とはそれに尽きる。
「楽しいですね、ステファノ。わたくしは柔研究会を捨てなかった自分を、とても誇らしく思います」
領地に帰れば「姫様」と呼ばれる身分である。そのミョウシンが笑われても無視されても、しがみ付くように守り抜いた研究会であった。
「道」を得たことを、ミョウシンは震えるほどに喜んでいた。
「はい。とても楽しいです、ミョウシンさん」
ステファノは心から笑った。
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