第181話 「始原の赤」に染まりながら、ステファノは「その人」を描く。

 石膏像の線は硬い、ステファノはそう感じた。丸みを描く線でさえその質感が「硬さ」を連想させるのだ。


 人の肌が石であるはずがない。押せば凹み、離せば戻る。触れれば熱の伝わる人肌。

 産毛が生え、しっとりと潤いがあるはずだ。


 まつ毛のない目などない。眉毛にも流れと膨らみがあるはずだ。髪質はどんなだ?


 ステファノは心の中の人物に問い掛けながらその人を想像する。


 歩く姿を。笑う姿を。食事する姿を。涙する姿を。


 あらゆる姿の重なる先に、「その人」はいる。


 深く、深くイドの中にイメージを求めるステファノは「始原の赤」を帯び始めた。

 ネルソンが診ればその変化に気づいたであろう。


 赤い魔力は木炭をも覆い、画用紙に触れるたびそこから染み込む。

 自分では気づかぬ内にステファノはデッサン画を魔力で染めていた。


 生徒たちが思い思いにデッサンを続ける中、ヴィオネッタは静かにその間を歩いていた。


 貴族出身の生徒は既に家庭教師をつけていたのであろう。間違いのない手つきで確実に絵を描き進めて行く。

 デッサンが初めてという生徒は見ればわかる。腕に力が入りすぎて紙に皺を作ったり、ごってり木炭を擦りつけてしまったり、早々に破綻していた。


 それで構わない。今日はデッサンの何たるかを知り、画材に慣れるだけが目的の授業なのだから。


 10人の生徒の内ステファノという生徒は異質であった。道着を着て教室の後ろに座っているのを見た時は、教室を間違えたものだと思った。間違えたにしても道着で受ける授業などないのだが。


 本人は至って平気な顔をしている。虚勢を張っているわけでもむきになっているわけでもない。彼にとってそれが自然なことなのだとわかる。


 画材に対する興味の持ち方も変わっている。あれは……何かの専門家、本職の振舞い方だ。もちろん芸術家ではない。そうではなくて、そう、「職人」の持つ雰囲気だ。


 サンプル画に向ける目もそうだ。あれは芸術を鑑賞する目ではない。何かを「観定みさだめる眼」だ。


 おそらく彼は芸術家にはなれない。「美」によって人の心を揺さぶることはないだろう。

 それでも、何かがありそうだ。普通ではない何事かが。


 ステファノの「絵」をすぐにでも確かめたいヴィオネッタであったが、彼だけを特別扱いすることはできない。生徒の間を巡回しながら、あえて最後にステファノの背後に立った。


 肩越しにステファノが描くデッサン画を覗き込んだ時、びしりと自分の体が立てる音をヴィオネッタは聞いた。その衝撃は言葉にできない。


 芸術ではない。ステファノの絵は美術ではなかった。


(何だ、この絵は?)


 スケッチとはモデルを元にして描くものである。この場合のモデルは石膏像だ。


 石膏像の姿をいかに再現しているか、そこに「美」の概念が込められているか。それが鑑賞のポイントであるはずであった。


 ステファノの絵は違った。


(いや、これは「絵」なのか?)


 ヴィオネッタの目には「人物」が見えた。何事かに当惑する「命ある人」がいた。

 絵が動き出すわけでも語り掛けてくるわけでもない。


 だが、動かなくても「人」を人形と見間違える者があろうか?


 平面に描かれようと、動かぬ図形であろうと、炭の単色であろうと。

 そこに「いる」のはまぎれもなく「人」であった。


 ヴィオネッタの脳がそう判断していた。


(これは美術ではない。魔術だ)


 彼女はそう判断した。ここは王立アカデミーである。一流の魔術師が集う魔術の最高峰でもあった。

 教授陣の魔術に関する鑑識眼は、どこよりも磨かれていた。


(ん? 絵の様子が変わっている?)


 先程迄当惑した表情に見えた「絵の人物」は、落ちついて納得しているように見える。


(どういうことだ? この短い時間に絵を描き変えたのか? いや木炭画でそんなことは……ひっ!)


「絵の人物」は「当惑」し、「驚愕」の表情を浮かべた。


(こ、この絵は私の感情・・・・を写している!)


 20年も美術教師を務めるヴィオネッタが初めて目にする現象であった。アカデミー中を探してもこのような絵はない。


「どういうこと?」


 思わずヴィオネッタの口から疑問がこぼれ出た。


「先生、描き終わりました」


 集中を解いて涼しい顔をしたステファノが言った。最早どこにでもいる垢抜けない少年である。

 ヴィオネッタは目を擦り、出来上がったデッサン画を改めて見た。


「早かったですね。初めて……デッサンをしたのでしょう?」


 平静を保つよう努力して、彼女はステファノに声を掛けた。


「はい。炭で絵を描くのは子供の頃にいたずら書きして以来です。ペンとは勝手が違いますね」


 目の前に描かれた線はつたなく、明暗、陰影の表現も単調で「美術」として見れば凡庸なものであった。

 あえて言えば、造形やバランスは実物を良く写しており精確性に認めるべき点があるくらいか。


 問題はそこではない。


 その「絵」が感じさせる生命感であり、感情であった。


「どう描こうと思ってこの絵を描きましたか?」


「この石膏像には元になった人がいたはずです。石膏像の向こうにいる『その人』を想像して描きました」

「それは……。あ、あなたは魔術科の生徒ですよね?」

「え? ええ、そうです」


 ヴィオネッタは唐突にステファノ本人のことを尋ねた。


「魔術科からこの授業を受ける人はとても少ないんですよ。授業の後、あなたの履修計画についてお話がしたいので私の研究室に来てもらえますか?」

「あの、3時からは人と会う約束があるんですが……」

「そうですか。その後の時間ではどうですか?」


 6時からドリーとの訓練があるが、柔の稽古が5時に終われば1時間ほど時間はある。


「5時……10分過ぎからなら伺えると思います」

「結構です。夕方5時には研究室におります。研究棟の場所がわかれば、扉に名前が書かれているので迷うことはないはずです」

「わかりました。時間になったら伺います」


 ヴィオネッタは教壇に戻り、クラスに呼びかけた。


「注目。デッサンの終わった者は完成した絵に名前を書いて、こちらに提出してください。それが済めば今日の授業はお終いです。それぞれ片づけをして退出してください」


「ああ。言い忘れましたが、このデッサン画が『チャレンジ』の課題になっています。絵の出来栄えが講座の条件を満たしていれば、それを以て単位の修得と認定します。該当する生徒には1両日中に連絡が届くようにいたします」


(絵が上手く書けていればそれで単位認定ということか。俺には関係なさそうだけれど)

 

 ステファノは自分の絵にサインを入れ、ヴィオネッタに渡すと早々に教室を出た。


 すべての生徒がデッサンを提出し退出した後、1人教室に残ったヴィオネッタは10枚の絵を重ねて大きなトートバッグに仕舞った。ステファノの絵を1番上に載せ、表面が擦れないように薄紙をかぶせてからそっと鞄に入れるのだった。


「これは……魔術科の先生にも話を聞いてもらわなければならないわ」


 誰に相談するのが適切だろうかと、ヴィオネッタは細い眉の間に皺を作って悩むのだった。


 ◆◆◆


 3時限目の授業を早めに抜けられたので約束の3時までは20分ほどの時間があった。

 ステファノはそのまま運動場に向かい、待ち合わせ場所で時間を潰すことにした。


(学校に慣れていない自分が効率よく単位を取得するためには、今のところスールーさんたちの力を貸してもらうのが良さそうだ。問題は、「もう一人の魔術科学生」をどうやって探し出して仲間にするかだ)


 引き続き探すと2人は言ってくれたが、上級生の間で「技術に詳しい魔術師」を探すのは難しいだろう。


(1年生にそういう人がいて、仲間になってくれそうなら良いのだけれど……)


 ステファノは運動場につくと、待ち合わせ場所の木陰に腰を下ろした。こんなときも汚れても構わない道着は都合が良い。


(探すとしたら、やっぱり平民の中からだよなあ)


 ミョウシンはどうやらお貴族様らしいが、普通のお貴族様は平民と親しく口を利いたりはしない。

 ネルソンやドイルは例外なのだ。


 彼らにしてからが半ば以上貴族社会からはみ出した存在でもあった。


(ジローは歩み寄ってくれたみたいだけれど、所詮・・お貴族様だからなあ)


「生徒同士は平等だ」とお貴族様が言ったところで、それを真に受けるほどステファノはうぶではなかった。

 貴族の言う平等とは、「貴族に都合の良い範囲での平等」に過ぎない。


 天秤は、いつでもひっくり返るのだ。

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