第126話 赤髪の美少年現る。
翌朝、ステファノは日の出と共に宿を引き払い、荷物を背負って海辺に向かった。行商宿の客は朝食など食べないのが普通であった。
海辺に向かったことにこれといった意味はない。海を見たかっただけである。
時間がある内に行っておくべきだと思ったのだ。
「うわぁー。広いなあ」
自分でも恥ずかしくなるような平凡な感想を漏らし、ステファノは両手を広げて潮の香りを胸一杯に吸い込んだ。
サポリ湾は岸を離れるとすぐに水深が深くなる地形で、砂浜がほとんどない。海岸線は湾曲して東西方向に伸びており、南側に海が広がっていた。
「これだけ大きいと魚もたくさんいるだろうなあ」
昨夜はすぐ食べられるパスタを頼んでしまったが、魚料理も食べてみたいと思うのであった。
内陸ではなかなか海の魚は食べられない。あったとしても乾物か酢漬けのような保存食であった。
冷凍技術はおろか氷すら容易に入手できない環境であった。
「ネルソン様の屋敷みたいに氷魔術がどこでも使えたらなあ」
生鮮食品の流通に革命が起きるであろう。
「氷魔術って水属性の一部って言われてるんだよね。確かに氷は水だけど」
だが、ステファノが得た水のイデアから氷が得られるとは思えなかった。水にもいろいろ種類があるのであろうか。
「やっぱり雪とか池の結氷みたいに冬の現象がイデアの元なんだろうか?」
普通はそうかもなとステファノは考える。身の回りで出会える氷結現象とはそんなものであろうと。
霜柱でも良い訳だが、生み出せる氷の量が少なくなりそうだ。
「うんと北の方では海が凍っているって話だね」
氷山とか、流氷の話を旅の行商人から聞いたことがあった。それはそれは不思議な光景だそうだ。
「氷河っていう物は聞いても良くわからなかったなあ」
山の上に溶け残る雪があるのはわかる。しかし氷の河というのはどんなものであろうか? 谷を埋めてすべてが氷の河があると言う。何千年も解けず、動かない河とは何なのか?
「まるでイデア界のようだね」
『熱とは運動であり、運動はエネルギーだ』
ドイルの声がよみがえる。
「運動が停まれば熱はなくなるということか……。うん?」
「だったら、火魔術の反対側に氷魔術があるのか? ていうか、火魔術で氷が作れる?」
ステファノは辺りを見回し、近くに人がいないことを確かめると、しゃがみ込んで海の水に手を漬けた。
8月半ばの水は温かかった。
手のひらにくぼみを作り、海水を掬い取ってみる。手の上で揺れる水は透き通って澄んでいた。
「この水は肌よりは冷たいが、氷よりは温かい。つまり運動しているはずだ」
(我が世誰ぞ 得常ならむ~)
『時のないイデア界のように、動きを停めれば……』
(浅き夢見じ 酔いもせず~)
海水はランプの燈心を摘まんだように光を落としていった。
(ん~)
ステファノは火魔術を試した時のように、手のひらに息を吹き掛けた。
ぴしり。
音を発して海水が凍結した。液体だった物が、一瞬で固体に変わる。
「ああ、できた! ……痛、たたたた!」
どこまで温度が下がったのであろうか。手のひらにできた氷がステファノの肌を焼いた。
「ああ、熱い!」
慌てて反対の手で氷を振り払った。氷は海岸の岩に当って、粉々に砕ける。
ステファノは凍てついた手のひらを、ごしごしと擦って温めた。
「びっくりした。魔術の対象物に
ステファノがまともな魔術教師についていれば、授業の最初に注意されることであったろう。
術の制御があやふやな内は、術と自分の間に十分な距離を取ることが大切であった。
「これが店にいた頃にできれば、親方が喜んだろうなあ」
氷が生み出せれば、食材を好きなように冷やせる。……氷がなくとも、食材を直接冷やせるのか?
ステファノは冷やす対象は何でも良いのではないかと考えた。
先程氷が当たって砕けた岩。その表面を術の対象に固定してみる。
(浅き夢見じ 酔いもせず ん~)
岩がまとった橙の光を念誦と共鳴させて鎮めて行く。息を吐いて胸が
きしっ。
岩の表面が乾いた音を立てた。うっすらと白い霜をまとい始めたようだ。
今度は直接触らぬようにし、ステファノは海水を手に掬って岩にちょろちょろと掛けた。
すると、掛ける側から海水は凍りつき、つららのように盛り上がった。
「へーっ。こんな風に冷えるんだ。冬の地面より冷たいんじゃないか?」
岩の周りに薄く氷が張り始めた。
パチパチパチと、拍手が聞こえた。
振り向くと、見知らぬ少年がそこにいた。
年はステファノより2、3歳下であろうか。顎の高さまで赤毛をきれいに伸ばし、目鼻立ちの整った美少年であった。垢ぬけた、上等な服を着こなしている。
「杖も使わずに無詠唱とは、やるじゃないか。氷魔術は戦闘には向かないけどね」
ステファノは先程周囲に人気がないのを確認したつもりだった。いきなり背後から声を掛けられたので、いたずらが見つかったようにびくっとした。
「ごめん、ごめん。驚かせちゃったかな?」
「あ、いや、ちょっとだけ驚いたけど……。人はいないと思ってたんで」
ステファノはプリシラからもらった手拭いで濡れた両手を拭きながら、少年に向き直った。
「そうだよね。僕、気配を消して動くのが当たり前になっちゃってるからさ。みんな驚くんだよね」
言葉を聞けばはにかんでいるようにも聞こえるが、目が笑っていなかった。驚かれるのが当たり前と思っているのか、むしろ驚かすことを楽しんでいるのか。強烈な自尊心をステファノは感じた。
「へえ、いつも気配を消しているのか。それはすごいね」
ステファノは相手の言うことに感心して見せた。この手の自己主張が強い輩は、満足するまでしゃべらせないと解放してくれないことをステファノは経験上知っていた。
「いやいや。別に努力しているわけじゃなくて、自然とそうなっちゃうだけだからね。みんなはできないみたいだけど」
ステファノのお愛想を本気にしたらしい。少年は小鼻をうごめかしてうそぶいた。
「余計にすごいね。君は魔術師なの?」
「もちろんさ。ボクの先生は『疾風』のマランツだからね。君も知ってるだろう?」
ステファノは名前を聞いたことがなかった。元々、魔術師の世界とは接点がなかったので、3大上級魔術師の名くらいしか耳にする機会がなかったのだ。
「ごめんね、聞いたことがないや。きっと有名なんだろ? 俺は最近まで魔術のことなんか、何も知らなかったもんだから」
ステファノの返事を聞いて、少年の態度ががらりと変わった。
「嘘を吐くなよ! 師匠につかなきゃ無詠唱の魔術なんて使えるもんか! お前も先生を馬鹿にしてるんだな」
興奮しやすい性格なのだろう。目の色が変わっていた。
「本当に知らないんだ。師匠についたこともないし……」
「嘘を吐けっ!」
少年はステファノに向かって右手を開いて突き出した。渦を巻く藍色の光紐が、少年の手のひらからステファノに向かって走る。
ぼっ!
太鼓を鳴らしたような腹に響く音と共に一陣の風がステファノを襲い、手の中の手拭いを巻き上げて宙に飛ばした。
「あっ!」
「ふん。無詠唱とはこうするもんだ」
少年は目に掛かった前髪を、引き戻した右手で直しながら言った。
ステファノは聞いていなかった。
(プリシラからもらった手拭いが……)
飛ばされた手拭いを眼で追いながら、ステファノは念誦を行った。
(ゑひもせす~ ん~)
(静まれ!)
手拭いをさらった風が紫の光となって散って行く。力を失った手拭いはひらひらと海面に落ちて来た。
「何? そんな馬鹿な!」
魔力を散らされた少年が驚愕の叫びを上げた。
ステファノはそれに構わず、じゃぶじゃぶと膝まで海水に漬かりながら手拭いを拾い上げた。
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