第92話 逃れようのない戦いの結末。

 遡ること1時間、ステファノはドアの横でただ待っていた。


 その瞬間が来ないでくれることを、ひたすら祈っていた。

 だが……。


 祈り空しく、ついにその瞬間がきた。


 廊下に足音が響き、一歩一歩近づいて来る。

 ついにステファノが佇む戸口、ドアの前で止まった。


 泣きそうに顔を歪めながら、ステファノは左手を握り締める。


 ガチャガチャと手荒に鍵を回す音がして、施錠が解かれた。

 ステファノはドアノブから眼が放せない。心臓の音が、ドアの向こうまで聞こえてしまうのではないかと焦る。


 鍵が抜かれ、ドアノブがかちゃりと回った。ドアが内側に動き出す。


 20センチ、30センチ。ドアの隙間が開いていく。

 40センチ、50センチ。人が通るにはやや狭い。


 そこでドアが動かなくなった。


「あ?」


 間延びした声が聞こえた。


「何だ、こりゃ?」


 50センチの開口部を横切って、一本の細縄が張られている。


「どうなってんだ?」


 下っ端の男は、縄の先がどうなってるか見ようと、間口から首を伸ばした。その瞬間――。


 ステファノは縄の途中を右手で掴むと、男の差し伸べられた首に巻きつけた。

 そのまま小型ヨットの水夫がブームに繋いだロープを引くように、体を後ろに投げ出す。


「ごっ! うぶっ?」


 ロープの端はドアノブに結ばれている。床すれすれに上体を倒したステファノの両手との間、一直線にロープは張られていた。

 思い切り引かれた勢いで、ドアは男の肩から上を挟むように押さえつけた。獲物を捕らえたワニのように。


「ぐ、ず、ず……」


 男は跪き、必死に空気を求めるが、首に食い込んだ麻縄が気管を潰して邪魔をする。

 指を挿し込もうとするが、ステファノが全体重をかける麻縄は少しの隙間もなく肉にまで食い込んでいた。


 男の爪は空しく自分の首を傷つけるだけであった。


 歯を食いしばって、ステファノは縄を引き続ける。

 歯を食いしばって、男は空気を求める。


 両手に縄を掴んで緩めようともした。しかし、遅かった。

 男は既に膝をついて態勢を崩しており、踏ん張ることができない。腕の力だけでは、ステファノの体重と全身の力を跳ねのけることができない。


 男の顔が、赤黒く染まる。見開かれた眼が飛び出すように膨れる。


 脳への血流が止まると、男は失神した。


 だらりと両腕が垂れ下がり、空気を求めて開いた口から舌を垂らしたまま、男は動かぬ肉人形となった。

 斜めに張られたロープの中間にぶら下がった、一塊ひとかたまりの物体に変わった。


「うっ、うっ、うっ……」


 ステファノは手を緩めることができない。目を開けることができない。


 ロープの先に目を向けることができない。


 麻縄を握り締めた両手は擦れて、血を流していた。

 ロープを巻き付けた左手首に食い込んだ輪が皮膚を破っていた。


 手首の血流が滞り、左手首が赤黒くうっ血していた。破れた皮膚から血が滴る。


 既に両手の感覚はない。ロープを握れているのかも良くわからない。

 ただ、引かなければならない。ロープを緩めることはできない。手を放すことができない。


 放せば殺される。


 恐怖に突き動かされて、力尽きて床に落ちるまでステファノは縄を引き続けた。

 床に倒れ、全身汗まみれになりながらもステファノは動けなかった。


 目を開くことができなかった。


 動けば見てしまう。


 ロープの先にある物を――。


 目を開けば見えてしまう。


 音を立てて床に落ちた物が――。


 自分が殺した人間が。


「!」


 自分が殺した人間が、今そこに転がっている。

 それがわかった・・・・瞬間、ステファノはたまらなく恐ろしくなった。


 死体・・の側にいるのが、気持ち悪くて耐えられない。


 全身に鳥肌が立ち、バケツの水を浴びたほどの汗が噴き出した。

 胃がひっくり返り、酸っぱい胃液が喉を逆流して口からあふれ出る。


「うぐっ! ぐ、ぐ、ぐぇえええ……」


 吐しゃ物をまき散らしながら、ステファノはロープを捨てようとした。

 肉に食い込んだロープをほじり出すように、皮膚が傷つくのも構わずかきむしった。


 その時。


 ロープの先を見てしまった。

 投げ捨てられた人形のような、いびつな塊を。


「ああー。嫌だぁー!」


 嫌だ。見たくない。とにかくアレ・・から離れたい。


 ステファノは奇声を発しながらやみくもに麻縄を手首から外した。

 自由になると、尻をついたまま後ずさりに部屋の隅まで下がった。


 とにかくアレ・・から遠ざかりたかった。


 部屋の隅でドアに背を向け、膝を抱えて顔をうずめた。


 とにかくアレ・・を見たくなかった。


「嫌だ、いやだ、いやだ……」


 ステファノは目を固く閉じて、つぶやき続けていた。


 ◆◆◆


 マルチェルにはそれが男の死体であることはすぐにわかった。もう命のない物体であると。


 ドアノブから伸びた一本のロープが殺人の凶器であろう。


「……だ、……だ、……だ」


 奥から声が聞こえた。


「ステファノか? 無事ですか?」


「……だ、…やだ、いやだ」

「ステファノ?」


 死体をまたぎ、部屋に入って奥にまで光が届くようにして見ると、部屋の隅にステファノが背を見せて座り込んでいた。


 床に点々と散り、跡を引いているのは血だろうか。


「ステファノ、怪我をしていますね?」


 マルチェルは燭台を床に置き、静かにステファノに近づいた。


「遅くなってすみませんでした。ステファノ、帰りましょう」


 同じ痛みを知る者の声でマルチェルはステファノに話しかけた。

 その声が届いたのであろうか、ステファノが顔を上げた。


「マルチェルさん……」

「よく頑張りましたね。もう大丈夫です。帰って傷の手当てをしましょう」

「マルチェルさん、俺は……」


「うわぁああーっ!」


 ステファノは突然身を起こし、石の壁に頭を叩きつけようとした。


 それよりも早く。マルチェルはステファノに身を寄せ、背中から抱きしめた。


「悩むのは後からで良い。今は傷の手当てをしましょう」


 マルチェルの手はステファノの首のツボを押さえ、脳への血流を止めていた。やがて目の前が暗くなり、何かを考える前にステファノは意識を手放した――。

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