第87話 誰にでもできることなんだ。
「良いか? 小麦粉の生地ん中に腰と粘りを出す『芯』があるんだ。そいつを集めてこねてやると、生地が言うことを聞くようになる。『芯』は散らばってるからな。一遍には集まらねえ。少しずつ、少しずつコネ合わせて、言うことを聞かせるんだ」
「力じゃねえ。根気と技だ。手順さえ踏めば、誰にでもできることなんだ。こどものおめえでもな……」
バンスはそう言ってパイプをふかしていた。面白い物を見るように、笑っていた。
(麵が打てるようになるまでは大変だったな。腕が芯まで疲れちゃって……。あの時の生地の大きさに比べれば、こんな縄なんか)
ステファノは頭の中で麻縄を想像する。細い繊維が寄り集まった塊を。
そこに杭を打ち込む。
どんなに踏み固められた土でも、杭を打ち込み続ければやがて解れる。
10分を掛けて、ステファノは1本の麻縄を解していった。
(よし。角指の先にばらけた繊維を感じるようになったぞ。後は1本ずつ、棘の先で切って行くだけだ)
ステファノは想像する。鍋の中で沸騰する湯。湯の中では細く切られた麺が躍る。
その麺を、一本だけ。
竹串ですくう。
3本でも、2本でもなく、ひと筋の麵を竹串の先に引っ掛けて。
頭の中にある見えない縄に、見えない角指を当てる。角指の棘、その先端に感覚を集中する。
「武術の世界では武器も体の一部と考えます」
「包丁はよ。体の一部なんだ」
頭の中で、マルチェルとバンスが語り掛ける。
「切れない物なんてあるもんか」
ぷつり。
「ほらな?」
バンスは笑って、煙を吐き出すのだ。
(切れました。親方)
ステファノは閉じていた両目を開けて、微笑んだ。
1時間でステファノは
(さて、どうする?)
ステファノは自分に問い掛けた。
マルチェルか、他の人間が助けに来てくれれば良い。ステファノはじっとしているだけで店に帰れる。
だが、間に合わなかったら――。
口入屋の人間と直接対決しなければならない。
だが、ステファノには武術と言えるほどの技はない。
武器は角指だけだ。
角指は敵の意表を突き、主導権を取ることには役立つが、それ自体殺傷力はない。敵を倒すことはできないのだ。
(予測が立てられない時はどうするんだっけ?)
「そういう場合は最悪に備えるべきだね」
変人の学者様がパイを食べながら、語り掛ける。
「事に当たってはできる限り予測し、計画を立てるべきです。だが、予測が及ばない部分があったら、最悪に備えるのが賢い態度ですね」
「バカに限って備えを怠るもんです。その癖、結果を『運』だとか、他人のせいにする」
「人事を尽くすって言いますけどね。本当の意味で人事を尽くしたら、『天命』なんて物の出て来る余地はないんですよ」
(そうでしたね、先生?)
憂えた顔でステファノは麻縄を手に取る。手首を縛っていた縄と足首を縛っていた縄。
足首を縛めていた縄は切れ目なく解いてある。
ステファノは麻縄の両端に解けぬように輪を作った。
輪の一つを左手首に通し、もう一つの輪をドアノブに引っ掛けた。
そうしてステファノはドアの横に立った。
それから5時間、ステファノは状況が動くのを待った。
◆◆◆
ステファノが手首の縄を切ろうとしていた頃、マルチェルは「鴉」の1人からジェドーに関する報告を受けていた。
「ふむ。あこぎな金貸し以外に、殺しや火付などの裏の仕事を取り次ぐことも家業にしているのだな?」
「はい。自分では手を汚さず口入屋を通して闇稼業の人間に仕事を回しています」
「なるほどな。金貸しという仕事は、世の中の歪み、ひずみが集まって来る場所にあるからな」
「おっしゃる通りで。随分と貧乏人を泣かせているそうです」
金貸し自体は社会に必要な機能であり、それ自体は「悪」ではない。
多少高い金利を取ろうと、それでも借りたいという人間にとっては「救いの神」なのである。
問題は、「破綻するとわかっている相手に高利で金を貸す」ことだ。ジェドーは借り手が元金を返せなくなることを前提に、金銭消費貸借契約を結ばせている。
「返せなかったら家を渡す。商売の利権を渡す。秘密のレシピを差し出す」
そういう結果になることをむしろ期待して、金を貸しているのだ。
そんなことばかりしていると、世間で起きている「もめ事」の情報が自ずと集まるようになってくる。
「あそこの土地を地上げしたい」
「商売敵を追い落としたい」
「あの店より先に新メニューを始めたい」
そんな話である。
都合よく返済を滞らせた口入屋がいたので、「お前がやらんか?」と持ち掛けた。
金に困っていた口入屋は二つ返事で引き受けた。
そこまで手を伸ばしているのが、ジェドーであった。
「そうか。ならば、死んだところで泣く者はいないな?」
マルチェルは「鴉」に聞いた。
「うれし涙ならあちこちで流れまさぁ。ジェドーが死んだら、祭りでも始まるんじゃないですかね」
憮然とした「鴉」の言葉に、マルチェルは皮肉な笑みを浮かべた。
「祭りか。祭りの発起人というのも、悪くないな……」
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