第67話 少年はペンを執った。

 白蛇は意志ある者のように壁をい、換気口から食肉倉庫へと入り込んだ。


 エバは煙管キセルを口から外し、右手の指を2本突き出すように前に向け、呪文に集中した。すると、蛇の胴体が、尾が、巻き取られた帯のようにするすると頭を追って換気口をくぐっていった。

 

 力を使い果たしたようにぐったりとしたエバは、数瞬後、ゆっくり煙草を吸いつけ、満足気に煙を吐き出した。

 ステファノには、大蛇が舌なめずりしたように見えた。


「エバさん……」


 タバコを吸い切ったエバは、煙管を木のうろに打ちつけて灰を捨てた。空になった煙管をぷっと吹き、火皿に残った灰ごとヤニを切る。

 熱くなった鉄皿を暫く冷やしてから、悠々と道具を仕舞い、エバは木の上から姿を消した。


 遠眼鏡を下ろし、茫然としている所へマルチェルがやって来た。


「現れたようですね、ステファノ。む? どうかしましたか?」


 肩を落としたステファノの様子を見とがめて、マルチェルが尋ねた。


「何でもありません。いえ、実は……」


 珍しくステファノは口ごもった。


「何があった? 落ちついて話してみなさい」


 マルチェルは答えを急がず、側の椅子に腰かけてステファノを見守った。


「実は、刺客の女に会ったことがあります」

「本当ですか? あの女は何者ですか?」


 マルチェルも別の場所から監視していたのであろう。刺客を「あの女」と呼んだ。


「名前はエバ。魔術師崩れの傭兵だと言っていました。主に護衛の仕事をしていると」

「護衛……ですか。わかりました。驚いたでしょうが、我々の役目はジュリアーノ殿下の守護です。気をしっかり持つのですよ」


 知り人が罪に手を染めていた衝撃。若いステファノがそれを受け止めるには少しの時間が必要だった。

 マルチェルはあえて深追いせず、ステファノが自ら立ち直るのを待つことにした。


「正体が知れた以上、焦る必要はありません。落ちついたら似顔絵を持って来てください」


 そう言うと、マルチェルは書斎を後にした。


 残されたステファノは文机に広げられた紙に向かったが、ペンを執る気力を見出せずにいた。自分の画が、指し示す指がエバを処刑台に送ることになる。

 それを想像せずにはいられなかった。


「ステファノ、入るわよ」


 その時、プリシラがトレイを持って書斎にやって来た。


「マルチェルさんが、何か持って行って上げなさいって……。どうしたの、その顔?」

「プリシラ……」


 ステファノは危うく崩れ掛けた心を何とか立て直した。自分の役目は何であったか?


「大丈夫? あんまり根を詰めないでね。紅茶を入れたから、置いて行くわね」


 深い事情を聞かされていないプリシラは、ステファノを気遣う言葉だけを残して去った。


 文机に置かれたティーセット。カップからは紅茶の柔らかい香りが漂っている。

 うっすらと立ち上る湯気は気まぐれに体をくねらせたかと思うと、すぐに消えてゆく。一瞬だけの妖精。


 震えていた心が静まった。


 ステファノは紅茶を口に入れ味わいながら、館の人々を思う。


 ネルソン、マルチェル、ソフィア。

 アラン、ネロ、ジョナサン、ケントク、エリス。


 ジュリアーノ王子。プリシラ。


 勇気があった。覚悟があった。決意があった。

 怒りがあった。怯えがあった。優しさがあった。


 掛け替えのない命があった。


「――俺は俺のできることをしよう。大切な人を守るために」


 ペンを執ると、ステファノは画を描いた。


 エバの顔を描いた。エバの立ち姿を描いた。

 銀色の髪を下ろした姿を描いた。微笑む顔を描いた。


 遠くを見る物憂げな表情を描いた。


 そこにいるのは樹上で毒蛇を操る暗殺者ではなく、夢多き少年に昔語りをする旅人の姿であった。

 

 ステファノがほのかに憧れたエバという名の女性であった。


 絵姿のインクが渇いた。ステファノの心のどこかで、何かがかさりと音を立てた。


――――――――――

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