5話 変化するもの


 顔を上げておどへ視線をもどす。倒れている二人にはなんの変化も見られない。たおれた場所からピクリとも動いていなかった。

 ママからあずかったタオルをにぎりしめて旭人はおそる恐る二人に近づこうとした。


 ふと、二人の頭上に黒い球体がかんでいることに気がついた。


 旭人の手のひらぐらいの真っ黒な丸いもの。ちょうど野球ボールくらいのものだろうか、それがぽつんと浮いていた。

 キーン、と甲高かんだかい音がひびわたる。

 突然とつぜんの耳鳴り。

 不快感の強い音に旭人はまゆをひそめて耳をふさぐ。

 その音はすぐにおさまり、旭人が視線を戻せば、黒の球体の姿は変化していた。


 一本のとげのようなものが天に向かって、ちょこんと生えている。

 注射針ちゅうしゃばりやうにのような、細く見るからにさったらいたそうななものではない。旭人の家の屋根のでっぱりのような、真っ黒な棘だった。

 気づけばぽかんと、半開きになっていた口をきゅっと閉じる。

 ごくりとつばをんで、棘が生えた黒い球体を見つめ続けた。少しでも視線を外したら、こちらに向かってくるかもしれない、そんな恐怖きょうふで目をそらすことができなかった。


 黒の球体を見続けてどれほどの時間がたったのだろうか。両手でにぎりしめたタオルが、手のひらのあせを吸い込んで冷たくなってしまっても仕方のないくらいの時間は過ぎていた。

 水が沸騰ふっとうするような、ぼこぼこぼこという小さな音が旭人の耳に届いた。黒の球体が少しずつ大きくなっていき、バスケットボールほどの大きさになった。生えている棘のとなりが激しく波打なみうち、もう一つの棘が生えてくる。

 一刻も早く旭人はこの場からげ出したかった。

 けれどもパパとママを見捨てて、逃げ出すことはもっとしたくなかった。知らず知らずのうちに後退あとずさっていた足をる。どんどん大きくなっていく球体から視線を外せなかった。


 球体から胴体どうたいが生えて、足のようなものが地面につく。

 二つの棘を生やした、人の形をしたものに変わっていく。

 球体だった部分には、青白い光る丸が二つ。ギザギザとした白いものが、横にならんでいる。

 その姿すがたは旭人が日本昔話の桃太郎ももたろうで見ていた、おにのようなものだった。


 旭人は息をのむ。

 鬼のすぐそばにはパパとママがいる。鬼がほんの少しでも動けばパパとママがどうなるかわからない。


 どうしよう、どうしよう……!


 その思いで旭人の頭は一杯いっぱいになる。旭人は鬼を凝視ぎょうししていると、ゆらりと鬼の体がれたような気がした。とっさに階段かいだんに足をかける。

 ギザギザとした白いものがぱかりと開いて、黒のもやが広がっていく。

 ママとパパの姿が黒のもやに包まれていくのを見て、階段にかけた旭人の足が、ガタガタとふるえた。

 ママとパパに危険がせまっているのに、ぼくはただ見ていることしかできないのか、と旭人はぎりっと歯をむ。


「や、だ……」


 この場所で動くことができるのは旭人だけ。今まで実際に見たこともない、鬼はこわい。


「やめて……!」


 けれども、それ以上に。

 旭人はママとパパを失うのが、怖かった。


 三段目の階段から先は黒のもやで前が見えなかった。ママとパパを助けるにはこのもやの中を通って行かなければならない。旭人は一瞬いっしゅんためらったが、それでも階段をけ上がり、踊り場にたどり着こうとした。

 だが、


「……っ!」


 黒のもやにれた瞬間しゅんかん、ぞわりと鳥肌とりはだがたった。冷たいこおったような冷気に足が止まる。体の内側からじわじわと侵食しんしょくしてくる気持ち悪さに動くことも、声を出すこともできなかった。


 視界がだんだん黒く染まっていく。

 体が黒のもやに包まれる。

 動くことができない旭人は、ぼくじゃだめだったんだ、と漠然ばくぜんとした思いが頭をよぎった。


 ママとパパの代わりにぼくがたおれていたらこんなことにはならなかっただろう。

 もしも、ぼくがもっとわがままを言わずにいい子にしていたら。

 ママのタオルをよけていなかったら、こんなところには来なかったかもしれない。


 そんな後向きな気持ちが、ゆっくりと心の中にあふれ出していく。

 ふと、伊織の顔が頭にかんだ。

 小学低学年から一緒いっしょにいる、しっかり者の女の子。

 彼女かのじょだったら動けなかった旭人と違って、何かしらのことをできたにちがいなかった。


 ぼくじゃなくて伊織ちゃんがいてくれたら、ママとパパはきっと無事だった。


 確信めいたしずんだ気持ちが、旭人の心を満たしていく。


 ごめんなさい、ママ、パパ。

 伊織ちゃん。


 目をせて、旭人はそう、心の中でつぶやいた。




 黒の視界しかいに、白い光が目の中に飛び込んできた。



 全身があたたかな陽気で包まれる。反射的はんしゃてきじた目の中にもやさしい光がかすかに入ってくる。旭人はゆっくり片目を細く開いて、顔をおおった指のすき間からあたりをうかがった。

 さっきまでこの場所は黒のもやでまっていた。けれども踊り場の鬼から出てきたはずの、黒のもやの姿はかげも形もなかった。

 身がこおってしまうような冷気も、体の内側から侵食しんしょくしていく気持ち悪さもかき消えている。

 代わりにあたたかくおだやかな気持ちで全身が満たされていく。優しく包み込むような心地ここちの良い光だった。


 その光源は旭人の前に浮かんでいる丸いもの。思わず手をばして、その光をそっとつかみとる。胸元むなもとに持っていき、ゆっくりとこぶしを開く。

 旭人の手のひらでかすかに光る、白の光。朝焼けのような、あたたかみのある光だった。その光は徐々じょじょにおさまっていき、つるつるとした、一円玉くらいの透明とうめいな丸石が姿を表した。

 なぜあれほど自分が落ちこんで、しずんだ気持になってしまったか、今の旭人にはわからなかった。

 けれども、この石が助けてくれたんだ、と旭人はママからあずかったタオルと一緒いっしょに丸石を包み込む。

 そして踊り場のママとパパの無事を確認かくにんしようと勇気をだして前へ視線を向けた。


「……!」


 旭人は目を見開いた。

 ママとパパがたおれた位置は変わっていない。けれどもその近くにいた鬼が移動している。踊り場から五段ほど上がった階段の上。そこに鬼がいた。

 黒のもやをき出す前は、パパと同じくらいの大きさだった鬼は随分ずいぶんと大きくなっている。旭人の部屋の天井をやぶってしまいそうなくらいの、巨体きょたいになっていた。階段は踏面ふみめんが広めなものだったが、それをはみ出すほど。うでも、足も、象の足のような大きさに変化していた。

 鬼が黒いもやが消えたことに疑問ぎもんをいだいたのか、ゆっくりと首をかしげる仕草しぐさをする。そして、ゆらりと体をゆらした。


「や、だ……!」


 また黒いもやだ、と旭人はとっさに思った。

 鬼のギザギザとした白いものが、ばかりと開く。旭人は自分を助けてくれた石を握りしめ、ぎゅっと目をつぶった。


「ママとパパに近づかないで……!!」


 旭人の悲鳴は鬼に届いたはずだった。けれども鬼は旭人の願いを聞き受けるまでもなく、黒のもやを吐き出していく。

 再びママとパパに黒のもやがかかろうとしたその時、


神陽流しんようりゅう奥義おうぎ飛空閃ひくうせん!」


 どこからか高く、りんとした声が旭人の耳に届いた。その声と共に突風とっぷうれる。

 背後はいごからの風にあおられ、気をけば体勢たいせいくずしてしまいそうになった旭人は、思わず体をかばって足をる。


「っ……!」


 目をぎゅっと閉じてしゃがみこんだ旭人は突風がおさまったと感じて恐る恐る目を開ける。

 目の前にショートブーツと足が見えて、旭人はまばたきをした。ゆっくりと視線を上へ上へと上げていく。


 膝丈ひざたけほどの短い白のはかま

 あざやかな朱色しゅいろおび

 そでのない白衣はくい

 げ茶色のショートカットが揺れている。


「……」


 鬼から旭人を守るように立つその姿すがたに、人がいる、とようやく旭人は理解した。

 先程まで踊り場にいた鬼は突風で飛ばされたのか、駅改札へ続く階段上で倒れているのが旭人の視界に入った。それと一緒ににぶく光るとがったものが二つ、目に飛び込んでくる。


 旭人は瞬きする。

 先端せんたんが尖っているが、細身でゆるやかな曲線をえがいている片刃かたは

 その先には丸いりが見えた。

 剣道けんどうをしている旭人は咄嗟とっさつばだと思った。先端が尖っていて片刃と鍔があるということはこれは刀だ、と認識にんしきする。そのつかにぎっているのは紺色こんいろの手袋。旭人の目の前に立つ女性のものだ。

 旭人はつばをごくりと飲み込んだ。

 旭人の目の前に二振ふたふりの刀を手にした女性が立っていた。


神陰流しんいんりゅう奥義おうぎ


 聞き馴染なじみのあるき通った声。旭人は思わず目を見開いて、後ろをり返る。

 こしまでのさらりとした、紺色がかった黒髪くろがみが風で揺れている。

 小ぶりの弓。

 青白く光る矢をつがえて、きっとまゆをつり上げた幼馴染おさななじみが。

 黒いもやにつつまれた時、旭人が思い浮かべた伊織の姿がそこにあった。

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