第2話

「ご馳走さんでした」

 高田にある鮨屋「入船」を出ると、Dバッグを肩に引っ掛けた青年はぺこりと頭を下げた。

 その目の前で、白髪交じりの男はボリボリと頭を掻いている。

「おい、シンジ」

 男は腕を組むと、心配そうに青年を見上げた。

「オメー、『僕チャン』がアレっぽっちじゃ、足りねえんじゃねえのか? 明日っから試合なんだろ」

「僕チャンじゃなくてボクサーだよ。親爺さん」

「ボクサンとはお上品じゃねえか」

「ボ、ク、サー」

 気のいい青年は、苦笑しながらタンプトップの胸を掻いた。

 試合の為に必要な減量で、無駄な肉がすっかり削ぎ落とされているが、代わりにトレーニングで得た筋肉がその身体を覆っている。

 豊島伸次は若手のボクサーだ。

 一時はスランプに陥り、なかなか成果を上げられなかったものの、生来の負けず嫌いが幸いして、最近やっとトンネルを抜けた。

 しかし、近々試合もある。気は抜けない。

 今日は、豊島が子供の頃から「雷親爺」と呼びながらも慕っている鮨屋の親爺、港船一が、試合の近い豊島を応援しようと早々に店じまいをし、貸切で馳走してくれたのである。

 横文字に弱い港は、「どっちも似たようなもんだろ」と口を尖らせたが、再び不安げな表情で豊島を見上げた。

「オメー……。本当にでぇじょうぶなのか? 頬なんかコケちまってるじゃねえかよ」

「うん。大丈夫。って言うか、実は試合前にウエイト……体重を増やす訳にいかないんだ。スポンサーも期待してるし。つまんないことで棄権なんて事は避けたいんだよ」

「『スッポンさん』だあ?」

「スポンサー。後援者のことだよ。ライブ製薬って言うんだけどさ、知ってる?」

 港は頭を振ると、腹を突き出すようにして踏ん反り返った。

「おれっちは神田生まれの江戸っ子だからよう。異人さんの薬屋は皆目わかんねえな。ガキの頃から薬は富山の薬って決めてんだ」

「……日本の会社なんだけど」

 豊島は、ぼそりと呟くと眉をハの字に下げ、「まあいいや」と笑った。

「兎に角、凄く大きな会社なんだ」

「フーン」

「だからさ、試合に勝ったら、たらふくご馳走になるよ」

「バーローィ」

 港は舌を転がして悪態をつくと、悪戯でも企んでいる子供のようにニヤリと笑い、豊島の背中をバシッと叩いた。

「試合に勝ったらオメー、『キャンプ』だろ? そんなヤツにタダって訳にいくか!」

「チャンプだよ……」

「まあ、細けえこたいいじゃねえか」

 がっくりと肩を落とす豊島に、港は「カカカ」と声を上げて笑うと、捻り鉢巻を取った。

 そして、作務衣ズボンのポケットから車の鍵を取り出し、指に引っ掛けてくるくると回す。キーホルダーに付けられた数本の鍵が、チャラチャラと軽い音を立てた。

「これから下宿に帰ぇるんだろ、シンジ。送ってやらあな」

「え。いいの?」

「あたぼうよ! これから男になろうってんだろ、シンジ! さぁいざヤろうって時に大事なカラダに問題があったとあっちゃあ、寝覚めが悪ぃじゃねえか!」

 港の大きな声に、通りを行く人たちが、次々と振り返っては豊島をジロジロと見る。

 豊島の顔が、見る間に赤く染まった。

「お、親爺さん。誤解されるから……。せめて小さい声で頼むよ」

「てやんでえ! 昔っから、火事と喧嘩と、オヤジのダミ声は江戸の華だってんだ! 行くぜ、シンジ!」

 ダミ声が江戸の華なんて話は聴いた事がないが、すっかり諦めた豊島は、「はいはい」と港に合わせると、後について駐車場へと向かった。



*   *   *


 二人を乗せた古いセダンは254号線を北上し、板橋区徳丸にある、赤塚公園の徳丸ヶ丘緑地地区に到着した。

 赤塚公園は首都高速池袋線を跨ぐ様にして7つの地区に分類されている。

 徳丸ヶ丘緑地地区は、その中で東に位置している辻山地区のすぐ隣にある、芝生と極小さな池のみの、これといった特徴のない緑地であった。

 豊島のマンションは公園の首都高側にある。

 その為車はマンション周囲の一方通行をぐるりと回るようにして走行し、公園の敷地に乗り入れる形で静かに止まった。

「親爺さん、今日は有難う。スゲー嬉しかった」

「いいってことよ。その代わり、負けたら承知しねえからな」

 港は、豊島の胸を拳骨で軽く打つと、ニカッと歯を見せて笑った。

「おお、そうだ」

 車から降りた豊島を引き止めると、港も慌てて車を降り、バックシートから包みを取り出した。

「これ、冷蔵庫で冷やしときな。ウチの鶏の卵で作ったプリン──ん?なんか随分臭うな」

 車の上から包みを渡しながら、港は鼻の穴を大きく広げ、そして皺を寄せた。

 風に乗って、酷く生臭い、嫌な臭いが漂ってくる。生ゴミと動物園の臭いが混ざったような、兎に角不快な臭いだった。

「……だれか、ゴミを捨て忘れたのかな」

 豊島も、あまりのきつい臭いに顔を顰めている。

 こんな季節に1度ゴミを出し忘れたら、それがどんな臭いを放つか、豊島自身も良く知っていた。

 トレーニングに明け暮れ、へとへとになってベッドに倒れこむ。それが続くと、うっかり早朝にゴミ出しをし忘れてしまうのだ。

「だらしのねえヤツがいるんだな」

 そう言う港の言葉に苦笑していた豊島が、ふと身を固くした。目だけで周囲を見回し、全身で気配を探っている。

「どうしたんでえ。シンジ」

「いや……。なんか、唸り声みたいのが聞こえたんだけど……。野良犬かな」

「おいおい。犬っころ如きにビビってんじゃねえだろうな」

 屈強なボクサーの意外な言葉に、港はそう言うとからかうように笑った。

「そんなんじゃ──」

 ──ない。

 そう続けようとした時、豊島は、港の後ろに大きな影を見た。

「親爺さん! 後ろッ!」

 そう叫んだ次の瞬間、港は「フゴッ」っと言うくもぐった声を上げ、ロケット花火さながらに勢いよく飛びあがった。

 否。影に頭部を掴まれ、そのまま投げ飛ばされたのだ。

「親爺さんッ!」

 数メートル先の地面に叩きつけられた港に駆け寄ろうとした豊島は、驚愕に目を見開いた。

 ゆっくりと、倒れた港のもとへと向かう影が外灯に照らされ、その姿が露わになったのだ。

「な……」


──鬼?


 直感的にそう感じた。

 頭から突き出た角の所為かもしれない。

 今まで感じた事の無い恐怖で全身が痺れた。非現実的だなどと思いもしなかった。

 目の前の、異臭を発し全身を剛毛で覆われたそれは、現実に荒い息を吐き、涎を垂らし、黄色い目で震える獲物を見ている。

「ヒ……ヒィィッ! た……助け……」

 獲物は、大声を上げようにも、喉が萎縮してまともな声にすらならない。

 這って逃げるも、泥の中を泳ぐようなものだった。縛られ、ぶら下げられた亀のように手足をばたつかせ、もがく。一向に進まない。

 鬼は、無様極まりない獲物を眺めると、喉を鳴らし、口を吊り上げて笑った。

「やめろ……」

 一歩一歩、港へと向かう鬼の背に、豊島は呟いた。

 間違いない。喰らうつもりだ。

 風に乗って鬼から漂うあの異臭は、ゴミの臭いなどではない。

 死臭なのだ。

 剛毛を湿らせているのは血と、体液と、それから──。

「やめろぉぉぉっ!」

 豊島は、狂ったように叫びながら、鬼の背に飛び掛った。

 しかし、硬い毛が頬に触れるや否や、身を捩った鬼の肘が鳩尾にめり込む。

 豊島は、吐瀉物をぶちまけながら、その身を宙に躍らせ、芝生の地面に頭から叩きつけられた。

 直ぐに体を起こすも、視点が定まらない。地震でも起きたかのように視界が揺れ、再び嘔吐した。

 脳震盪だ。

「く……」

 頭の中で何かが渦を巻く感覚に、豊島は頭を抱えた。

 スッと足元から地中に吸い込まれていくような感覚。

 豊島はボクサーだ。その豊島に、たった一撃でこれほどのダメージを与えるとは、なんと言う力か。

 これまで試合で数え切れないほどのダメージを受け、怪我を繰り返してきた。それでも死を意識した事は無い。

 だが、豊島は今、死と言うものをハッキリと意識した。

 目の前のあれは明らかに普通ではない。

 死ぬ。殺される。喰われる。


──喰われる?


 考えられないような末路に愕然とした時。

「シンジ!」

 振り絞るような掠れた声に顔を上げた豊島が見たのは、又しても、バスケットボールの様に頭を掴まれた港の姿だった。

 鬼は、軽々とそれを振り上げると、こちらへ向けて投げつける。

 とっさに両腕で顔を庇った豊島の直ぐ目の前で、ぐしゃりと派手な音がした。

 車のフロントガラスが、割れる事無く蜘蛛の巣のような皹を作り、木偶人形さながらの身体が、飴の様に拉げたガラスにめり込んでいた。

 鬼は容赦なく獲物の身体を掴み上げると、ドゴン、ドゴンと何度もボンネットに叩きつける。

 ボンネットが大きく凹み、白いボディが、見る間にぬらぬらとした血に濡れた。

 ごぶ、とも、こぽ、ともつかぬ奇妙な音をたてながら、港の口からドロリとした血が流れ出す。そしてそれは、鬼を更に興奮させるに値したようだ。

 己の手にべっとりとついた血を舐めると、黄色い目を見開き、だらりと赤く染まった舌を出し、溢れる唾を垂れ流して、目の前の動かなくなった獲物を覗き込む。

 と、鬼の動きが止まった。

 獲物が震える唇を動かしているのを、小首を傾げて眺めている。

 生きている。

 それに気付いた豊島の視線も、唇へと移った。

 ゆっくりと唇は動く。何かを告げている。

 豊島は目を細めてそれを凝視した。

 ふいごの様に、ひゅうひゅうと音を立てながら、唇は僅かな声を宙に放とうと動く。


 に……ろ。


 ……げろ。


──逃げろ、シンジ!


「親爺さんッ!」

 鬼が、ニタリと笑った。

 巨大な手が、獲物の胸をボンネットに押し付ける。

 ミシリと嫌な音がした。

 パパァァァァーーッ!

「ギャアアアアアッ!」

 直ぐ近くの高速から鳴り響く、トラックの馬鹿でかいクラクションと、獲物の悲鳴が重なった。

 鬼が、獲物の柔らかな腹に鋭い爪を突き立て、ずぶりと手を突っ込むと、痙攣する体から内蔵を引き摺り出したのだ。そして、たっぷりとしたそれを迷う事無く口元へと運ぶと、舌先で舐め上げ、そして齧り付いた。

 垂れる汁を一滴も零すまいと、浅ましい音をたてて啜る。

 その足元に、獲物の屍骸がずるりと滑り落ちた。

 しかし、鬼は全く意に介する事無く、ベチャベチャ、クチャクチャと租借している。

 そんな下卑な獣を呆然と見ていた豊島は、ハッとして、ゆっくりと腰を浮かせた。

 幸いにも脳震盪は治まった。逃げるなら、今しかない。


──ゴメン。


 鬼の足元に転がる骸に心の中で呟くと、一歩踏み出した。

 パキン。

 乾いた音が、租借音を止めた。

 悪い事は続くものだ。

 豊島が足を上げると、そこには砕けたガチャポンのケース。

 全身から冷たい汗が吹き出た。

 鬼が、こちらへ向かってくる。手付かずの新鮮な肉の存在を思い出したのだ。

「クソッタレ!」

 豊島は口汚く罵ると、厳しい練習ですっかり潰れた拳を握り、身構えた。

 大人しく喰われてなるものか。戦い方なら、厭と言うほど知っている。相手が人であれば、殺す事も可能なだけの力も備えている。

 まな板の上の丸魚のように、易々と腹を裂かれ、濁った目で宙を仰ぐなど、真っ平ごめんだ。

 ふうっと一つ、大きく息を吐いて、じりじりと迫ってくる鬼との距離を、爪先で軽いステップを踏みながら取る。闇雲に飛び掛っても無駄だ。相手が動くのを待つのだ。

 恐らく、チャンスは一度。それを逃せば命はないだろう。

 緊張で、再び全身に痺れにも似た感覚が広がるのがわかった。冷たい汗と、頭を打ち付けた時に出来た傷から伝う血が額を流れ、目に入る。痛い。

「……ッ!」

 涎を垂らしながら鬼が襲い掛かってきたのは、左眼窩に入り込んだ血に奪われた視界を取り戻そうと、顔を歪め、片目を瞬かせた時だった。

 シュッと空を切る音が、気配を察して軽く横へ倒した豊島の頭の横を掠める。


──今だ。


 アクシデントが好機に変る瞬間。

 分の悪い試合でも、これを見極められる者は、制する事が出来るのだ。

「く……らえぇぇッ!」

 豊島は、軽く背を丸めて膝を折ると、それをバネにして飛び出し、懐に入り込む。そして、すかさず、鬼のボディーに強烈なパンチを入れた。

「ぐ……ぅッ」

 呻き声を漏らしたのは、豊島の方だった。

 剛毛を通しても感じる、鋼のような硬い筋肉。拳に、重い痛みが走った。

「……っくしょおっ!」

 奥歯を噛み締め、鬼の鳩尾に絶え間なく左右の拳を入れる。

 叩きつける毎に、拳が擦り切れるのがわかった。

 相手に全く効いていないのも。


──殺される。俺は、殺される、のか。


 そう脳裏を過ぎった時、不意にガツッと頭を掴まれた。

 コクッ。と首の骨が鳴る音を聞いたかと思うと、地面から足が浮く。

 次に聞いたのは、ザザッと言う、自分の体と芝が擦れ合う音だった。投げ飛ばされたのだ。

 そのまま惰性で体が転がる。

 が、それが止まって直ぐ、今度は自身の意思で、体を転がした。

 起き上がる間もなく、鬼が爪を突き立てて来たからだ。

 右へ左へと、転がりながらよける。その度に、体の横で千切れた芝が、青い匂いを撒き散らしながら舞い上がった。

 次に放たれるのが右か、左か、予測など出来なかった。そんな余裕などなかった。

 頼れるのは、己の本能だけ。そして、いつまで続くか怪しい、己の体力だけだ。

「ハッ、ハッ、ハッ」

 ザクザクと地面を付く音と、自分の激しい呼吸音が、おぞましくも一定のリズムを刻む。

 しかし、このリズムが乱れた時に訪れる恐怖を思うと、それを止める事は出来なかった。

とは言え、いつまでももつ筈もない。

 気力も、体力も、既に限界を超えていた。


──誰か……。誰か……。誰かッ!!


 体を振る度、鬼の肩越しに小さく見えるマンションの灯りに、心の中で助けを求める。

 その、悲しい程に当然の心理が、ついに彼のリズムを狂わせた。

「つッ!」

 ピッと、鋭い痛みが豊島の首筋に走った。鬼の爪が、豊島の首を掠めたのだ。

 驚愕に、思わず動きを止め、そして、その一瞬を鬼は見逃さなかった。

「あっ、ぐ……ッ!」

 巨大な手が、がしりと豊島の首を捉え、グイと顎を押し上げる。

 否応無しに、喉が露になった。

 全身をバタつかせるも、びくともしない。顎を覆う手に爪を掛けても、緩まない。

「がぁ……っ、ふっ……、ハアッ……」

 浅い呼吸を繰り返す度に、己の喉がひくつく。例えようのない恐怖が全身を駆け抜け、獣の荒い息が耳に、異臭が鼻につく。眼下に、鬼の顔があった。

「ヒッ」

 体中が粟立ち、情けない声が口をついで出る。

 首筋を、生暖かく、ざらついたものが這い回った。鬼の舌だ。爪で裂けた傷を嘗め回している。

 当然ながら、怪我を癒す行為とは明らかに違う。

 これは──、期待だ。

 傷から流れる血を舐めながら、これから味わう肉の味への期待を高めているのだ。

 恐怖が冷たい稲妻となって体を貫く。気を失いそうだ。

「っそ……ッ。っそォォッ!」

 搾り出すように、諦めきれない生への執着を声にした次の瞬間、豊島は、振り上げられる鬼の手を見た。

「……ッ!」

 次に襲って来るは、腹を穿たれる痛み。内臓を引き千切り、引きずり出される苦しみ。そして、そして──。


*   *   *


「おい。何やってんだ」

 肩越しに声を掛ける。酷く嫌な予感がした。

「あは……あはは」

「あはは、じゃねぇだろうが」

 言いながら、高瀬は、ガコガコと倒していたシートを起こし、靴を脱ぐと胡坐をかいた。

 御山荘を出てから数時間。二人は、エンジンをかけたまま停車させた覆面パトカーの中にいた。

 柴田は運転席で冷や汗をかきながら、バサバサと、広げた地図を右へ回転させたり、左へ回転させたりしながら、車内の頼りないライトで眺めている。

 高瀬は眉間に皺を寄せて、柴田をじろりと睨んだ。

「ったくよー。何迷子になってんだ、オメーはよ。貸せ!」

 ガリガリと頭を掻き、柴田から乱暴に地図を奪い取る。すると、柴田は亀のように首を竦めて、上目でオドオドと高瀬を窺った。

「だって、高瀬さん寝ちゃうんですもん……」

「ハア? 俺の所為かよ。ふざけんな。つか、ここ何処だ」

 高瀬はキョロキョロと周囲を見渡した。兎にも角にも、現在地が分らなければ、どうしようもない。

 だが、柴田はへらっと笑うと、「ええっと……」と、明後日の方向を見た。

「ええっと? ……なんだ。んん?」

 嫌な予感がしたが、高瀬も無理やり口角を上げ促した。目の下が否応無しにぴくぴくと痙攣する。ご機嫌な子供も一瞬で泣き、泣いた子供は失神するほど、ある意味恐ろしく邪悪な笑みだ。

「怒んねぇから……、言ってみな?」

「……」

 柴田は目を合わせようとしない。しかし、明らかに視線は泳いでいる。

「言えっつってんだろ」

 怒鳴りはしないものの、高瀬の声色には明らかに怒りが含まれていた。

 これは爆発も時間の問題である。柴田はごくりと唾を飲んだ。

 何しろ、悪い予感は当たるものと相場が決まっているのだ。こればかりは、超能力も霊能力も、資格も免許も必要ない。

「えー……っと、ですね……」

 身の危機を感じた柴田は、目をそむけたまま、ゆっくりと強張った口を開くと、だらだらとおかしな汗を流しながら

「ぜっ、前方後方、そして左右に見えますのは、この秋、豊作が期待出来そうな田んぼでございます!」

 バスガイドよろしく、周囲の景観を見たままに語った。

 なんと、高速道路を走っていたはずの車は、何故か田園のど真ん中。車幅いっぱいいっぱいの農道に止まっていた。

「ハッ……ハハハ」

 少しの間をおいて気の抜けた笑い声を上げると、高瀬はポンポンと柴田の肩を叩いた。

 その様子に柴田の肩の力が抜ける。へらりと笑うと、ポリポリと頭を掻いた。

「わ、笑っちゃいますよね。えへへ」

「ったく、笑っちゃうよなあ~。こぉいつぅ」

 ニカッと笑うと、柴田の額を人差し指で突く。車内に和やかな雰囲気が充満──する訳がなかった。

 柴田の額を突いた指に、圧力が掛かり始める。

「……なーんて」

 ぐり。

「あいたっ」

「言うとでも」

 ぐりぐり。

「いたっ! いたっ!」

「思って」

 ぐりぐりぐりぐりぐり。

「いたっ! いたたたたたた!!!」

「いたのか! てめえは! ええ?」

「痛い! 痛いですよう!」

 車内に充満したのは、柴田の悲鳴だった。

 額を突付いた指一本の力で、柴田の体を運転席のドアに押し付けると、高瀬はその指を力任せに、そして執拗にねじ付けたのだ。

「ひえええっ! 怒らないって言ったのにぃぃっ!」

「うるせえ! どう言う事だ、これは! ああ? 教えろ! これは覆面じゃなかったのか! 俺の思い違いか? ヤマトだったのか? ワープしたのか! それともお前はエスパーか? 異次元を通り抜けたのかっ? どうなんだ、バカタレ!」

「わっ、わかりません! って言うか、もう、何処をどう走ったのやらサッパリ」

「お前なあ……」

 高瀬は柴田を解放すると、がっくりと項垂れ、片手で顔を覆った。

 柴田にいたっては、シートの上で正座をし、水飲み人形の如く、引っ切り無しにへこへこと頭を下げている。

「すみませんっ、すみませんっ! ほんっとーに、すみませんっ」

「つーか、何で高速に乗ってて迷子になんだよ。この後、月見里と約束してんだぜ? ったく。ケータイも通じやしねぇ。一体何処の田舎だよ」

 虚しく画面に表示される「圏外」の文字を確認すると、高瀬はバックシートに携帯を放り投げた。

「高瀬さん……」

「ああ? んだよ」

「ど、どうしましょう! サイレンでも鳴らしますか!」

「ンの……、バカッ!」

「あだっ!」


*   *   *


 腹を穿たれる痛みは襲ってこなかった。

 その代わり、ピシッと言う乾いた音の後、生暖かい液体が豊島の頬に飛び散り、そして重力に従い流れ落ちていく。

「駄目よ」

 不意に鬼の背後から涼やかな女の声がし、あれほど強く顎を押し上げていた鬼の手が緩んだ。

「放しなさい。それは餌ではないわ」

 再び、女の静かな声がする。

 すると、信じられない事に、執拗に豊島を狙った鬼が、ポタポタと豊島のタンクトップに幾つもの赤い染みを落としながら、ゆっくりと体を離し、声に従った。

 助かった。助かったのだ。

どうしてなどと言う所までは、頭が回らなかった。

「……ッ」

 豊島は、首の後ろを掌で覆うと、地面に横たわったまま、体を丸めた。強く顎を押し上げられていた所為で、出血している場所以上に、首の後ろが酷く痛い。

 直ぐにでも逃げ出したい衝動に駆られながらも、まだ体は言う事を聞かない。

 その時、何者かの、さくさくと芝を踏みしめ近づいてくる軽い足音を豊島の耳が捕らえた。

「ねぇねぇ。生きてる?」

 足音の主は、豊島の脇にしゃがみ込むと、何度か豊島の腕を突付く。声の質からして少年のようだ。

 恐る恐る顔を上げると、豊島を起こそうと手をとる少年と目が合った。

 悪意の全く感じられない、だが、温かみも無い瞳。

 少年は豊島の手首を両手で握ると、ショートカーゴから伸びた細い足を踏ん張り、全体重をかけて引く。

「よい……しょ……っと……。ちょっとお兄サン。少しは自分の力で起きてくんない?」

「あ……ああ、すまない」

 そう答えながら、豊島は違和感を感じた。

 少年の肩越しには、あの鬼の背中が見える。攻撃してくる気配はもう微塵も無い。

 とは言え、少年の言動は余りにも場にそぐわないではないか。目の前の男が化け物に殺されかけていたと言うのに、驚いた様子が全く無い。そう。まるで、ホームで寝ている酔っ払いを起こしているかのようだ。


──いったい、何が起きてるんだ。


 何とか体を起こして座り込む。少年の背後に、女が立っていた。

 薄ぼんやりとした闇の中でもわかるほどの、美貌の女だ。手には、見たこともない、銀の鱗を連ねたような金属製の鞭を持っている。

 それには、べったりと赤黒いものがついていた。


──あれで鬼を打ったのか。


 女がそれを一振りすると、金属の鱗を纏った蛇は、赤い滴を撒き散らしながら、白い手の中へと収まって行く。

 豊島は、ただそれを惚けたように見ていた。

「憂夜」

「大丈夫。生きてるよ。ね、お兄サン?」

 女の、名前を呼ぶだけの問いかけに、少年はそう言うと人懐っこい笑みを浮かべた。

「あんたら一体……つっ!」

 我に返り、身を乗り出した途端、首筋が引き連れたように痛み、豊島は咄嗟に傷口を手で覆った。

 焼けるように熱い。爪が掠っただけの傷とは思えない程の──。

「どうなっ……あつっ……」

 気付けば、熱いと感じるのは既にそこだけではなかった。

 心臓が鼓動を刻む毎に、体の奥底からマグマが湧くような、激しく熱いものを感じ始めていた。

 熱い。

熱い、熱い熱い!

 体が燃える!

 焼ける!

 溶ける!!

「は……っ……つ……ああ……っ!!」

「ねえ、お兄サン」

 身体を掻き毟り、悶え苦しむ豊島を覗き込むと、少年は涼しい顔で聞いた。

「熱い?」

「は……はぁ……っ。あうっ」

 地面に付きそうなほど項垂れる豊島の髪を乱暴に掴むと、少年はムリヤリ顔を上げさせ、苦渋に歪む豊島をしげしげと眺め、そして――

「カワイソーに。マジで苦しそー。けど──」

 言葉とは裏腹の薄ら笑いを浮かべ、続けた。

「死にそうにないネ」

 言い終わるが早いか少年は手を放し、既に身体を支える気力すらない豊島は、人形のようにどさりと地面に倒れ込んだ。

 唸りながら辛うじて顔を横に向け、口の中に入り込んだ砂を吐き出す。すると、潰れた車の脇で、再び港の身体に覆い被さり、ジュルジュルと音を立てて血を飲んでいる鬼が目に入った。

 浅ましく、この世の不浄の全てを集め固めたような姿。

「な……んなんだ……。あれ……は……。あんたら……がっ!」

 めしゃり。と、いやな音がした。鼻が折れた音だ。

 少年が突然豊島の顔を蹴り上げたのだ。そして、無抵抗の豊島の横面を踏みつけると、躙った。

「あれとか言うな」

 これまでとは明らかに違う、冷ややかで、それでいてゾッとする程恐ろしい声。

 豊島は、地面に接した自分の頬骨がゴリゴリと音を立てて土を掘るのを感じながら、ただ喘ぎ、これだけのダメージを受けながらも気を失う事の出来ない己を呪った。

「く……は、は……は……ッ」

「ほら。ねえ、よく見て?」

 一頻り豊島を甚振って満足したのか、少年は足を下ろしてその場にしゃがみ込むと、にっこり笑って鬼を指差した。

「美味しそうに食べてるでしょう? 英明、凄くお腹が空いてたんだよ」

 ゾッとした。

 少年の口調は、まるでミルクにありついた子猫を眺めているかのようだ。

 その余りの異常さに、豊島は、血と土で汚れ、無残に腫れ上がった顔を歪めた。

「そんな顔して」

 ふっと片笑むと、少年は地面にへばりついたままの豊島の耳元に唇を寄せ、笑いを含んだ声で囁いた。

「アンタも、直ぐに欲しくなるよ? 人間のどす黒い血や、小汚い臓物がね」

「何……言ってんだ。お、お前らなん……なんなんだよ!」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 豊島は怯えていた。体は焼けるように熱いと言うのに、歯の根も合わぬ程に震えていた。

 それは何も、自分の命に迫る危険や、異形のものの所為だけではない。

 少年が放つ、予測のつかない異様な狂気に怯えていた。

「憂夜」

 それまで黙って成り行きを見ていた女が、口を開いた。

「使えるの?」

 女は、ハイヒールのヒールにこびりついた土に、美しい顔を顰めている。細いヒールが、公園の地面にめり込んだ所為だ。

「ウン。大丈夫。この人は化けるよ。あの時と……」

 言いながら肩越しにあの鬼を一顧して唇を噛み、ゆっくりと視線を戻した少年は顔を曇らせた。

「あの時の英明とまったく同じ……」

「そう。それじゃあ行きましょう。長居は無用だわ」

 女は結果に満足したのか、さっさと踵を返した。その気配にハッとしたように少年も立ち上がり、喘ぐ豊島を見下ろす。

 その顔には既に、先程の憂いはない。嘲笑にも似た薄笑いを浮かべると「だってさ」と、肩を竦めた。

 そして次の瞬間、豊島は少年が手にしたものに目を剥いた。

 本物など、生まれてこの方見た事などない。だが、それがライフルと言われる物であろうと言う事は知っていた。

「ごめーん、ネ?」

 プシュッと言う、勢いよく空気が漏れ出すような音の後、うつ伏せの腰に、刺すような痛みが走った。

「これ、ゾウも爆睡すんだって。でも、目が覚めた頃には、夢の世界チャンピオンだネ。あ。でも、対戦相手を殺しちゃったら、反則負け?」

 薄れゆく意識の中、聞こえる少年の楽しげな笑い声。それが、豊島が、豊島として聞いた最後の音だった

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