第17話

 彼は、朦朧とした意識の中を漂っていた。

 いくら目を開けようとしても瞼は重く、半眼のまま、ただ首をぐるりぐるりとゆっくり動かすのが精一杯だった。

 何も思い出せない。

 時折脳裏に浮かぶのは、彼に泣き叫びながら命乞いをした色白の少年。

 鳴り響くのは悲鳴。

 目をこじ開けて見えるのは、憂夜と、ふらりとやって来た完璧なまでに美しい女。

 他には──。

 誰もいない。

 何も無い。

 外界から遮断された暗闇を照らすのは、ランタンの頼りない黄色い灯りのみだ。

「ううぅぅ……うあああぁぁ」

 彼は憂夜を呼んだ。手枷を付けられた腕を伸ばし、何度も呼んだ。

 だが憂夜は応えない。

 彼に背を向けたまま、子供のようにあの女に抱かれ、甘い吐息を漏らしている。

 彼は床に散らばる割れた鏡を拾い上げた。

 そこに写るのは、全身が獣毛に覆われた黄色い目の醜い獣。

 おぞましさに顔を覆う指先には曲がった爪。

 彼は鏡を投げ捨てると目を閉じた。

 喉が渇いた。

 腹が減った。酷く腹が減ったのだ。

 餌が欲しかった。

 柔らかな皮を破り、温かな汁を啜りながら味わうのだ。

 あの臭い。ねっとりと舌に絡みつく、あの味。

 体を振るわせるほどの充実感。

 あれほどの美味を、彼は他に知らない。

 ぎこちなく舌を突き出し、唇を舐めようとした時、彼の牙が舌を傷つけた。

「おおおお……」

 彼は驚いた。

 口の中に、あの温かな汁の味が広がったのだ。

 彼は、じっと己の腕を見た。恐らく、自分の中にもあれがあるのだ。

 赤く、とろりとした甘い汁が。

 彼の喉がごくりと鳴った。

「やめろ!沙紗!」

 叫び声と同時に、彼の肩に突然何かが打ち下ろされた。

 途端に走る、ピリピリとした痛み。

 彼は驚いて顔を上げた。

「自分の腕に齧り付こうなんて。余程餓えてるのね」

 そこには女が立っていた。妖しいほどに美しい女だ。

 女は細い金属の、鱗が連なったかのような鞭を手にしている。

 そして、女が柄についた突起を抑えると、鞭はシュルシュルと音を立てて柄の中へと吸い込まれていった。

「ううう……」

 彼が呻きながら痛む肩を押さえると、ぬるり。と、温かなものが彼の手を濡らした。

 餌から滴る汁と同じものだ。

 彼はそれを舐め取ると、全身を震わせた。

 雷に打たれたかのように身体中を歓喜が走り抜け、興奮に息が上がる。

 大きく裂けた口からは、ぼたぼたと唾液がこぼれた。

「ぐううう……」

 彼の醜く浅ましい姿に、憂夜は顔を顰めた。

「沙紗……」

 頭1つ分背の高い自分を見上げる憂夜の顎に手をかけると、女、沙紗は憂夜を見据えた。

 憂夜の瞳を覗き込み、その奥にまで入り込もうとするかのようだ。

 憂夜は目を逸らす事が出来なかった。

「沙……」

 沙紗は憂夜の顎にかけた手を滑やかな頬へと滑らせると、指先でその輪郭をなぞった。

「何度転生したところで変らないのね、憂夜。甘いわ」

 そう言って憂夜の目を再見する沙紗の目は氷のように冷たい。

「おれは──」

「情でも移ったのかしら」

 憂夜の言葉を遮ると、沙紗は唇だけで笑った。

「別に……そう言う訳じゃないよ」

 沙紗の手から逃れると、憂夜は俯く。

 幾ら沙紗とは言え、己の心の内を見透かされたくは無かった。

「英明は……腹が減ってるんだよ」

「憂夜。彼にはもう人としての名前など無いわ」

「でも……」

「悪鬼と善神の二面性。夜叉である憂夜の魅力でもあるけど、その迷いや優しさは、いつかまた命取りになるわよ」

 憂夜は黙ったまま俯いている。

 そんな憂夜の頬を両手で包み込むと、沙紗は憂夜の沈鬱な瞳を覗き込んだ。

「可愛い憂夜」

「沙紗……」

 憂夜は、沙紗の細いウエストをきつく抱き締めると、沙紗の豊かな胸に顔を埋めた。

「ご覧なさい」

 憂夜の髪を愛おしげに何度も撫でながら、沙紗は言った。

 目の前には、自らの血によっていきり立っている彼がいる。

 それを見ると、沙紗は美しくも残忍な笑みを浮かべた。

「もう、彼に餌付けの必要は無いわ」

 その瞬間、憂夜は理解した。

 沙紗はこの時を待っていたのだ。

「さあ。狩りの時間よ」

 沙紗の手で手足の枷が外されると、彼はゆっくり立ち上がった。

「ガアアアアッ!」

 大きく裂けた口を開くと、からからの喉の奥から獣のような咆哮がついで出る。


 喉が渇いた。

 腹が減った。

 そうだ。獲物を捕らえるのだ。

 甘い汁を啜り、とろける様な至高の美味を。


 憂夜がそっと目を閉じた瞬間、彼の──英明の自我を繋ぎとめていた細い糸が、ぷつりと切れた。


 彼は──心すらも鬼となった。

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