第7話

「ふにゃ」

 無意識のトンネルを抜けると、そこはT大法医学教室の事務室だった。

「あ……あれ?」

 柴田はソファーから身体を起こすと、キョロキョロと周囲を見回す。すると、衝立の奥から栞が顔を出した。

「あ。気付かれました?」

 にこにこと笑顔で柴田の方へとやって来る彼女の手には、タオルを巻いた冷却枕が乗せられていた。

「解剖中に倒れられたんですよ」

 正確には解剖開始直後なのだが、現場を見ていない栞はそれを知らない。

「うわ……。そうなんですか。情けな……」

「あ、横になってて下さい」

 栞は項垂れる柴田をソファーに寝かせると、細い腕でその頭を抱え上げ、冷却枕を敷く。

 ぐっと近づいた栞からは石鹸の香りがした。


──うわっ、うわっ。スゴイいい匂い……。


 柴田は心臓を鷲掴みにされたような感覚に、ぎゅっと目を瞑った。

「痛かったですか?」

「いや、あの、全然!気持ち良いです!あ、いや……えっと……」

 何だか変なことを言った気がして、柴田はしどろもどろになった。冷却枕を当てても後頭部が熱いが、それと同じくらいに顔も熱い。

「大丈夫です、ハイ」

「良かった。今、冷たいお茶入れますね」

 事務室は静かだった。

 聞こえるのはエアコンの音と、冷蔵庫の音。そして氷がぶつかる音に、コポコポと言うお茶を注ぐ音だけだ。

 目を閉じてじっとしていると、解剖室でのドキドキと、栞が近づいた時に感じた痛い程の感覚も少しずつ治まっていく。

 しかし、少し落ち着きを取り戻した柴田を、今度は罪悪感と不安が襲った。

 大事件で皆が忙しい時に、一体自分は何をしているのだろう。月見里は呆れたに違いない。高瀬も、とんでもないお荷物を背負い込まされたと腹を立ててるかもしれない。

「麦茶、ここに置いておきますね」

「あのう」

 コーヒーテーブルにグラスを置く栞に、柴田はおずおずと声を掛けた。

「高瀬さん、怒ってました?」

「全然。でも、すごく心配してましたよ?」

 栞の言葉に、柴田は細い目を見開いた。

「頭打ったから冷やしてやってくれって。その冷却枕も高瀬さんが探しに行ったんですよ」

「探しに?」

 柴田は高瀬が自分で探しに行ったという事に驚いたのだが、栞は医学部内にある事務室に冷却枕が常備されていないと言う事に驚かれたのだと思ったらしい。

「あの、ここの患者さんには必要ないので。こう言うの、置いてなくって……」

「あ、いや、そう言う意味じゃなかったんです。高瀬さんがってのにビックリしちゃって。すみません」

「やだ。私ったら」

 誤解が解けた事にホッとしたのもつかの間。柴田の口から、また直ぐにため息が出た。

「僕、本当にご迷惑掛けちゃった」

「そんな。柴田さん、初めてなんでしょう?仕方ないですよ」

 そう言うと、栞は柴田の向かいのソファーにちょこんと腰を下ろした。

「私なんて、解剖室に入るのも怖いですもん。先生も、栞は入らない方がいいって……」

「あの」

 月見里の話が出ると、柴田は居ても立ってもいられなくなった。

「全然関係無い話なんですけど……」

「何ですか?」

 栞は話の腰を折られたことを全く気にする風でもなく、にこにこと柴田を見ている。

 柴田は起き上がって居住まいを正すと、思い切って切り出した。

「栞さんって、月見里先生と付き合って……」

 その時、トレイを抱え込んだままの栞の白い顔が、火が点いた様にボッと赤くなった。そして直ぐにブルブルと頭を振りながら柴田の言葉を遮る。

「無いですっ!無いですよ~う!」

「そうなんですか?」

「そうです!」

 しかし、小さな手をぐっと握り締めて、キッパリと答える栞の顔に書かれている感情は隠しようもなく、それはニブイ柴田にもありありと見えた。

「でも、好きなんだ」

「わ……わかります?」

 栞は観念したようだ。柴田の朴訥とした人柄に気を許したと言ってもいいだろう。

 華奢な膝頭に肘をつき、まだほんのり赤い頬を両手で支えると、ボンヤリとテーブルを見詰め、溜息をついた。

「でも、先生にとっては、私って出来損ないの妹みたいなものなんだと思います」

「そうかなあ。僕だったら……ってあの、別に変な意味じゃなくて!あの、栞さんメチャクチャ可愛いし!優しいし!お世辞じゃなく!」

 言い訳しているのかフォローしているのか全く分からない柴田だったが、栞は照れくさそうに頬を被った。

「えへへ。有難うございます。柴田さん、優しいんですね」

 そうしてすっくと立ち上がると、小さくガッツポーズをして見せた。

「よおし!柴田さんも応援してくれるし、諦めないで頑張っちゃおう」

 栞のそんな姿に、柴田は情けなく眉尻を下げると心で泣いた。

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