不動の焔
桜坂詠恋
本編:第一章
第1話
木々が騒いだ。
夏の風が枝を、そして葉をざわざわと揺すっている。
陽もまだ高いと言うのに、木々が生茂った山道は薄暗く、そして湿っぽかった。
風が吹く度、昨夜降った雨が葉から滑り落ち、パラパラと軽い音を立てる。。
都心からのアクセスが良いこともあり、普段ならば大勢のハイカーや登山客が行き来するこの御岳山も、今日ばかりは山道の入り口で客達を閉め出さざるを得なかった。
そんな彼らの不満気で、そして不安の中に好奇の混じった視線を浴びながら、帰路へと向かう人々の波に逆らうように高瀬が部下の柴田を伴って入山したのが1時間ほど前の事である。
それからひたすら狭い山道を登った末に突如として開けた其処は、本来在るべき森林の清々しい香りなど欠片も無く、吐気がする程の異臭に覆われていた。
それは生臭く、腐敗しドロドロと汁を垂らした肉のような臭い。
処理されること無く垂れ流された糞尿のような臭い。
それらがまるで粘り気を帯びたように、其処此処に貼り付いている。
高瀬は顔を顰めると、ここまで来る間に幾度となく汗を拭った皺くちゃのハンカチで口と鼻を覆い、浅い呼吸を繰り返した。
何しろ、異臭はハンカチを通しても嗅覚細胞を刺激するのだ。
深く吸い込めば、間違いなくファーストフード店で慌しく摂った朝食が逆流するだろう。
とは言え、そんな異臭も彼にとっては馴染みの物であった。しかし何度嗅いだところで慣れる事は無い。
「なんか……。この臭い……。田舎の屠殺場みたい……ですね」
高瀬の直ぐ後ろを付いて来た柴田がくもぐった声を上げた。
スーツの腕を折るようにして、顔面に備わった換気口を庇っているが、彼の細い目には涙が溜まっており、僅かに除く顔色は、今にも嘔吐しそうな程に真っ青である。
「おい、大丈夫か」
「うー……。はい……、いや、その……、ビ……ビミョーです……」
単語をひとつ口にする度、大きく唾を飲み込む音が聞こえる。 いよいよ嘔吐寸前で、生唾が否応なしに上がって来るのだろう。 再び「うー」っと唸ると、それっきり黙ってしまった。
柴田が高瀬の部署に配属されて来たのは、つい最近の事である。
上司の命令とは言え、新人である彼の洗礼に、この事案は少々キツかったかもしれない。 何しろ、これから彼は「屠殺場」より壮絶な有り様を目にしなくてはならないのだ。
嘔吐を必死で絶える柴田の肩をポンと叩くと、高瀬は無言で「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープを潜った。
* * *
いくつもの木の幹に巻き付ける様にしながら、テープは半径50メートルほどの円を描いていた。
その中では、作業服を身に着けた男達が、カメラや手帳、ピンセットや袋を手に忙しく右往左往している。中にはポリバケツを持っている者もいた。
そして、円のほぼ中心には、ブルーシートを囲むスーツ姿の男達。
其処からひょっこりと茶色い頭が飛び出したかと思うと、この場に到底そぐわぬ笑顔が高瀬を捉えた。
「文孝」
そう言ってスーツを掻き分けこちらへと向かって来たのは、高瀬の学生時代からの友人であり、監察医である
――あいつ、蓄膿症かよ。
月見里に片手で応じると、高瀬はハンカチの下で毒づいた。
それも其の筈、痩身ながら適度な筋肉を身に付けた183センチの長身に、白衣を纏った彼の整った顔にあるのは、菩薩のような柔和な笑みと、繊細な銀縁のメガネのみで、マスクどころか布切れの一枚もない。
いくら死体の医者とは言え、蓄膿症を疑いたくもなると言うものだ。
「悪い、遅くなった。徹夜明けでそのままこっちに来たもんだから、足元がこれでな」
そう言って、高瀬は自分の足元を指差した。
「うわ。革靴。しかもドロドロ」
「参ったぜ。道はぬかるんでるし、濡れた草はバナナより滑りやがる」
更に、Yシャツに至ってはジャケットの下でピッタリと体に貼り付いていた。
学生時代にサッカーで鍛えた体は未だ衰えず、代謝もいい。 お陰で、絞れるほどの汗をシャツが吸い込んでいた。
現在、警視庁に身を置く高瀬の所属は「警視庁刑事局捜査課特殊事件対策室」である。
しかし、警察も万年人手不足。手が空いた時は他の課の捜査に引っ張り出されるのが常であり、昨夜から今朝にかけても、警視庁の花形、捜査一課の事案の為に張り込みをしていたのだ。
その後ようやく開放され、ファーストフードで空腹を満たしていたところへ「特殊事件対策室」の出動と相成ったのだった。
お陰で着の身着のまま。その上、張り込みだからと安心して履いていた新しい革靴がオシャカである。
柴田に至っては、ここまで辿り着くのに五回は転んでいた。
三度目に転んだ時には、ポケットに入れていたハンカチまでも泥水で汚れてしまい、異臭を感じ出して以降、スーツの袖で押さえながら歩き出したのだが、それが却って仇となり、バランスを崩しては転んだ。
と、そこでようやく高瀬は柴田の事を思い出した。
保存区域内に入り、更に酷くなった悪臭にむせながら周囲を見遣る。
「あいつ、何処に行ったんだ?」
「あいつ?」
「おう。この間ウチの対策室に新人が入ったんだ。柴田って言う……」
言いながら、きょろきょろしていた高瀬の目がテープの外の1本の木に止まった。
「あー、アレだアレ」
高瀬が潜って来たテープの直ぐ側にある、苔むした木の幹に手を付き、当の柴田がごぼごぼと派手な音を立てていた。
「……吐いてんな」
「……吐いてるね」
背中を丸め、時折激しく咳き込みながら、息つく間もなく嘔吐し続ける柴田の姿は、自らの吐瀉物で溺れている様でもある。
そんな姿をしばし眺めていた高瀬だったが、大きく息をつくと、空いた手をヒラヒラと振った。
「ありゃダメだな。放っとこ」
「こら」
「なんだよ」
無視して行こうとする自分のネクタイを掴まれ、高瀬は不貞腐れたように振り返った。
「放っとこ、じゃないだろ。責任もって面倒はちゃんとみなきゃ。やっと出来た部下に逃げられても知らないぞ」
まるでペットの世話を逃れようとした子供に説教をしている親のようである。
しかし、特殊事件対策室が設置されて一年になる最近まで、対策室員は高瀬一人だった。
何しろ──本人は気付いていないが──、迷惑な程の正義感の塊でありながら恐ろしい気分屋。協調性が全く無く、スタンドプレーの常習犯。そのくせ、始末書を飲み屋のツケのように平気で溜める悪癖に音を上げた当時の捜査一課長が、適当な名前を付けた新しい課・対策室に隔離したとの噂さえあるのだ。
勿論これは噂であり、真相は定かではない。
が、対策室が新設された新しい部署である事、高瀬以外に対策室員が居なかったと言うのは事実だ。
お陰で、捜査から事務仕事、そして滅多にした事が無いものの、雑用や対策室という名の元物置の掃除までも一人でこなさなければならなかった。
そんな所へ転がり込んできた便利な雑用夫(パシリ)に、今逃げられるのは痛い。
「……わーったよ。ったく、しゃあねぇなあ」
「そうそう。いい子だねぇ」
「やめろって!」
月見里にわしわしと掻き回された髪を撫で付けると、高瀬はゆっくりと吸った息を止め、意を決したようにハンカチを外した。
「おーい!柴田!スッキリしたら来いや!」
そして再びハンカチを戻し、浅い呼吸を繰り返す。その顔は責任は果たしましたと言わんばかりだった。
「よっしゃ。行こうぜ」
月見里の後について歩き、ブルーシートへと向かう。
重く異様な空気。
捜査員達から漂う、戸惑いと緊張感。
一体、ここで何が起こったと言うのだろう。
だが、特殊事件対策室の自分が呼ばれた事、普段なら滅多に現場へ来る事の無い筈の監察医がこの場にいる事。
そして、何よりこの大量の血の臭いが既に事案の異常性を示唆している。
鑑識の番号札が広範囲に亘って置かれている事も気に掛かる。
「やま……」
そう声を掛けようとしてやめた。
スーツ達が道を空け、いよいよブルーシートが目前に迫ったからだ。
──全てはここにある。
「対策室の方ですか」
スーツ姿の捜査官達の中から、マスクをした初老の男が声を掛けた。
薄くなった脳天に枯れ草の様な髪が申し訳程度に貼り付いており、グレーと言うより鼠色と言った方が遥かに的確であろうスーツの中で痩せた体を泳がせている。
「高瀬です」
高瀬が軽く会釈を返すと、男は人のよさそうな笑みを浮かべ、ラテックスの手袋を外して手を差し出した。
薄っぺらで筋張ってはいるが、意外に力強い。
「青梅署の谷口です。ガイ者の中に指名手配中の男がおりましたんで、本庁へも状況を連絡させて頂いたんですが。そうしたら、この事案は対策室へ回す様指令が来まして」
「そうでしたか」
「まあ、何て言いますか。普通ならヤマを譲れるかって言うとこなんですけど、状況が余りに異常……いや、異質というか。私らの常識や範疇を超えてますしね」
そう言うと谷口は困ったようにこめかみを掻いた。
実際、警察の縄張り争いは極道のそれに近いものがあり、自分達の管轄で起きた事案に他の署の人間が介入するのを酷く嫌がるものだ。
しかし、谷口は高瀬の登場に嫌な顔をするどころか、明らかな安堵の表情を浮かべていた。
「いやね、実は私、来月で定年なんですよ。他にもヤマを抱えておりますし。そこへコレでしょう。なんとも厄介なのが起きたなあと思っとったんですが、イヤイヤ、安心しました」
──なるほどそういう事か。
適当に相槌を打つ高瀬に照れ笑いを見せていた谷口だったが、ふと「あれ」と言う顔をした。
「ところで、お二人いらっしゃると聞いとったんですが……」
「ええ……あの、若いのが一緒なんですけど。なにぶん、このヤマがデビューと言うヤツで」
「ははあ。ホシを吐かせる前に吐いちまった」
「恥ずかしながら。全く、仰る通りです」
恐縮する高瀬に、良くある事ですよと言いながら再び手袋を着けると、谷口はブルーシートに手をかけた。
その姿に彼の部下も片側を掴む。
次の瞬間だった。
「よいしょっと」
「あ。コイツです」
「た……高瀬さ……」
谷口がシートを捲る。
高瀬が柴田に気付く。
高瀬に声をかけようとした柴田が、図らずもブルーシートに覆われていたものを凝視する。
コマ送りのようだったが、それらが起こったのは見事に同時だった。
「んぐっ!」
高瀬の傍らから突き出していた顔──正確には頬だが──を、一気に膨らませた柴田が、転がるように駆け出していく。
しかし、高瀬の意識はそんな柴田に向けられることなく、ただ呆然と目の前のモノに注がれていた。
「なんてこった」
口の中に胃液の味が充満し、目の前の惨状に瞬きすら忘れた。
勿論、血にまみれた人間の死体が並んでいるであろうと言うのは予測していた。
それが酷い有様であろうと言う事も。
だが──。
「さっきも話した通り、身元は判明しとります。まず3人の内の1人、この右端の男ですが、これが土田正夫。指名手配中のチンピラですわ。で、中央が吉川秀人、左が田中純一。土田の舎弟みたいなもんですな。どれも御覧の通り、腹に大きな裂傷があります」
「裂傷って言うか……」
高瀬は言葉を失った。
谷口が説明しながら指差す遺体の腹部はどれも、まるでエイリアンが這い出て来たような、そんな有様だった。
首や手足が有り得ない方向に捻じ曲がってもいたが、それが些細な事であるかのような特異さである。
中には、大きく開いた腹腔から腸が巨大ミミズのようにはみ出しているものもあった。
「野犬が遺体を喰ったのか?」
山中に放置された遺体が、野犬などの野生動物の食害にあうのは良くあることだ。
街中でさえ、孤独死した飼い主を飢餓状態に陥ったペットが食べたと言う例もある。
「僕も最初に聞いた時はそう思ったんだけど──」
手袋をしてしゃがみ込んだ月見里が、遠慮なく遺体の腹部を広げた。
「生活反応があるからね」
生活反応とは、被害者が生存している時点で受けた傷害に見られる現象のことで、呼吸や血液循環の存在を示すものである。
この場合、皮膚や筋肉に大量の出血が見られるのだから、この傷を受けた時、被害者は生存していた事になる。
死んでから動物の食害にあっていれば、血液の赤よりも、黄色い脂肪が目立つのだ。
「そっか……そうだよな」
「実はね、高瀬さん」
谷口が一本の木を指差して続けた。
高さ15メートルはあろうとかと言う巨木だ。
「一体はこの木の枝に引っかかっておりました。動物に襲われたと言う線は排除して構わんでしょう」
一番下の枝でも地上10メートル程はある。動物に振り回されて飛ばされたと言うのには、確かに無理があった。
まして、あれほどの損傷を受けてから、木に登って逃げようとしたとは考えられない。
高瀬が考え込んでいると、谷口が部下を促した。
部下は山根と名乗ると、一歩前に進み出て高瀬に一礼し、仰々しく手帳を広げる。
「簡単に説明させて頂きます。まず、第一発見者ですが──」
遺体を発見したのは、麓にある民宿の女将とその夫だった。
その日の宿に活ける山の素朴な花を、朝早くに夫婦連れ立って摘みに来たのだ。
歩きなれた山道を行くうち、玉葱が腐ったような妙な臭いに先ず気付いたのは、宿の料理長でもある夫だった。
明け方に雨が降ったために、湿った地面が臭っているのかとも思ったが、やはり違う。
気になった夫は女将を伴って臭いを追い、やがて開けたこの場所に転がっている男の死体を発見したのだ。
「宿の主人は、ほうほうの体で宿に戻り通報したとの事でした。それから我々がこちらへ向かった所、主人が見つけた一体の他に二体を発見。一体は、先ほど谷口警部補が仰いました通り、あの木の枝に引っかかっており、地面には、そこら中に遺体の一部と思われる組織が散乱していました」
山根が一気に報告すると、教師のように見守っていた谷口が頷いた。
それを合図に山根が再び一歩下がる。
「ともあれ、写真も撮りましたし、検死のほうも一応は終わりました。遺体はこれから月見里先生のT大法医学教室の方へ運ばせて頂いて……ええっと、ウチの方で行った初動捜査の資料は、後で山根に持たせますよ」
「有難うございます」
青梅署の会議室や鑑識、必要であれば、山根を始めとする捜査員も自由に使ってくれと言い残して現場を後にした谷口の足取りが、心なしか軽いように高瀬には思われた。
「それじゃ、おまえんとこに移動するか」
「そうだね。ところで──」
立ち上がると、月見里はちらりと高瀬を見て鼻を摘んだ。
「文孝、君は一体何日風呂に入ってないんだ?」
「え」
遺体の搬出を指示しようと背を向けた高瀬の足がぴたりと止まった。
確かに、この数日、仕事から帰ってから死んだように眠りこけていた上、昨日は家にも帰っていない。
連日の猛暑で、大量に汗も掻いている。──がしかし、この現場で正常な嗅ぎ分けが出来る筈がないのだ。
高瀬は怪訝そうに、白い目を向けている月見里を見た。
「またまた。流星クンってば」
「僕の鼻は酷くデリケートなんだ。同乗は遠慮してくれたまえよ?文孝クン」
そう言ってにっこり笑うと、銀色のアタッシュケースを手に、月見里は歩き出した。
──デリケート?おいおい、ウソだろ。
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