第15話 雲の彼方

 夕方の会議を終え部長室に戻ると、伊藤課長が訪ねて来た。



「カサブランカの野尻支配人から連絡がありまして、国産の食材をうちにお願いしたいとの事です。 結局、前の話に戻りました。 どうしますか?」



「見積りを出してください。 それにしても、一旦断ったものをなぜ?」


 

「立田との交渉を専務ではなく、カサブランカのオーナーシェフがする事になりました。 彼は、立田の役員になる見込みで、その影響かと思われます」


 伊藤は、驚いたような顔で説明した。


 私は、涼介が母を通じ、祖父に圧力をかけさせたのだと思った。私のためなら本物の男になれると言った彼の顔を思い出し、思わず笑ってしまった。



「部長、どうされました?」



「いえ、交渉とは何があるか分からないものですね」



「はい。 今回は、身内の揉め事が原因だと思います」


 そう言うと、伊藤は席に戻った。



 私は、落胆した夫の顔を思い浮かべ少し心配になったが、それ以上に涼介が兄に勝てた事の方が嬉しかった。




 この日は、午後7時過ぎに自宅に帰った。


 朝の電話の事があったので、夫は待ってると思ったが、まだ帰宅してなかった。


 さして気にする事もなく過ごしていると、涼介から電話があった。



「なあ。 俺は今、最高なんだ」



「何よ、いきなり?」



「優佳里のおかげで、俺は本物の男になれた。 おまえと一緒にさらに高見を目指すぞ!」



「私も嬉しいわ。 良かったね」



「全て上手く行ってるんだ! 明日、優佳里を迎えに行く」



「えっ。 迎えって、まだ早いよ」



「その時に説明する」



「うん」



 電話を切った。


 私は、幸せな気分になった。やはり、彼を愛しているのだと思った。




 その後、夕食も取らずに居たら、いつの間にか午後10時を過ぎていた。


 いつも夫が帰宅する時間だが、まだ帰らない。夫を心配せず、平気で居られる自分が不思議だった。



 いつしか、私は、リビングのソファーで熟睡していた。




 そして、気がつくと、朝の7時を過ぎていた。


 起きて食卓テーブルの椅子に座り、ぼんやりと周りを眺めた。

 夫は、まだ帰ってなかったが、それでも気にならなかった。



グー



「やだ、お腹が鳴った。 そう言えば、昨夜から何も食べてなかったわ」


 私は、独りごとを言った。


 食事を作ろうと思い、冷蔵庫の扉を開けて中を見ると、調理された料理が沢山入っていた。



「フフッ。 こんなに!」


 思わず、つぶやいた。


 夫が、私のために作ったものだと分かる。その時に、夫の優しい顔が思い出され、口元がついほころんでしまった。


 そして冷蔵庫の中を覗き、剛が作ってくれた料理を取り出そうとしたとき、ビニール袋に入った封筒がある事に気づいた。



「冷蔵庫に封筒を入れるなんて、剛ったら …」


 独りごとを言った後、何故か可笑しくなり口元が緩んでしまった。

 そして、夫の優しい愛情を感じた。


 嬉しいはずなのに …。


 しかし、その直後、夫の悲しそうな顔が脳裏に浮かび、凄く不安な気持ちになった。


「どうしよう…。 私はいったい何を? 何でこんなことに?」


 

 私は、慌てて封筒を取り出した。


 封筒に書かれた夫の几帳面な文字を見て、夢から目が覚めた気がした。

 そして、震える手で開封した。


 中には、記入済の離婚届と手紙が入っていた。



「ああ、どうしよう …」


 私は、ひどく狼狽えた。


 そして、一心に手紙を読んだ。




ーーー


優佳里へ


 これまで、一緒にいてくれてありがとう。君は、本当に素敵な奥さんだった。そして、かけがえの無い家族だった。

 だから、君を幸せにしたいと本気で思っていた。


 でも、今日、風間オーナーシェフが訪ねてきて、君と相思相愛である事を聞かされた。今朝の電話で聞こえた声が、彼だと気づいたよ。


 優佳里の初恋の相手が風間さんで、彼に似てるから俺を好きになったことも聞いた。


 悲しいが、もう自分の居場所がない事を悟った。

 どんなに優佳里を愛しても、それが、君を不幸にしてしまう事も分かった。だから身を引く事にしたんだ。


 優佳里には、幸せになってほしい。短い間だったけど、家族になれて嬉しかった。


           井田 剛


ーーー




 涼介にかけられた魔法が解け、現実に戻った気がした。


 気が付くと、私は子供のように大声で泣いていた。


 ついさっきまで、夫との別れを望んでいたのに、今は失いたくない気持ちでいっぱいだ。


 夫を傷つけた風間 涼介に対し、激しい怒りを覚えたが、それ以上に、自分自身に腹が立った。




 私は、泣きながら夫に電話した。しかし、いくら呼び出しても繋がらない。


(そうだ、会社に行けばいるかも知れない!)


 そう思ったあと、直ぐに夫の会社に向かった。


 会社は、以前、一度だけ訪ねたことがある。

 古い雑居ビルの3階の一部フロアを借りており、男性社員が3名いた。



「井田の家内です。 夫はいますか?」


 私が訪ねると、男性社員ばかりのはずなのに、なぜか若く美しい女性が出て来た。



「あなたは?」



「私は、この会社を設立した時の共同経営者だった者です。 井田さんに頼まれて見に来ました」


 思わず彼女の姿に見入ってしまった。普段なら、私の知らないところで、こんな美しい女性と連絡を取っていたことに腹を立て追及するのだが、自分がしたことを考えると、とてもできない。



「夫に用事があるんですが。 連絡してもらえませんか?」


 彼女に聞くなんて屈辱的なことだが、躊躇なく口が開いた。藁にもすがる思いだったのだ。



「連絡がつかないなんて、本当に夫婦なんですか?」


 彼女は、トゲのある言い方をした。



「夫の居場所を、教えてください?」



「ハッ、悪いけど …。 知らないわ」


 彼女は、意味ありげに答えた後、今度は、私を蔑むような目で見た。


 私は、凄く惨めな気持ちになり、夫の会社を後にした。




 その後、夫を探しあてもなく歩いていると、頬に雫があたり冷たく感じた。



「雨かな?」


 一言つぶやき、空を見上げた。


 そこには、どんよりと、あたり一面を覆う雲があった。

 しかし良く見ると、はるか彼方に雲の切れ間があり、そこから光がさしているのが見える。


 そこに行けば、夫に逢えるような気がした。



「剛に逢いたいよ」


 私は全力で走った。しかし、どんなに追いかけても光に近づく事はなかった。

 それでも長く走ったが、やがて疲れ果て、その場に崩れ落ちてしまった。

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