第1章 雲の彼方

第1話 満ち足りた日々

 夜の10時を過ぎた頃、疲れた様子で夫の剛が帰って来た。


 新婚の妻に対し申し訳なさそうな顔をする彼を、私は精一杯の笑顔で迎えた。

 夫は、本当に優しい人で、常に私を気遣ってくれる。私は、そんな夫の事が大好きだ。



「お腹空いちゃったでしょ! 直ぐに夕飯にしましょう」



「ああ、頼む。 ありがとう」


 いつもの遅い夕食が始まった。



 その最中、夫は優しく話しかけて来る。


「ここのところ仕事ばっかりでさ。 さっぱり2人の時間を作れなかっただろ。 だから、今度の日曜に車で遠出しないか?」



「デートって事?」



「そんなとこかな」


 夫は、恥ずかしそうに笑った。



「嬉しい! せっかく入籍したのに、独身の時より寂しい思いをしてたのよ。 私は、剛と少しでも長く居たいんだからね」


 私は、つい本音を漏らしてしまった。

 

 小さいながら、自分の会社を切り盛りし必死に働いている夫の苦労を知ってるから、無理は言えない。

 だから、誘ってくれた事がすごく嬉しかった。



「子どもを授かった時の事を考えて、一日でも早く会社を軌道に乗せたいんだ。 それに、いつか君のご両親にも認めてもらいたいから。 だけど …。 寂しい思いをさせてゴメンな。 だから日曜は、その分の埋め合わせもするよ」


 いつものように、夫は優しく笑った。

 彼の笑顔は、私の心に響く。どんなに怒っていても、この笑顔を見ると全てを許せてしまう。



 私は、井田 優佳里 25歳、旧姓は桜井だ。夫の剛は2つ上の 27歳、私の素敵な旦那様である。

 出会ってから交際期間2年を経て、半年前に入籍した。


 背が高く優しい夫を好きになり、出会って直ぐに私から告白した。

 でも彼に絶対に言えない秘密がある。実は、高校時代に凄く憧れていた先輩の面影があったから好きになったのだ。



 夫は、高校3年の時に両親を事故で亡くし、他に身寄りがなく一人で生きて来た。苦労して国立大学を卒業し、その時の奨学金を今でも返済している。


 大学卒業と同時に、友人と会社を始めたが、その時の友人は辞めてしまったと聞いた。今は、夫だけが頑張ってる。


 夫が営む輸入商社の経営は厳しく、従業員3名の給料を差し引くとあまり残らない。


 夫は、自らが営業に出向き休みなく働いている。でも、私に心配させたくないのか仕事の話はしない。



 私は、大手食品会社の営業部で事務の仕事をしている。実は、この会社には父のコネで入った。

 夫とは、会社の取引相手として知り合った。



 私の実家は資産家で、いくつもの会社を経営している。世間一般で言う名門と言われる一族だ。

 

 それがゆえに、身寄りのない夫との結婚を反対された。だから、実家とは縁が切れたような状態となってしまった。仲が良かった姉とさえ連絡が取れない。


 それでも父は、私を本気で突き放すことができないようで、今の会社に在籍させておいて、私の様子を伺っている。


 夫にとって、私の家族は関わりたくない存在だと思う。



「日曜の件だが、湘南に新しくオープンしたフレンチレストランに行こうと思ってるんだ。 優佳里は、舌が肥えてるから心配だけど、良いかな?」



「私は、お嬢様じゃないよ。 剛が良いと思う店なら、私も行きたい! 変に気を使わないでほしいな。 店は、なんて名前なの?」



「カサブランカって言うんだ」



「映画のタイトルみたいね。 そこへ行きたいわ」



「じゃあ、決まりだな。 実はその店に、うちの会社の食材を卸してるんだ。 お得意様なんだ。 また、ここのオーナーシェフが良い人でさ。 行ったら紹介するよ」



「オーナーは、年輩の人なんでしょ?」



「オーナーだからって、歳とってるとは限らないさ。 確か26歳だ。 大学卒業後フランスで料理の修行をして、昨年帰国したそうだ。 父親が会社を経営しており、そこから融資を受けたと言ってた」



「会社の御曹司が、レストランのシェフをしてて良いの?」


 自分の実家の事を思い出し、つい聞いてしまった。



「そいつは次男なんだ。 長男が跡を継ぐから、自分は好きな道を選択できると言ってた」



「羨ましいボンボンね。 その人の事はどうでも良いけど、料理はおいしいの?」



「正直、分からない。 でも、うちの食材は良い物を扱ってるから期待できると思うよ」


 夫は、少し困った顔をした後、笑ってウインクした。


 私もウインクして返すと、彼は私に近づき頬にキスをした。

 体がジーンと震える。この感覚は、夫を愛している証拠なんだと思う。



 そして、日曜になった。


 夫は、車を準備するため朝早く出かけた。


 私は、午前9時の出発に合わせ、大きなバック2個に持って行く物を入れた。

 久しぶりのデートだから、思わず顔がほころんでしまう。



 私は、周りからチヤホヤされて育った人間だからワガママだと思う。見た目は美人の部類に入るようで、これまで多くの男性から告白されたし、常に彼氏がいた。

 でも、長続きはしなかった。相手の男性に魅力を感じなくなり、私から別れを切り出してしまうのだ。


 自分から告白したのは夫1人だけだ。この人とは長く続いている。

 夫を愛する気持ちは本物であり、だから結婚に至ったのだ。明らかにこれまでの人とは違う。

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