第71話

 六魔衆紅の邪眼ブラッドアイ

 王家狩りクラウンハンター恐れの騎士テラーナイトと並ぶ魔王軍の最高幹部、六魔衆の一体である。


 全長十メートルほどの、宙に浮く巨大な眼球がその本体だ。

 まるで魔物のような姿であるが……実際のところ、魔王軍でも屈指の知性を持った魔術師であった。


 魔王軍の再侵攻以来、人類の前に姿を現わしたのは、これまでに二回だけ。

 そのどちらも、大国がひとところに軍勢を集めての決戦時であり……。


 紅の邪眼ブラッドアイは、人類が集めた精鋭中の精鋭を単騎で粉砕した、戦場の覇者であった。

 人類のあらゆる攻撃は、紅の邪眼ブラッドアイの展開する障壁によって無効化された。


 巨大な眼球から放たれる紅蓮の炎によって、人類の勇士たちは無残に焼き尽くされた。

 紅の邪眼ブラッドアイが通った先には、ただ灰と塵が残るのみ。


 攻撃から生き残り逃げ出した人類の精鋭の残党も、こいつの手下である灰色のローブをまとった魔族、通称灰色の魔術師団ウィザーズ・オヴ・アッシュによって刈りとられた。

 その戦いにおける生存者は、遠くから魔法で観察していた他国の偵察魔術師のみであったという。


 しかも彼らは、あえて生かされたのだ。

 紅の邪眼ブラッドアイは役目を終えて戦慄しつつも撤退しようとした偵察魔術師たちに対して、テレパシーを送った。


「劣等種よ。我らの前にすべての抵抗は無意味であること、貴様らの飼い主によく知らせよ」


 と――。

 彼らの報告によって圧倒的な蹂躙劇を知ったいくつかの国は、戦わずして魔王軍に降伏した。


 魔王軍の領土に呑み込まれたこれらの国々が現在どうなっているのか、誰も知らない。

 まーだいたい想像はつくけれども、でもそんな選択をしてしまうほど、紅の邪眼ブラッドアイの力は圧倒的で、そして絶望的であったのだ。


 そんな魔族の頂点の一角が、いま、おれたちの頭上にいる。

 巨大な眼球が、おれたちを睥睨している。


 結界はまだ破られておらず、結界の外にいて、本来ならおれたちなんてみえないはずだ。

 なのにその眼球は、はっきりとおれたちを視認しているようだった。


 そもそも、おれたちの周囲で燃えている木々だって……。

 こいつが燃やしたんだとしたら、それはいったいどうやったというのだろう。


「この森の結界すら見破るとは、たいしたものですね。大戦の災禍、その生き残り。邪悪なる紅眼。深淵を視る者。すべてのいまを見通す者。次元の彼方に封印したにもかかわらず、わずか五百年で戻って来ましたか」


 セミが、頭上の巨大な眼球を睨んでそう告げる。

 え? いまなんか重要なこといったな?


 ゲームでも、紅の邪眼ブラッドアイの出自とか出てこなかった気がする。

 六魔衆のうち何体かは、その出生の経緯までわかっているんだけど……。


 そのあたり詳しく聞いてみたいところだ、が。

 いまはそんな悠長なことをしている場合じゃない。


「七年、かかったのだ」


 老人のようにしわがれた声が、直接、頭のなかに響いた。

 それが頭上の巨大な眼球から発していることを、おれたちは誰も疑えなかった。


 おれたちは紅の邪眼ブラッドアイに語りかけられたのだ。

 結界がまだ破れていないにもかかわらず、やつはおれたちを認識し、しかもテレパシーを繋げることすらやってのけたのである。


「あらゆるところに部下を飛ばし、あらゆる場所を捜させた。それでもみつからなかった。だが、それもこのときまでだ。忍従の時は去った。我らの栄光は目の前にある」

「いえ、おまえたちに与える栄光など、どこにもありはしません。いまは紅の邪眼ブラッドアイと呼ばれているのですか? ふたたび遠き次元の果てに封じさせていただきましょう」


 セミが、軽く右腕を振った。

 その瞬間、耳鳴りがした。


 頭上を覆っていたなにか不可視の天蓋が、一瞬にして消えたような感覚がある。

 結界が解けたのだ。


 セミによって。

 なぜ? と思う間もなく、大魔術師の祖母は右手をぱちんと鳴らした。


 頭上で、巨大な眼球の周囲で、空間がひどく歪んだ。

 茜色の空が一瞬で黒く染まり、満月が出た。


 いや、それは満月のように銀色に輝く、空間の歪み、その極みであった。

 別の時空に繋がる門。


 それが、唐突に出現したのだ。

 セミが片手を振っただけで。


「結界を維持していた魔力を、一瞬で時空操作に転用した!?」


 リアリアリアが驚愕する。

 よくわからないけど、すごいことをしたのだという理解でいいのかな?。


 その満月の門が次第におおきくなっていく。

 落下しているのだ。


 紅の巨大な眼球が、満月の門に飲み込まれようとしている。

 門の向こう側がいったいどのような空間に通じているかはわからないが、おそらくいちど飲み込まれてしまえば、こいつはまた数百年、戻って来られないだろう。


 しかし――そうは、ならなかった。

 巨大な眼球が、わずかにその全身を震わせる。


 ぴしり、と乾いた音が響く。

 満月のあちこちにヒビが入る。


 そして次の瞬間。

 銀色の満月が、粉々に砕けた。


 周囲の空間が、もとに戻る。

 茜色に染まる空のもと、紅の邪眼ブラッドアイは悠然と、森の上に浮いていた。


「いい罠だった」


 また、頭のなかに老人の声が響く。

 同時に、けたけたと耳障りな笑い声が聞こえた。


「だが、それはすでにみた。五百年もあって、対策しないはずもなかろう。空間の歪曲度は数倍になっていたが、根本の原理は変わらん。ならば術をほどくのはたやすいこと」

「それをたやすい、といえるのは貴様くらいでしょう」


 セミが吐き捨てるように呟く。

 本当にまったく全然わからないが、たぶんお互いにすごいことをやったみたいで、その結果――勝利したのは紅の邪眼ブラッドアイの方みたいだ。


「高次元に紐状の魔力を通して縫い合わせる方程式、第六次元歪曲論、それに二重螺旋状空間理論……」


 かたわらのシェルいもうとが、ぶつぶつと呟いている。

 ひどく青ざめた顔で、頭上をみあげたまま、懸命になにかを読みとっているようだった。


 どうも、術式の解析をしているみたいだ。

 はっはっは、これの解析ができる程度にはなにが起きているか理解しているなんて、我が妹はすごいなあ。


 現実逃避である。

 正直、この戦い、おれが手を出せる部分がなにもない。


 ここで翼を生やして飛び上がったとしても、たぶん紅の邪眼ブラッドアイの魔法によって狙い撃ちされるだけだろう。

 あるいは、さっきの攻防と同じく、よくわからない異次元の魔法を使われて、よくわからないうちに仕留められるか。


 聖僧騎士ブルームなら、どうだろうか。

 彼の方をみれば、難しい顔で腕組みして、獣のように低いうなり声をあげていた。


「ねえねえ、ちょっと相談なんだけど」

「む? どういたしましたかな、アリス殿」

「ブルームは、あそこに介入できそう?」

「起きている事象は簡単なのです。いまもただただ、お互いに向き合って魔力の奪い合いをしております。隙あらば互いの周囲の空間を歪めようと牽制しております。ですがそれ故に、手を出すことが難しい。下手な行動は、セミ殿の足を引っ張ってしまうでしょう」


 なる、ほど。

 下手なことをすると、足を引っ張ってしまう、か。


 リアリアリアすらも手をこまねいてみているだけなのは、そういうことか。

 だとしても、なあ……とリアリアリアの方をみれば……。


 大魔術師は、おれと目線を合わせてちいさくうなずいてみせる。


「アリス、皆、聞いてください。ここはお婆さまに任せて、わたしたちは撤退しましょう」

「え、リア婆ちゃん、いいの?」

「お婆さまの戦いの邪魔になります」


 エステル王女は、「そっかぁ」と間の抜けた呟きを漏らした。

 そうだ、いま魔王の首を入れたポーチは、リアリアリアの手にある。


 セミはこうなる可能性も考慮して、あのときポーチを孫に手渡したのだろうか。

 だとすれば、セミは自ら望んで、ここで囮となる覚悟も決めていたのだろう。


 せっかくの、祖母との邂逅だ。

 もう皆がいなくなったと思っていたリアリアリアに、同族が現れたのだ。


 もう少し話をさせてやりたいし、ためらう気持ちはあったが……。

 そんな、一族の情よりも優先させるべきことが、いまはある。


「参りましょう」


 リアリアリアが、そっと右手を振った。

 セミを除く全員の身体が淡い光に包まれる。


 身体が軽くなった。

 いや、さっきまで浴びていた紅の邪眼ブラッドアイの強烈な圧力を感じなくなった、というのが正しいところか。


 おれは安堵の息を吐く。

 自分たちが威圧されていることにすら気づかない、おそるべき威圧であった。


 そして、リアリアリアはその威圧の魔力を、腕のひと振りで払ってみせたのだ。

 やっぱり彼女も、偉大な大魔術師であることは間違いない。


 それ以上に、祖母であるセミの力がすさまじいのだが……。


 ねえ、インフレしすぎてない?

 これ、おれの出番なんてもうまったくない気がする。


 ともあれいまは……。

 すたこらさっさ、だぜぇ!


 リアリアリアがほんのわずか宙に浮き、滑るように南へ飛ぶ。

 森の木々が、藪が、燃えながらも彼女を避けるように左右に割れていく。


「それじゃ、いくよっ」

「ひゃっ、アリスさまっ」


 おれは呆然としているアイシャ公女を左手でひょいと掴み、小脇に抱えて駆け出す。

 ほかの面々は、いささか慌てながらもリアリアリアとおれに続いた。


 セミ以外。

 彼女だけは、未だに紅の邪眼ブラッドアイと睨み合いを続けている。


 早く行け、とその背中が語っているようにみえた。

 おれたちがいても邪魔になるだけ、というのは真実なのだろう。


 ちなみにエステル王女は途中で転びかけて、騎士ふたりがかりで左右から支えられていた。

 たくましい騎士さまたちでも、さすがにちょっと重そうである。


 シェルがおれのそばで飛んでいる。

 ちらり、と抱えられているアイシャ公女の方をみて、うらやましそうな顔になっていた。


 うらやましいか?

 自分でもどうかと思うけど、右手はいつでも使えるようにと、モノみたいに抱えているだけだぞ。


 と――左右の藪の向こう側が騒がしくなる。

 うん?


「わたくしを投げてください! あの方のもとに!」


 唐突に、アイシャ公女が叫び、前を走るリアリアリアを指さした。

 以前もあったことだから、すぐ理解する。


 彼女の未来探知が働いたのだ。

 おれは肉体増強フィジカルエンチャントした左腕で、公女をえいやっ、と投擲した。


 ほぼ同時に、背の高い草を割って、ヘルハウンドとローパーがリアリアリアに飛びかかってきた。


 数百年を生きた大魔術師とて、こういうときの反応は鈍い。

 慌てた様子で身をひねるも、ヘルハウンドの牙がリアリアリアの首筋に狙いを定め――。


 空中で、アイシャ公女が左手を伸ばす。


 その中指にはまった青い指輪が輝いた。

 青い傘のバリアが、ヘルハウンドの顔とリアリアリアの間に割り込む。


 ヘルハウンドは、ぎょっとした様子で顔を引っ込めようとするが……間に合わず、バリアに衝突して、ぎゃん、と悲鳴をあげた。

 小柄な公女は、その反動で地面に叩きつけられごろごろと転がるが……。

 

 その一瞬の献身で、時間は充分。


「シェル!」

「うん!」


 シェルがおれに魔力を流す。

 おれは肉体増強フィジカルエンチャントをかけて加速し、対魔法剣アンチマジック・ブレードを一閃、ヘルハウンドの首を刈りとると、左腕でアイシャ公女の身体を抱え込み、無事に着地。


 ほぼ同時に、反対側から飛びかかってきたローパーが、聖僧騎士ブルームの拳によって粉砕されていた。

 ふう……セーフ、セーフ。


「殿下、ナイスバリア!」

「とっさのことでしたが、上手くいってよかったです。わたくしでも、少しは役に立てました」


 おれは擦り傷だらけの公女に手を伸ばし、腕を引っ張って立ち上がらせる。

 少女はよほど怖かったのか、歯をかちかちさせながら、引きつった笑みをみせた。

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