日本史における戦術革命

@owata_1942

さるかに合戦

さるかに合戦は機動力に劣る攻撃側が、単独ではただ受動的な存在に過ぎない罠を巧みに組み合わせることによって主導権を確保し続け、最終的には防御側を殲滅した、戦史史上稀有な例である。

本稿では、攻撃側を指揮した子蟹がなぜこのような作戦を取るに至ったか、その経緯について分析するとともに、子蟹の勝利が究極的には何に起因していたのかについて考察したい。

鬼ヶ島の劫略により財を成した桃太郎のもとから、なにゆえに猿が離れたのかは判然としない。

鬼ヶ島における作戦の成功に貢献したことで、自分も一国の城主足り得るとの認識を持ったとしても不思議ではない。

あるいは、桃太郎との間で確執があったのかもしれない。そもそもきびだんご一つで命をかけた戦いに従事するほうが異常なのであって、財宝を目の当たりにした猿が分け前を要求したとしても、それを責められようはずもない。

もっともここのいきさつについて明確に記した史料が存在しない以上、どうしても不確実な推測に頼らざるを得ないし、猿の個人的感情の推移について記述するのは本稿の狙いではない。

確実なのは、鬼ヶ島での戦いに参加した猿が、「戦いにおける主導権は、屋外における積極的機動によってのみ得ることができる」との確信を持ったことである。

この確信があったからこそ猿は自分の領地として木の鬱蒼と生い茂った山を選んだのであって、事実、この自然条件にあっては猿の三次元的機動力は何者もの追随を許さず、ほしいままにふるまうことができたのである。

しかし、猿の活動範囲内で唯一、機動に制約を受ける環境があった。それが自宅である。

この作戦の要訣は、最後の臼の一撃にある。機動力に優越する猿に対し、ただゲリラ・ハラスメント的攻撃に終止するのではなく、また完全に包囲して決戦を強いるわけでもない。

あえて残しておいた退路に誘致し、死角である頭上から大質量の臼に攻撃させることにより、子蟹勢は(自爆した栗を除いて)損害を出すことなく決定的勝利が得られたのである。

このように子蟹のとった作戦と人選があまりにもうまく適合することから、ここに我々は日本における「ドクトリン」的思想の萌芽を見出さざるを得ないのである。

さるかに合戦に類似した戦例は他国にも見られる。ドイツにおけるコルベス亭の戦いがその一つである。

戦いの推移はさるかに合戦に非常によく似ており、最後に臼の一撃によってとどめを刺すところまで同じである。

この戦いについての最古の記録は、1812年の『Grimms Märchen』にあり、一方さるかに合戦が初めて記録に現れたのは十八世紀初期の宝永頃である。

私が確認した限りでは、その他の戦例の記録もさるかに合戦に先んじたものはなかった。

だとすれば、このドクトリンは「子蟹ドクトリン」ともいうべき日本発祥のものである可能性がある。

その有用性のゆえに遠く離れた他国にも伝わり採用されるに至ったのではないか。そのような想像ができるが、現時点では確証はないため今後の研究が待たれる。

ただ、生物学的に見てサワガニは甲殻類の中でK戦略の傾向が強い種であり、確実に子孫を残すために人間以上に知能を発達させている可能性は否定できない。

仮にこのドクトリンの発明者が日本のサワガニであったにせよ、それはあくまで仇討ちという限定的目的のために生まれた突然変異的なものであって、また太平の江戸時代に必要とされるものでもなく、以後国内での発展を見せなかったのは残念なことである。

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