第9章 スカッシュ!!

「傑作だったな!」


 上映後、表通りを歩く幸春は興奮しながら感想を口にした。


「ヒマラヤでイエティに追いかけられるシーンはハラハラしたよ。でも和解して友達になる時はうるっと来た」

「ねー。私は中国での格闘のシーンが印象的だったなぁ。刀や矛での白兵戦、カンフーの格闘は目が回りそうだったけど派手だったわね」

「派手さといえばシベリアでの銃撃戦も凄かったな! ソ連軍に包囲された時はどうなることかと思ったけど、まさか抑留されてた日本兵達が味方するとは……」

「うんうん。最後に樺太経由で北海道まで大脱出するシーンも感動したわ。まさにエクソダスね!」

「フィナーレのダンスも素晴らしかった……」


 口々に映画の感想を言い合う二人。通行人が微笑ましそうにするがお構いなしである。すっかり意気投合して興奮冷めやらぬ様子だ。


「「インド映画、最高!!」」


 そして終いには異口同音でマニアっぽい感想に着地した。沙彩は元々インド映画を嗜んでいたが、先ほど見た『ガラムマサラ、シベリアへ』で趣味を深めた。そして幸春も『踊ってばかりの変なジャンル』という偏見を改め、新たな境地を開拓したのであった。


「なぁ、他にも面白い作品があったら教えてくれよ!」

「良いわよ。オススメは山ほどあるから!」


 沙彩は快く応じた。ウィンクまでする辺り、自分の趣味を受け入れられたことが嬉しいのだろう。


「この後どうする? 夕食にはまだ早いけど」

「予定はもう決まってるわ。ディナーの前に運動して一汗かきましょうか」


 そう言って彼女に連れてこられたのは天神にあるスポッチャだった。店内にはそこかしこにトランポリンやバスケットコートなどアクティビティ設備があり、大勢の客が歓声を上げながら身体を動かしている。

 沙彩は一人でカウンターに行き、料金を払って戻ってくる。その手には二本のラケットとボールが握られていた。


「テニスするの?」


 ゴクリ、と生唾を飲み込み尋ねる。


「おしい。テニスじゃなくてスカッシュよ」

「スカッシュってアクリルの箱の中でするテニスみたいなやつ? 前にテレビで見た」

「そう、それそれ。夕食の前にカロリー燃やしちゃいましょ」


 沙彩は弾んだ声色で言いながら片方のラケットを手渡してきた。運動となり彼女のアスリート精神が刺激されたのだろう。


 本格的な運動はいつぶりだろう。下手をすれば高校生以来かも、と思案しながら彼女の後を追う。辿り着いたのは想像通りのアクリル板を組み合わせて作ったスカッシュ用のコートだった。


 貸し出された専用シューズに履き替えてコートに入ると沙彩は軽やかにラケットを素振りする。クルクルと片手で回したりとその手つきは妙に慣れたものだった。


 それもそのはず、沙彩は中学生の頃からテニス部に所属していて、大会で実績を残す程の腕前であった。高校三年生の最後の大会ではインターハイに出場し、そのおかげで大学の推薦を取れたのだ。


「沙彩がラケット握ってると、昔を思い出すなぁ」


 最後の夏の地区大会、クラスの皆で応援に駆けつけたことがあった。その時目に焼きついた彼女の流麗な勇姿が自ずと想起されたのだ。


「アスリート精神は今でも変わらないわよ?」

「でも身体は歳を取った」


 ビュン――スパコーン!!


 沙彩のもとから放たれた打球が疾駆してこめかみを掠め、背後の壁に衝突してバウンドする。


「腕も落ちてないわよ?」

「……お、お若くて羨ましい」


 誇らしげに微笑む沙彩。打球の勢い、コントロール、サーブのキレからして確かに衰えは感じられない。それこそ直撃していれば彼の頭はトマトのようにはじけたことだろう。

 おぞましい想像に震え、失言を自戒する。


「それじゃあ、かるーくラリーで慣らしてからミニゲームでもしましょうか」


 幸春の軽口はサラリと流し、ボールをバウンドさせながら静かにサーブの体勢に入る沙彩。

 ラケットを振るうその姿は、かつて部活動に打ち込んでいた熱意と純真さに溢れる女子高生の頃と重なる。


 ただ一つ、違うところがある。桐原沙彩は成熟した大人の女性になり、綺麗になった。


 なぜかそんな雑念を抱きながら幸春は彼女が打つ優しい球を追いかけ回したのだった。


 *


 ひとしきりラリーをして身体を慣らすと次は試合形式のミニゲームをした。

 幸春としては十分に身体が温まり、ラケットが手に馴染んだおかげで沙彩から白星を勝ち取る自信を抱いていた。しかし、それは自惚だった。


「ぜえぜえ……」

「へいへいかもーん!」


 自分は息も絶え絶えなのに沙彩はこの余裕ぶり。


 試合の経過は一進一退。しかしそれは沙彩がわざと返しやすい球を放つおかげだ。きっと完勝してはレクリエーションにならないからとの配慮だろう。


「デュースに突入ね。二点先取した方が勝ちよ」

「取れる気がしねぇ……」


 片やインハイ出場者、片や運動不足のアラサー。元来ポテンシャルが違い過ぎるから彼女に勝つには奇跡が必要な域だ。


 だがやるからには勝ちたい。


 男の闘争本能に火がつき、幸春は身構える。沙彩も彼の闘志を敏感にキャッチし不敵に微笑んだ。


 沙彩がサーブを放つ。幸春は食らいつくが打球は側面の壁に直撃した。スカッシュは打球をまず正面の壁に当てなければ失点となる。早々にリードを与えてしまい、思わず顔を歪めた。


「そろそろ貸し出し時間が終わるから、決めさせてもらうわよ」


 勝利を確信した沙彩がしたり顔で言う。さも勝ったような口振りにカチンと来た(手加減してもらってるくせに)。幸春は意地でも再びデュースに持ち込んでやると意気込む。


 ぱこん。ぱこん。ぱこん。


 放たれたボールが二人のラケットに交互に打たれ、激しくバウンドする。沙彩は余裕綽々のプレーだが幸春はもうヘトヘトだ。ラリーについていくだけで決め手を放つ余力は無い。


「そら、もらった!」


 沙彩が掛け声と共にボールを打つ。打球は正面、側面と力強くバウンドし、両者の間に飛来する。


 だがこれは守備範囲だ。ステップで踏み出しラケットを振るう。


 スカッ。


 しかしラケットに手応えは無く空を切った。球の軌道を読み違えたのではない。球が


 予想だにしないことが起こった。困惑した幸春は視界がスローモーションになる中必死にボールを探すが見つけられない。


 その時、事件は起こった。ボールを探すのに必死になって足元が疎かになり、前傾姿勢を維持できず、前のめりにバランスを崩してしまったのだ。


「きゃあ!?」

「わわわ!?」


 そのせいで沙彩と激突してしまい、身体を重ねたまま倒れてしまう。咄嗟に身体を捻ったおかげで彼女を押し潰す事態は避けられたが、逆に沙彩に押さえ込まれてしまった。


 背中と肩に鈍い痛みが走る。しかし刹那の後に思考は甘い香りと温かく柔らかな触覚に支配された。

 無意識の内に彼女を抱き寄せる形になり、腕の中に細い身体がすっぽりと収まっていたのだ。


 沙彩が四つん這いになって、こちらを覗き込む。乱れた髪が柳の枝のように垂れ下がり、鼻をくすぐった。

 鼻腔を撫でる人工的な芳しさはコスメの匂い。それに混じる花とも果実も取れる香りは沙彩自身の匂いだろうか?


「ユキ、大丈夫?」


 安否を問われるがすぐに言葉が出なかった。痛みのせいもあったが、彼女の顔がこんなにも近くにあることが信じ難い。特に湿った唇から妙に目が離せず、言葉を絞り出すのに時間を要してしまった。


「平気だよ。でも……その、どいてくれると嬉しいかな」

「ご、ごめんなさい!」


 幸春の下腹部に馬乗りになっていた沙彩は慌てて飛び退き、しおらしく女の子座りをして何やらモジモジとした。


「お、重かった?」


 どうやら女の子っぽく体重を気にしているらしい。


「平気平気。怪我も無いよ」


 そんなことを問われても答えに窮するのでとりあえず体重のことには触れず笑って流すことにした。すると沙彩は安堵を浮かべた。


「ねぇ、最後のやつ何? ボールが消えた気がしたけど」

「変化球よ。あれでインハイまで進んだの」

「スカッシュに変化球とか無いだろ!?」


 壁をバウンドさせた上での消える魔球。そんな離れ業が出来るのは人類の中でも彼女だけなのではなかろうか。

 ゲーム終わりに本気で思案する幸春であった。

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