第7話

 今夜はハイドパークで大きな野外音楽フェスがある。俺の好きなバンドも出演するので興味はあったが、チケットは瞬く間に売り切れてしまった。運よくチケットを手に入れたであろう、ハイスクール帰りの少女たちがお揃いのタオルを手にして小走りで大通りを駆けて行く。

 オフィスを出てから、一時間くらい俺はぼんやりと歩いていた。大慌てで走る女子高生と肩がぶつかる。衝撃と鈍痛で俺の思考がようやく現代に戻ってきた。少女たちは俺にぶつかったことなど気に留める様子もなく、中年まで一歩手前のくたびれた男を後に残して去っていった。ふいに頬に冷たい感触があった。雨だ。顔を上げると曇天の遠くに光の輪がかすかに見えた。何の予定も無い俺はそこに行ってみることにした。


 自分の両親がこの世の存在ではなくなったと感じたあの日。ほどなくして二人は別れた。

 母は日本の両親に引き取られ帰国した。その後音信不通となり、現在は行方が分からない。どこにいて、何をしているのか。元気に暮らしているのか。それともまだ生きているのかもさっぱり解らない。

 小学生の俺は父と二人で暮らした。俺が中学に上がる頃、父は古い友人の勧めで一度再婚したが、長く続かなかった。寡黙な男は時折見せる饒舌さも影を潜め、何も話さなくなり、代わりに以前より酒を飲む機会が増えた。思えば、彼は自分自身をずっと責めていたのだろう。

「俺は幸せになってはいけない人間なんだ」

 空いた無数のウォッカの瓶と、こんな後ろ暗い口癖だけがアパートメントの床に転がった。



 光の輪の正体はロンドンアイだった。単なる観覧車だが、その形状が人間の目に似ているため「ロンドンアイ(ロンドンの瞳)」と名付けられた。

 世界的都市ロンドンに突如として生まれた巨大な瞳。

「こいつに嫌われると瞳から発射する熱ビームで黒こげにされちまう。だから良い子にしてるんだよ」

 三歳の頃、親父にそう脅された記憶が蘇る。俺は券売機で切符を購入して係員に渡し、おもむろに観覧車内に滑り込んだ。

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