アケレル

岸正真宙

第1話

 寒空の下、住宅街の近くに高架下の小さな工事現場があった。その工事現場は道路規制をしており、端から端までおよそ50mほどであった。その両端には片側通行になるため、車両の誘導規制をするため警備員がいる。今晩、松本宗太郎はこの現場に警備員として初めてアルバイトで入ることになった。昼間の人と交代で夜の22時より現場についている。だが運が悪いことに今夜は今冬一番の寒さで、中国大陸より大規模な寒波が来ているそうだ。幾重にも重ねた警備服は体温を外に逃がさないようにできていたし、手袋も普通の厚さではないのにかかわらず、やはり冷気は隙間から滑り込んできて、徐々に体温を奪っていった。松本宗太郎は「ついてないな」とつぶやいた。


 ピーっ、ガー。

 ―こちら、車両一台きました、通していいでしょうか―


 反対側の警備員のおじさんが宗太郎に訪ねてきた。宗太郎と反対側のおじさんの間には工事の重機があるため、宗太郎のほうからは無線の主の姿は見えない。無線機からの声は、工事現場の喧騒の音にかき消されてはいたが、宗太郎に唯一話しかけてくれる人の声のため、なんだかあったかみを感じた。

 こちらの側には一台もいなかったので

 ―どうぞ、通してください―

 と相手側に伝えた。無線が再度、通じたことを示す短い単音の後に「了解しました。」と端的な返信が届いた。




 松本宗太郎には彼女がいる。ちょっと風変わりな彼女の名前は清水香子(きよみずかおるこ)という。彼女は大学では民俗学の研究をしていて、世界のあらゆる風習や慣習、文化に一つの壮大な始まりを見つけたいらしく、日夜図書館かゼミに通う非常に勤勉な女性である。宗太郎と彼女が付き合うきかっけになったのは講義で隣になった際に宗太郎が書いたフルネームが彼女の眼に止まり、彼女から声をかけられたことによる。彼女はその際、「非常に奥ゆかしいお名前ですね」と宗太郎の書いたフルネームを何度ものなぞりながら、ほほを紅潮させて話しかけてきた。香子は古めかしい名前が好きだったうえに『松本宗太郎』の名前はその時、自分が研究していた江戸時代の資料に記載れていて、運命的なものを感じたらしい。付き合ってから分かったことだが、彼女は鏡の前で時折呪いのような言葉を自分の口から出すことが多く、尋ねたところ本当に呪いの言葉であることが多い。彼女が言うには条件が整わなければただの言葉とのことだが、そういう質問をするときの宗太郎の表情が硬いことが好きなようで、彼女はいつだって満面の笑みで返答をする。その笑顔は、とても不気味である。最近の彼女の研究はブーベ島に伝わる『アケレル』という神話についてである。いつくかの条件が整うと、日本でいう黄泉の国とつながるとのことだ。ただ、繋がるのは人の死生観の黄泉の国とは別の次元になるらしい。アケレルによりつながる黄泉の国の存在は、物理学のいうところの平行世界と同義であるとのことだ。香子の話では「アケレル時にアケルことと、空間をアケルことにより、本来のアケレル世界につながる」という古文書を読んだとのことで、宗太郎にもそのような状況が来たらすぐに電話をしてくれといわれている。




 それほど交通量も無い道路規制のバイトであったため、宗太郎はぼんやりと「そんな日が来るのだろうか」と考えながら、仕事をしていた。




 迎えのハイエースが到着して、続々と工事現場の人達が乗り込んでいった。

「兄ちゃん、わりいな。先帰るな。ほれ、これ飲んであったまとけ」

 ほうりなげられた缶コーヒーはきれいな放物線を描き、宗太郎の腕の中に落ち着いた。現場の主任が帰りがけに声をかけてくれたが、それはまるで、どんな現場でもすべての情熱があるようなあのCMのような笑顔であった。時間は25時に差し掛かっていた。この現場は深夜には稼働しない。ただ、重機をセットしてそのまま帰るので、警備員は24時間体制で対応しなければならない。宗太郎のは缶コーヒーのプルキャップに指をかけ、勢いよく開けた。手袋をとり、直にホットコーヒーの缶に触れ、暖をとった。そうして冷めないうちに、缶を掲げて、コーヒーを身体に流し込み、そのまま空けた。


 月が東の空に見え始めた。夜空には冬の大三角のプロキオン、ペテルギウス、シリウスがみえて、宗太郎は目で結んで暗い空に三角形を作り出してみた。そういえば、オリオン座って何に殺されたのかなとふと考えていたら、自分の方に車が来たので、反対側のおじさんに連絡をして通そうとした。


 ピーっ、ガー。

 ―こちら、車両一台きました、通していいでしょうか―


 ピーっ、ガー。

 ―……―


 応答があったが「どうぞ」の声は聞こえなかった。でも、問題なさそうだったので、停止として横一文字にしていた赤いニンジンを開けてあげ、車を通した。運転していたおじさんがこちらをじっと見つめて通り抜けていった。

 宗太郎の方に車が来たのは現場の人が帰ってからは初めてだったかもしれない。深夜なので随分と車の通りも少なくなり、あまり宗太郎としても規制誘導をしている意味を感じられなかった。宗太郎の方は集合マンションが近いので、深夜の帰宅をするタクシーばかりが反対側から通り抜けていったと思う。

 宗太郎は『タクシーばかりが通り抜けた』ことに何かの違和感を感じた。


 ピーっ


 また、何の断りもなく短音が暗闇に鳴り響いた。が、そのあとに続くはずの通信が通った時の雑音はなく、無音が夜寒の中に吸い込まれていった。宗太郎は相手の間違いだったと思い、先ほどの違和感を手繰り寄せようと、考えてみた。


 ピーっ、ガーっ。

 ―あ、らいだ、あくらい、けられ―


 その違和感ではない、異物が無線機から急に鳴り響いた。その言葉の連なりは聞いたことがない。暗闇と孤独感のせいで、自分にとって都合の良い考えを最初にはじき出してしまった。「多分指がかかってしまって、通信がはじまってしまったのだろう」と


 ―ら、いな。。。らお、このま。るえん、だる―

 そう納得しようと思っていたのに、続けてこれが来た。


 ―すみません、どうかしましたか?―

 そう、宗太郎は問いかけ、応答を待った。


 ―暗い、、暗い―

 応答が返ってきたのだが、問いかけとは別のものだった。そのまま相手は続けた。


 ―なにも見えない、暗い。ただ、暗い。―

 無線通信は一方通行だ。この通信を止めるすべはない。いつだって始まりは相手の意思によるのだ。それが、何者であるかは関係がないのだ。これはあのおじさんなのだろうか。


 ―そうですか?僕には星空も見えますし、そっちはもしかしたら見えないかもしれないですけど、月が登り始めていますよ―

 しばしの無音が鳴り響き、通信の合図が鳴った。


 ―つき、、そちらにはそれがあるのか―

「そちらには」の語感にいわれのない不安を感じたが、宗太郎がそれの正体を探ろうとすると靄がかかったみたいに考えが消えていく。そういえば先ほどからあたりの寒さは一段と増したような気もした。そのせいか自分が吐く息が青白くなっている気もした。


 ―ヒト……が欲しくなる―

 宗太郎は途切れた通信の空白を埋めたくて、人肌というワードをあてはめてみた。それがぴったりとはまるパズルではないと、本能的には分かっていた。気づけば、近くの街灯は明滅を始めていて、そのリズムと一緒に宗太郎の思考も明滅をした。


 ―もう、でも、辞める―

「なにを?」疑問が宗太郎に浮かんだ。強い疑念が、頭を取り巻いているのに、通信を止めることができない。その手段が宗太郎には思いつかないからだ。さきほどから、少しずつ、宗太郎の動きは鈍くなり、思考の真ん中に灰色の芯があるような、重さを感じていた。実際的な手段をとることが、今の宗太郎にはできなくなっていた。

 宗太郎の頭上の空は、冬の大三角はしかっかりと線で結ばれていたし、その中は黒く塗りつぶされていた。月は青くなっており、太陽の光ではないものを反射していた。


 ―月はまだ見えているのか?―

「ええ」と宗太郎はつぶやいた

 ―その光はもう長くない。こちらへ―

「はい。そうします」と宗太郎はつぶやいた

 ―お前の世界はそのうち無くなる。それが必ずしも不幸とは言い切れない―

 だんだんと相手の声ははっきりと、そして若さを取り戻していた。無線機は通常の電波レベルを超えて広げていき、音波はクリアーになっていくばかりであった。

 ―あとはもう一つのアケレルを開くだけだ。―

 宗太郎はなにをどうすればいいかが『はっきり』と分かっていた。ただそれを理解していること自体、ありえない。そう、ありえないのだ。今それをすれば確実に『そこ』へ行けると理解した。人間にできるはずもないと知っているのに。

 宗太郎は自分の腹に赤いニンジンをのめりこませた。体の中に赤いニンジンがにゅるにゅると入ってくのを感じた。腸がニンジンに触れていることが分かった。とても冷たい。身体の体温が集中しているところからすればあまりの落差で凍傷しそうなほどに痛みを感じたが、その痛みはどうしても自分のところに留まってくれなかった。ニンジンが腸の周りで明滅を繰り返している。月の満ち欠けが物理的な違反をしはじめた。


 ―そう。アケレルを開け―

「はい」宗太郎はもう、居なくなるだろう。宗太郎は。




「ねえ、宗太郎、私の言葉は時折意味があるわ。例えば、、、」

 うつろな宗太郎は腹にニンジンを刺したまま、香子が夜な夜な言い続けていた言葉をつぶやいた。その発音は日本語のそれとは違ったが、心地よい響きがした。


 ガガーっ、ピッ。


 大きな衝撃が背中全体に広がり、そのあと宗太郎は後頭部をぶつけた。その勢いで遠くにニンジンが転がり、その場で回転をしていた。あまりの痛さに驚いたが、痛みがお腹ではないことに気づいた宗太郎は、自分の腹を触ってみた。幸い穴は開いていなかった。どっと疲れが出て、この日の寒さとは別に冷や汗が湧き出ていた。

 ずいぶん前に香子は「ほらね」と宗太郎に向けて言ったことがあった。

「何が?」と宗太郎が聞くと、「私が見つけてよかったでしょ」と言っていた。彼女は宗太郎をのだった。

 宗太郎はその恰好のまま天を仰いでいた。半分以上欠けた月が天上まで上がっていた。朝方に上がる月はだれも見上げていないので純真な光を取り戻していた。この月は誰も見上げてはいないのだ。

「月は完全には開いていない。だから、僕はここにいるよ」




 ピーっ。ガーっ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アケレル 岸正真宙 @kishimasamahiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る