二日目

二日目

 陽が登り始め、目の前の景色に少しづつ暖かみが生まれていく。夜は姿を消し、今日という一日が始まる、だが私の頭は、今だ暗闇に取り残されていた。昨日大輔と木暮の婚約の話を聞いてから、自分がどうやって家に帰ったか、はたまた何時に帰ったか覚えていなかった。気づけば窓の前に座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。椅子の横にはせっかく掃除をした灰皿に山盛りの吸殻が乗せられていた。指に挟んでいた煙草をその頂上に差し込むと、深く息を吐いた。

 婚約を宣言した後、大輔は私にこう言った。

「俺たちの式をお前にお願いしたいんだ」

私は一体何と答えたのだろうか、きっと笑顔でこう答えたのだろう。

「もちろんだ、任せてくれ」

 その後、仕事の話をしたのだろうか、きっとしたのだろう。スマホのメモを見ればわかることだろうが、今やそれを見る気力もない。ひどく頭が痛む、原因はニコチンだけではないだろう。二度と会うことはないと思っていた彼女に会ったこと、親友の婚約、世界は昨日を境に急に顔色を変えた。世界から目をそらす為に強く目蓋を閉じ、背もたれに体を沈める、私の視界にノイズが走り、意識は煙の様に薄れていく。

 体の痛みと、スマホのアラームにより目が覚める。日差しが体に降り注ぐが、それはまるで自分に向けられたサーチライトのようだった。

「お前は幸せになんかなれないんだ」

 いつか聞いた母の声が頭の中に響く。椅子から立ち上がり、シャワーを浴びる、鏡に映る自分の顔がずいぶんとやつれて見えた。人間の顔とはここまで変わるのか、それとも見る目が変わったのか、考えているうちに身体中が暖かいシャワーに包まれ、思考がまとまらなくなっていく。衝撃だった、本来は祝福するべきなのにもかかわらず、衝撃以外の感情が沸かない。それは婚約の告知が急だっただけじゃない。

 濡れた体をタオルで拭き、パンツ姿のままベットに腰掛ける。壁の時計は九時を少し回っていた。仕事には確実に遅刻してしまう。自分の仕事にはある程度自由があるとは言え、流石に無断欠勤をすれば何かと面倒なことになる。PCの横に置かれたスマホを手に取り、電源を点けるとおそらく大輔からであろうメールが届いていることが画面に表示される。

 それを見ないようにし、会社に遅刻する旨を伝えるメールを送信した。メールを送ってしまうと、気が抜けたのか睡魔が再び忍び寄る。キッチンでお湯を沸かし、珈琲を作る。暖かい珈琲を啜ると、胃の辺りがじんわりと温まる、そして部屋の中がずいぶんと冷え込んでいることに気づく。クローゼットを開け、ズボンを履きシャツとコートを羽織ると、コップに残った珈琲をシンクに流し、玄関へと向かった。外へ出ると、陽の光がずいぶんと明るく思わず目を閉じる。後頭部にズキンとした痛みが響いてため息が出る。そのまま電車に乗り、新横浜の会社へと向かう。車窓から差し込む日差しに耐えられず、目を閉じている内に眠ってしまった。

「次は新横浜、新横浜」

 うっすらと目を開けると、ぼんやりとした目覚めと共に車内アナウンスの声が耳に入る。反射的に座っていた椅子から立ち上がり、ドアの前へ向かう。通勤や通学の時間から離れていて助かった、いきなり椅子から立ち上がるような危険な男だと思われずに済む。優先席に座りこちらを見つめる老婆に軽く会釈をすると、開いたドアから逃げるように電車を降りた。

 オフィスに着いたのは十一時の事だった、ビルの自動ドアを潜ると受付の女性がこちらを見つめ、口を開く。

「村井さん、遅刻ですか?」

「あぁ、ちょっと朝から体調が悪くてね、でももう大丈夫」

私はいかにもな笑顔を浮かべながら、そう言った。もちろん作り笑顔だ。

「確かに体調が悪そうな顔してますね、急に寒くなりましたから無理はしないほうがいいですよ」

「そうだね、気をつけるよ」

体調が悪そうな顔だったのか、受付を通り過ぎ、エレベーターに乗り込むと鏡で自分の顔を見つめた。大輔ならこの顔のことを不景気そうな顔というだろうな。私はそう思い、二階のボタンを押した。しばらく自分の顔を手で触って確かめた。不景気なんてもんじゃない、少なくともリーマンショックを笑えるくらい絶望的な顔だろう。

 エレベーターを降り、自席へ着くとコートを脱ぎ、椅子に掛けた。そのまま上司の元へと向かう。

「申し訳ありません、朝から体調を崩してしまいまして、ただいま出社いたしました」

上司はモニターから目を離し、こちらを向く。

「おぉ、珍しいな、村井が遅刻なんて」

そう言って笑っている、普段から時間に気をつけているおかげで助かった。

「今日は打ち合わせの予定もないので、以前式を担当した田中様の対応を行いますね」

ウエディングデザイナーは結婚式だけでは無く、式後に感想や不満点を聞き、改善することも仕事の内だ。担当した夫婦の友人や、不幸な事に二度目の式を挙げる際にまた当社を選んでいただけるように根回しすることも業務の内だ。

「いや、十三時から打ち合わせが入っているだろ、川口大輔さんと木暮美咲さんだ。体調が悪いなら別の奴を当てるが」

「そうでした、すみません。遅刻するのが初めてなもので焦っているみたいです」

昨日の自分はこんなにも無責任なのか、ダウンしたボクサーの頭に蹴りを入れるようなものだ。とっくにカウントは十を回っている。

「まぁ体調には気を付けろ、季節の変わり目だからな」

私は頭を下げ、上司の元を離れた。この頭痛は少なくとも季節の変わり目がもたらすものではないだろう。

 自分の席に戻ったはいいものの、どうしても考えがまとまらない。幸せに関わる仕事をしている人間がこんな顔をしているとは何とも皮肉な話だろう。デスクからイヤホンを取り出すと、自身のスマホのプレイリストを再生し目を閉じる。イヤホンの奥から、ジョンレノンが助けてくれと叫んでいる。助けて欲しいのはこっちの方だと思うと少しだけ、憂鬱な気分が晴れたような気がした。

 腕時計が十二時四十五分を少し回った。私は打ち合わせのために、設けられた部屋で二人を待っている。しきりに腕時計を確認しているせいなのか、さっきから少しも秒針が進んでいない気がする。何故こんな事になるのだろうか。私は木暮との出会いについて、思い出す事で少しでも時間を潰そうと考えた。

 私と大輔は、大学構内の空き教室に向かい合って座っていた。

「お前に合わせたい奴がいるんだ、それも中々美人だぞ」

合流したのはほんの五分前だ、まだ座ったばかりだと言うのに、大輔の行動は予想ができない。

「美人ってのは君から見てだろう、残念だけど僕と君は感性が合わないって結論が出てるじゃないか」

私はため息まじりに答えた。以前から私と大輔の間でこのような話題が上がったことはあった、その全てが大輔から話始めたものだった。そしてその全ての会話において、私と大輔の意見は見事に食い違っていた。その都度大輔は私を説得するのだが、不毛だと気付いたのか、我々の間で異性に関する話は上らなくなっていたはずだった。

「まぁ美人かどうか、見ればお前にもわかるはずだ」

 そう言うと大輔は立ち上がる、その背中を追うように私も立ち上がり、教室を後にした。教室棟を抜け外に出ると、強い日差しが私を照らす。まだ初夏だと言うのにコンクリートで作らえた地面からはむせ返るような熱気が立ち込める。ジャケットを着てきたのは失敗だった。私は額を流れる汗を手で拭いながらそう思った。

「で?その美人とはどこで待ち合わせしてるんだ?」

この暑さの中で汗一つかいていない背中に私がそう言うと、大輔はこちらを振り返らずに答えた。

「八王子の駅前に居酒屋があったろ、そこに亜美が連れてくる」

「まだ日が高いぞ、僕は飲まないからな」

そう答えながらも、ジョッキに注がれたビールを想像してしまい、思わず唾を飲み込んだ。

「お前はわかってないな、昼間から酒を飲めるのは大学生の特権なんだよ」

大輔はそう言って笑う。我々は改札を抜け、ホームでしばらく電車を待った。

「大体、亜美さんが来るなら現地集合でよかったじゃないか、そうすればこんな暑い中、男二人で歩かなくても済んだのに」

私はホームのベンチに座りながら地面を見つめそう言った。

「メールじゃお前は来ないだろ、課題があるとかすぐつまらんことを言いやがる」

「課題が残ってるのは本当の事だ、それにそんな断り方した事ないだろ」

ふんと鼻を鳴らし、大輔は私の隣に腰を下ろす。電車はまだ来ないらしい。

「お前に少しでも友達を作って欲しいんだよ、余計なお世話かもしれないがな」

「僕にはお前と亜美さんの二人がいれば十分なんだよ」

「そう言うと思ったよ」

大輔は背もたれに体重を掛け、しばらく黙っていた。私が言った言葉は本心だった、高校では勉強に明け暮れて、まともに友人と遊んだことなどなかった。まぁそれは家庭環境のせいであったことも否めない。

 汗が滴となって、コンクリートに染みを作った。既にジャケットを脱ぎ、シャツだけになって大分涼しくなったと思ったがそうではないらしい。大輔は大学を出た時と変わらず汗をかいていないように見える。そこに電車の到着を告げるアナウンスが流れた。我々が立ち上がるのと同時に、電車はホームへと侵入する。その風が酷く心地よく感じた。

「生き返るな」

電車内の冷房は、暑くなった体を冷やしてくれる。私も声には出さなかったが思わず息を吐いた。ドアが閉まると電車はゆっくりと走り始めた。

「その美人の名前は何て言うんだ?、流石に自己紹介から始めるのは時間がかかるだろ」

「会ってからのお楽しみじゃだめか?」

「だめだ、なるべくストレスを感じたくない」

大輔はやれやれと言った様子で首を振ると、ゆっくりと答えた。

「木暮美咲、木材の木に日暮れの暮、美しく咲くで木暮美咲だ」

名前負けしないといいなと思いながらも、私は頭の中で、その名の通り両親から美しく咲けるよう庇護された女性の様子を思い浮かべた。

「名前負けしそうだとか考えてるだろ、お前」

図星を突かれた。こんな時ばかり大輔の勘は鋭い。

「まぁそんなところかな」私は掠れた声でそう答えた。

 我々は電車を降り、駅前の居酒屋へと向かった。そしてとうとう噂の美人とご対面という訳だった。

「そんなに緊張すんなよ」

大輔が雑居ビルの階段を上がりながら、私の脇を小突く。

そして居酒屋の自動ドアを通り、私を見つけた店員に待ち合わせだと告げる。

この居酒屋は四人用の小さい部屋がいくつも置かれている店舗で、私には亜美たちがわからなかった。

「こっちだ、逃げるなよ」

そう言って大輔はどんどん店の奥へと進んでいく。そしてある部屋の前で立ち止まった。大輔は指で私に入るよう合図を送る。私はため息をつくと、襖を開け、部屋の中へと入っていった。

 部屋に入ると、私の目には亜美と女性が向かい合って座っている様子が映る。そして亜美の隣に腰を下ろした。

「あなた達は時計が読めないの?、それとも算数ができないのかしら」

私の隣で亜美が煙草の煙を吐きながら、悪態をついた。

「悪かったよ、村井が美人がいるって言ったら緊張しちゃってさ」

美人。おそらく彼女が木暮だろう。その隣に大輔が腰を下ろしながらそう答えた。

「悪いと思ってないでしょ、なら謝らないで」

亜美の手前に置かれた灰皿からは、私たちが遅れた時間を示すように灰殻が置かれている。そして木暮だと思われる女性はおろおろした様子で大輔と私の顔を見ている。

「亜美さん、僕の名誉の為に言っておくけど急に大輔に呼ばれたんだ。待ち合わせ時間すら知らなかった」

亜美が私の顔を見つめ、何かを言おうとしたところで、部屋に店員が入ってくる。店員に大輔が生ビールを二杯頼むと、愛想のいい笑顔を見せた。

「僕は飲まないって言ったろ、勝手に頼むなよ」私は大輔を睨んだ。

「村井、あんた遅れてきたくせに飲まないつもり?」

大輔が答えるよりも早く、亜美が私を睨む。ここに来るまでに熱くなったはずなのに、首筋にうっすらと寒さを感じた。

「わかったよ。でも一杯だけ、まだ日も高いし僕には課題が残ってるんだ」

私は手を上げ、降参の意を示した。そして一呼吸おくと、ポケットから煙草を取り出し、加える。

「あなたが村井さんですか?大輔さんと亜美から話は聞いています」

その声を聞いて、私は木暮と呼ばれる女性の顔を見る。どうやら名前負けはしていない、そう思えるほど彼女の顔は美人に見えた。

「あぁ僕がその村井です。亜美さんはともかく大輔から聞いた話は信用しないでください。こいつは僕のことを誇張して話すから」

私がそういうと、彼女は口を押させて笑った。美人が笑うと顔が崩れるというが、彼女にはそれは当てはまらないらしい。

「じゃああの話も嘘ですか?、村井さんが一晩で百人の女性をナンパしたって話」

「僕はそんなに社交的じゃない。そして百人の女性を相手するには僕には足らなすぎる」

彼女は首を傾げる、うまく伝わらなかったんだろうか。

「足りない?」彼女は教師に質問するかのようにそう言った。

「そりゃ美咲ちゃんアレに決まってるだろ」

大輔がそう言いかけたところで顔をしかめた。机の下で亜美が大輔の脛を蹴っ飛ばしたらしい。

「美咲、こいつらは変人だからまともに相手したら駄目」

悶絶する大輔の様子がおかしいのか、彼女はまた笑い始めた。

「私は木暮美咲です。名前の漢字はー」

「木材の木に日暮れの暮、美しく咲くって感じかな」

私がそういうと、彼女は大袈裟に驚いた様子を見せた。

「どうしてわかったんですか?」

「エスパー、って訳じゃない。ここに来る前に大輔に聞いたんだ」

そう言って私は、ちらりと大輔の方を見る。大輔は満足げな顔をしている。

「こいつさ、今はこんな余裕そうに話しているけど美人が来るって言ったら、ビビって逃げようとしたんだぜ」

「美人だ何て、亜美の方が美人ですよ。ね?」

そう言って木暮は亜美の方へ視線を向ける。私は大輔の軽口を恨んだ。しかし大輔はどこに吹く風と言った様子で、ジョッキを持ち上げ、ビールを飲んでいる。

「亜美さんも木暮さんも、僕からしたらどっちも美人だよ」

私は地雷原を歩く様に、ゆっくりとそう言って、灰皿に置かれた吸いかけの煙草に視線を移した。

「いや、亜美には可愛げがないからな、俺は美人とは言いたくないね」

大輔はそう言って、ジョッキを机に置いた。どうやら慎重になっていたの私だけのようだ。大輔は口笛を吹きながら地雷原でタップダンスを踊っている、爆発したらこっちにまで飛び火が来ることを理解して欲しい。

「まぁ、確かに私は美人じゃないかもね、あんたの顔が残念なのと一緒よ」

「おいおい、悔しいからって人を蔑むのは内面を疑われるぞ、俺は自他共に認める美男子さ、村井もそう思うだろ?」

素直な感想を言わしてもらえれば、大輔の顔は美男子の部類に入ると私は思う、少なくとも私の顔に比べたらの話だが。

「そういうのは女性が判断するものだと思うけど。僕は生憎、男の顔を判別する審美眼は持ち合わせちゃいない」

煙草を灰皿に押し付けながら、私はそう答えた。頼むから会話の内容を変えて欲しい、切にそう願う。

「まぁ人の価値なんて、顔じゃ決まりませんよ、私はそう思います」

木暮がそう言って、大輔と亜美の顔を交互に見ている。

「そうだ。僕もその意見には賛成だ。会話の内容を変えよう、大輔も亜美さんもそれでいいだろ?」

二人はうなづいたが、その間にはまるで冷戦の様な緊張の糸が張られている。そして居酒屋の雰囲気にそぐわない様な重たい空気が我々四人の間を支配した。

「村井さんは映画がお好きなんですよね、私も好きなんですよ」

 重たい空気を察したのか、木暮は話題を変えようと、すがる様な視線を私に向けた。確かに映画を見るのは好きだが、私はそれを他人と共有することに価値を感じない。だがこの場でこんなことを言えばキューバ危機が起こる、それは回避しなくてはいけない。世界平和の為ではなく、我々四人の為に。

「そうだね、僕は映画が好きだよ、木暮さんの好きな作品が知りたいな」

大輔の視線が刺さる、もっと気の利いた返答をしろと言いたいのがその視線からよく伝わる。だがそれは無理な相談だ。初対面の女性と気の利いた会話ができるのはスクリーンと小説の主人公だと相場で決まっている。生憎私は主人公ではない。

「うーん、パッと思いつくのはファイトクラブとカッコーの巣の上で、ですかね」

思わず声が出そうになるのを私は抑えた。てっきり女性はプラダを着た悪魔やマンマ・ミーアを好きな作品に挙げるものだと思っていた。どうやら木暮は少し違うらしい。

「俺はてっきり、プラダを着た悪魔とかが好きなんだと思っていたよ」

私が考えていたことをそっくりそのまま大輔が口にしたので、私は何も話せないでいた。

「もちろんそういった映画も好きですよ、でも大好きってなると違うかな」

「難しいもんだね、俺は300だったりグラディエーターだったり、男が好きそうな映画が大好きだから楽でいいよ」

「あんたは図体に見合わず感性が子供のままなのよ。それでカメラマンを気取るのはよしたら?」相変わらず亜美の意見は手厳しい。

「世界を子供みたいにまっすぐ見ることが大事なんだ、村井みたいにひねくれてちゃ面白くないだろ?」

急に会話を回されたので、顔が熱くなる。緊張からアルコールを飲み過ぎたせいだろうか。

「ひねくれてる訳じゃない、感情をあまり表に出さないだけだ」

やっとひねり出したその一言を言い終わると、目の前に置かれたジョッキを持ち上げ、ビールを流し込んだ。ジョッキの中のビールは既にぬるくなっていて、ただ苦いだけだった。

 それから大輔が酔い潰れ、居酒屋の店先で苦痛の顔を浮かべながら、嘔吐を繰り返す様になるまで、我々は映画と将来に関する話を続けた。幸いなことに第三次世界大戦は起こらなかった。

「じゃ、このアホは私がタクシーで帰らせるから、木暮と村井は先に帰りな」

地面は見るのを憚られる様な有様だった。居酒屋の中では上機嫌だった男は四つん這いになり、こちらに向かって言葉にならない様な声をあげている。

「流石に亜美さんに申し訳ないよ、せめてタクシーに乗るまで付き添わせてくれないか」

亜美は私の方を見ると、首を横に降った。

「いいの。その気遣いだけで十分、それよりあんたは木暮を無事に家に帰してあげな」

これ以上引き下がっても、亜美が意見を変えないことを私は知っていた。彼女は一度決めたことはなんとしてでも翻さない、強い女性というのは彼女のことを言うのだろうと私は尊敬の意を込めて彼女をさん付けしている。そのことはもちろん彼女へは伝えていない。

「わかった、木暮さんはちゃんと家まで送り届けるよ」

私がそう言うと、亜美は四つん這いになった大輔の肩に手を回し立たせ、タクシー乗り場へと歩き始めていた。そして右手を挙げ、こちらに手を降っていた。大輔はこちらに向け、なんだかよくわからないことを口走っていた。

「大輔さん大丈夫ですかね」

木暮が不安そうに、私を見上げてくる。座っていると気がつかなかったが彼女と私ではずいぶんと身長差があった。

「あいつは楽しくなるといつもああなるんだ。平気だよ。明日には何もなかった様な顔をしているはずだ」

 そう言って私たち二人は駅までの道を歩いた。大学を出た時は恨めしく感じた太陽はすっかりその姿を隠してしまい、ジャケットを羽織っていても肌寒く感じた。

 それから他愛もない会話をし、彼女の住んでいる町田駅まで電車に揺られた。彼女は最初から最後まで楽しそうな顔をしながら、私との会話を楽しんでいた様に見えた。

「駅からどのくらい歩くんだい?」

電車を降りた後、私はそれとなく木暮に向かってそう聞いた。時刻はまだ十九時であり、深夜ではないが、お酒を飲んだ女性が一人で歩くのだからどのくらい時間がかかるのか聞いておきたかった。

「駅からは十分くらい歩きます。でもここまでで大丈夫ですよ。まだそんなに暗くないし」

私はすぐにでも木暮の提案に乗り、帰りたい衝動にかられ。しかし亜美の言葉がそれを静止した。

「一応君を無事に帰す様に亜美さんに頼まれてる。でも君がいいって言うなら無理強いしないよ」

木暮は私の発言を聞くと、笑いながらこう言った。

「村井さんはいい人ですね。でも本当に大丈夫ですよ。」

当の本人がそう言うのだから、私の役目はここまでだろう。帰って課題をやらなくてはいけないことを考えると早々に踵を返すのが最前だと考えた。

「そうか、そこまで言われたらこっちから言い返す言葉はない、気をつけてね」

それを聞くと、木暮は私に向かって一礼し、改札へと続く階段を登って行く人混みの中へとその姿を隠した。私は誰も待っていない家に向かう帰路へ着いた。

 そうだった。木暮とはこんな形で出会うことになったのだと、私は一人思い出していた。今思えば、あの時大輔の誘いに乗らずに木暮と出会わなければ、今の様な現状にはならなかったはずだろう。そんなことを考えていると、ドアをノックする音が私の意識を現現実へと引き戻した。

「村井さん、川口さんがいらしたのでご案内してよろしいですか?」

「あぁ、お願いします」

ドアを開けた女性社員は私の返答を聞くと、静かにドアを閉めた。あの女性を何度か見かけているはずだがどうにも名前を思い出せない。それかそもそも興味がないから覚えていないだけだろうか。

「おう、大将やってる?」

そんな第一声と共に大輔がドアを開け、部屋に入ってくる。後ろにいる女性社員の名前はやはり思い出せない。

「川口様、お待ちしておりました、本日木暮様はご一緒ではないのでしょうか」

私は大輔の発言を無視し、あくまで仕事として対応した、名前も知らない女性社員に顧客と友人関係であることが露見するとろくなことがない。

「美咲は病院に行ってんだ、なんか体調が悪いみたいでな」

大輔は椅子に座りながらそう言った。私は横目で女性社員がドアを閉めることを確認すると、緊張を解いた。

「季節の変わり目ですからね、川口様も体調にはお気をつけてください」

何故、今日何度もこの言葉を言われたか、私は理解した様な気がした。この言葉は確かに使いやすい。そして大輔の顔に幾分か活力が無いよう見えた。

「あの人、ずいぶんと美人だな。名前なんて言うんだ?」

おそらく、あの女性社員のことを指しているのだろう、生憎私は美人だと思ったことはない。やはり大輔とは趣味が合わない。多少なりとも歳を取ったがそこは変わらないのだろう。

「さぁ、なんて名前だったかな。興味があるなら今度聞いておく」

私が口調を崩すと、大輔は口角を上げ、安堵した様な顔した。

「なんだよ、あの態度。仕事中の村井さんはいつもあんな感じか?」

「一応こっちは仕事だからね、お前と友達だってことも伏せてる」

「美咲もだろ。まぁそんな細かいことはいいや、式のことで相談に乗ってくれるんだろ?」

木暮の名前が出なかったのは無意識だった。私は彼女を友人だと認めたことはない、だがそのことを大輔にも亜美にも話していない。

「もちろん、それが僕の仕事だ。まずは式の日程から決めて行こうか」

昨日のことには触れなかった。それは大輔も同じだった。ただ大輔を目の前にしていると今朝から続いていた頭痛もどこか遠くへと消えていった。

 それから私たちは式について、2時間程度話し合ったが、肝心なことは新婦となる木暮がいなくては決めることができなかった。ただ大輔は私が提案する事を、熱心に持ってきた手帳へと書き記している。

「まぁ、後は新婦がこないとどうにも進められないな」

「そうだな、悪い。あいつ朝から吐いちゃって、俺が病院に行く様に言ったんだ」

木暮と初めて会った時は逆だったと私は思った。そして逆で良かったと心から思う。木暮と二人で話をすることは私には耐えられない。

「謝らなくていい、次来れる日程が決まったら連絡してくれ」

 そして大輔を出口まで送ろうとした時に、大輔が一服しないかと私に提案してきた。断る理由も無かったので私たちは会社の裏手まで歩いた。

「決めることが多くて嫌になってくるな、ああゆうのは普通嫁さんがバシッと決めるもんじゃないのか?」

大輔は煙草を咥え、何度もライターの火を着けようと、カチカチと音を立てている。それを見かねた私は自分のライターを差し出した。

「大体は新婦が八割、新郎が二割ってところかな。やっぱり結婚式と言うのは女性の憧れってところが大きいみたいだ」

「だよな。俺は精々、喫煙可能で旨い酒と仲の良い連中がいてくれれば居酒屋だって構わないからな」

「そいうのは二次会でやるんだな。そもそも式場は禁煙だし」

大輔はそうだなと言い、煙を吐くと記憶を探る様に火種をくるくると回し話始めた。

「大学二年の時に四人で行った旅行、ああゆうのが良いんだ」

私はそれを聞いて、それを思い出すことはできなかった。しばらく煙を吸いながら記憶を探るが、やはり思い出せない。

「確かに、ああいった形でもいいかもしれない」

嘘をついた。思い出すためには、今日はずいぶんと頭が重すぎる。

「あ、そうだ。これをお前に渡しておこうかと思ってな、木暮が式で使えるんじゃないかって」

そういうと大輔は、胸ポケットから何やら茶封筒を取り出した。見る限りずいぶんと厚みがあり、一瞬現金かと目を疑った。

「金じゃないぞ、でももしかしたら金よりももっと価値のあるものかもな」

そして差し出された茶封筒を受け取り、中身を見る。そこには大量の写真が束になって入っていた。

「カメラマン川口大輔の作品って訳か。ずいぶんな量だね」

「大学時代の写真はほぼあると思う、なんかに使えるか?」

私はしばらく考えたのち、しかるべき回答を見出した。

「新郎新婦の思い出みたいな題目で、スライドを作るならこれは使えるよ。やりたいなら専門の業者にお願いしようか。どうする?」

私の提案に対して、大輔は否定的だった。

「どうせならお前に作って欲しいな。できるか?」

「まぁできないことはない、ただプロに比べたら雲泥の差になる」

「それで良いのさ、少なくとも写真はプロだからな。イーブンだろ」

大輔は笑った拍子に咳き込み始めた、初めは煙のせいだと思ったが、それにしてはずいぶんと長すぎる。私は咥えていた煙草を落とし、靴で火を消すと、大輔の肩を掴んだ。

「平気か?」

私が呼びかけると、しばらく咳き込んだのち私の腕を掴み、呼吸を整えた。

「悪いな。あいつの風邪でもうつったかな」

「それにしてはずいぶんと長かったな、平気なのか?」

大輔の目がほのかに充血している。それにずいぶんと呼吸が荒い、まるで百メートルを今さっき走破したかの様だ。

「平気だって、お前も美咲も心配しすぎだ。俺はそんなにヤワじゃない」

私の心配が杞憂で済めば良いと強く思った。ただ大輔が人に弱さを見せることを何よりも嫌っていることを私は知っていた。これ以上追求はできない。

「なんかシケちまったな。俺は帰るよ、仕事頑張ってな」

そう言って大輔は駅に向かって歩き始めた。私は引き止めることもせず、ポケットからもう一本煙草を取り出し、ライターを擦って火を点けた。

「ありがとう、何かあったら連絡して欲しい、式のこと以外でも」

煙と共にその言葉を大輔の背中に向かって言った。こちらに手を振りながら歩き去って行く大輔の背中が見えなくなってもしばらく、その方向を見ながら煙草を吸った。二本目の煙草はいつも以上に喉を刺激したような気がした。

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