単語、のちに物語

一日二十日

インビジブル

 インビジブル【invisible】

 目に見えないさま。不可視的。goo国語辞書より引用。

 

 その意味を知った時、俺はそれになりたかったのだと気付いた。

 二十一歳、大学四年生。俺は人生の岐路に立たされていた。

 御察しの通り、就職活動である。

 俺という人材は社会でどう見られるのか。

 なんとなくで決めた大学をなんとなく過ごし、いやまあもちろん、それなりに努力したし辛いことも乗り越えたし、やれることは全力でやってきたつもりだ。けれどまあ、何か成果を残せたかと言われるとアレだ。やはり、なんとなく過ごしてしまったのだろうとは思う。

 夢も目標もなかった高校生。担任から大学に行ってみたら何かやりたいことが見つかるかもしれないと言われ、奨学金を貰ってまで大学に行ってみた。しかし、結果はこのざまだ。あの時の担任にも親にも将来の自分にも申し訳なく思う。

 結局俺はその程度だったのだな、と思うしかない。

 別に、自分を卑下しているわけでも見放しているわけでもない。ただ純粋に、客観的に、そう思うのだ。

 だから、余計に苦しい。

 よく耳にする。

 社会で結果を出した人たちは、諦めなかったことが結果に繋がったとか、気持ちを保てたから走れた、みたいなことを言っている気がする。それは確かにそうなのだろうし、俺もそれには賛成だ。美しいことだと思うし、尊敬だってする。

 だって俺には、それができないから。

 だってもう、自分にそれができないことを知ってしまっているのだ。どれほど才能があっても、きっと俺は続けることができない。気持ちを持ち続けられない。

 自分の器というものをよく知りすぎてしまっている。あるいは、限界というものなのだろうか。それを超えようとする力を持っていない。

 だから、見切りをつけてしまう。

 身分相応の見切りだ。

 高くもなく低くもない、俺にぴったりの見切りがつけられてしまう。

 自分自身で。

 なんというか、なんなんだろう。

 凡人すぎて言葉にできない。

 別に他人と比べて何が劣っているとか優っているとかもない。人ができることは大抵できるし、人ができないことは普通にできない。

 平凡。 

 よく言われた。

 けれど俺は、そうは思わない。

 だって俺の周りにいて平凡と呼ばれている人間は、俺のようなやつじゃない。何かで輝いている。人柄とか、忍耐強さとか集中できる人とか、本当に小さなことだけどふとした瞬間に役立つことができる人たちだ。

 けれど、俺は違う。

 自慢じゃないが俺はそんなに優しい人じゃない。道端で子どもが泣いていても可哀想だと思いながら素通りする。忍耐強さや集中力もない。レポートに向かって十五分もすればネットニュースを見ている。

 空っぽだ。

 俺という土壌は、死んでいる。

 土が良くなければ作物は育たないという。死んでいる土では栄養が足りなくて、作物は実りはしない。

 だから俺は、何もない。

 何か才能とか、才能じゃないにしろそういう、誰かと並んで違う色味を出せるくらいの能力があれば小さな実くらい実ったのかもしれない。けれど、俺という死んだ土壌にはそんなもの、永遠に実らないのだ。

 ない。

 ゼロだ。

 ゼロからは何も生まれない。

 そんな俺がこの先、就職活動で何ができるのか。

 求められるわけがない。

 いい大学を出ているわけでもない。大した資格も持っていない。人として秀でたものを持っているわけではない。平凡に服を着せて、そこから色味を無くしてしまったような人間が、この先どうやって戦えばいいのか。いや、俺のことだから戦いはしないのだろう。勝手に逃げて、勝手に負けたことにして、恨み言を吐く。

 社会から見れば俺のような人間は、いてもいなくても変わらない。

 だから俺は、インビジブルになりたい。

 見えない。

 見られない。

 透明に。

 誰からも見えなければどれだけ楽だろう。何をしても、どんな風に生きていても何も言われない。気づかれないのだから。口を出せるはずもない。だって俺の存在は見えないのだから。

 誰にも。

 自分自身にもだ。

 鏡に自分の姿が映らないというのは、どういう気分なのだろう。不思議な感覚だろう、少し怖いかもしれない。

 けれど、それを知っているのも自分だけだ。自分だけが鏡に映らない自分のことを知っている。なんだか面白くなってきた。

 消えてしまいたいとは常々思ってきたのだ。

 死にたいと思っていて、でもそれはできなかった。だって、死ぬのって怖いから。それに、こんな息子でも親は一応悲しがってくれる気がする。俺は親のことは嫌いじゃない。支えてくれている。その彼らが傷つくのは少々心が痛む。それに、どうせ死ぬことなんてできはしない。だって俺は平凡だから。平凡な人が、簡単に死を決断できるはずもない。だから死ねなかった。

 死ねないとなると、俺は他の選択肢を考えた。こんなことを考えている暇があるなら資格の一つでもとってみろという正論は今必要ではない。

 そこでたどり着いたのが、消えることだった。

 今まで自分が歩んできた道筋とこれから自分が歩くはずの道を全部消すことができたのなら、どれほどいいだろうか。そうすれば親が悲しむことはない。だって、俺のいた痕跡はどこにもないのだから。初めから俺はこの世にいない。元々いないものがいなくなったところで、なんの支障もない。

 けれど一つ問題があった。これは現実的ではないところだ。こんなもの、猫型ロボットがいる次元でしか解決のしようがないのだ。

 だから俺は白い天井をぼーっと見上げて、そして飽きたように眠った。平凡すぎる人間は、それ以上考えることもできない。

 消えたい。

 消えたいのだ。

 俺は。

 この世界から消えたい。

 俺という人間がいた痕跡も、肉体そのものも全部消してしまいたい。自分の中の記憶も消していい。一方的に覚えているのもまた苦痛だ。

 インビジブル。

 目に見えないさま。不可視的。

 見えないなら、ないのと同じだ。

 きっと俺は、見えないのだろうと思う。

 これから受ける数々の面接の中、俺は膨大な数の人の中に埋もれて見えなくなる。それで不合格の通知だけ貰って、人並みに憂うのだ。

 だから見えない。

 あまりにも普通すぎて、見えない。

 だとしたら俺はもう一丁前にインビジブルだ。

 社会の入り口である面接官たちの目に俺は映らない。見えていない。見えない。

 いないのと一緒だ。

 消えてしまいたい。

 その願いは意外と叶っていたのかもしれない。

 今更手を伸ばしたいと思った。もしかしたら今からでも遅くないと思って、チャンスとか限界とかに手を伸ばそうとした。

 それもまた平凡すぎて。

 履歴書。

 未記入の履歴書が目の前にある。

 未記入の履歴書には誰もいない。

 いない。

 見えない。

 インビジブルだ。

 このままでいたい。

 けれどそれもできず、俺は手頃なペンで名前を書いた。

 ああやっぱり、俺はインビジブルになんてなれないのだ。

 結局、そんな覚悟もないほどに自分は。

 平凡だ。

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