耳の奥には

よしお冬子

耳の奥には

『一か月は耳かき禁止ですからね、くれぐれも注意してくださいよ』

『はぁ…』

 医者にきつく注意され、俺は頷くしかなかった。医者の後ろで若い看護師が苦笑いしている。

元々耳かきは綿棒派だった俺だが、ある日綿棒がたまたま切れていた時に、

『大学生にもなって耳かきも使えないの?』

と、母から耳かきを投げつけられたことがそもそもの始まりである。

 最初は耳かきの後ろについているふさふさ、梵天と言うのだが、それで何とかしようとした。ふわふわと気持ちはいいが、すっきりしない。いよいよ覚悟を決めて、耳かき本体で恐る恐る掃除を始めた。

『…な、なんだこの、かすかに痛いような、くすぐったいような、それでいて心地よい感覚は…!!』

開眼しちゃったのである。

 以降は、より良い快感を求めて様々な耳かきにトライし、あるいはコレクションし、暇さえあれば耳の穴をかきかきかきかきかきかきかきかき…。

 そりゃ外耳道炎にもなろうというものである。

 帰宅し、勢いよく2階の俺の部屋へと駆けあがった。1階から母が何か怒鳴っているがそれどころではない。早く、早くしないと。

 早く耳かきを封印してしまわなければ。もう既に俺は、耳かきがしたくてしたくて仕方なかったのだから。

 机の上にある耳かき数本を、ルーズリーフで何重にも包み、その上からガムテープをギッチギチに巻いた。

 その勢いのままに、シュターン!と押入れの襖を開け、

『アデュー!マイ…えっと…耳かき!』

と、別れの言葉と同時に封印されし耳かきを奥の方へ投げ入れた。

 押入れの襖を閉め、しばらくは永遠の別れとなった我がマイスイート耳かきを思って惜別の涙を流したり…する間もなく、

『うおおおおおおおおお!耳かき!耳かきがしたいいいいいいいい!』

俺は悶絶した。のたうち回った。我慢しなくてはと思えば思うほど、耳かきへの欲望が膨れ上がる。駄目だ、このままでは…!

『そ、そうだ、こんな時は、別のものに集中すれば…!』

 俺は買ったきり、まだプレイしていなかったゲームを始めることにした。誰もが懐かしむ、古き良き王道ファンタジーRPG!というキャッチコピーである。

 早速スイッチを入れた。俺は勇者で、王様の前で跪いていた。お姫様が魔物に攫われたから助けてくれという。ベタだが安心感のある展開である。

 すると大臣みたいな男が、王様の元に駆け寄って言った。

『王様、実は、お耳に入れておきたいことが…』

・・・。

・・・・・・・・・。

『うおおおおおおおおおおーーーー!俺も耳かきをお耳に入れてえええええええーーーーーっ!!!』

七転八倒だ。

さっきまで忘れていた分、凄まじい揺り返し、リバウンドであった。

駄目だ、駄目だ。こんなことで挫けては駄目だ!

毒にも薬にもならないワイドショーでも観て、心を穏やかに保とう…。

良さそうな番組を探す。すると可愛いリポーターが、とある田舎町を紹介していた。

『えーと、こちらはこの村一番のご長寿だとか!いやーお元気ですねー!』

彼女がマイクを向けたその老人。老人の耳からはあり得ないほど耳毛が生えていた。

『うおおおおおおおおおおおーーーー!なんだそのふざけた耳毛は!見てるだけで痒い!痒いわああああああああああああああ!!!』

限界だ。もう無理だ。俺は我慢ができない男だ。何故無理をしてしまったのか。

ぜえぜえと息を切らし、震える手で押入れを開け、封印されし耳かきを救出した。

ガムテープをガチガチに巻いてしまったことを心底後悔した。ハサミとカッターで挌闘し、いよいよ愛するマイスイート耳かきと再会した時。

『ごめんよ!ごめんよ!もう離さない!』

俺は心から愛を誓い、頬ずりをし、そしてそっと右耳に入れた。

『ああ…これよこれ…たまらない…!そう言えばお腹すいたな…お昼はこの、ゴージャスでブリリアントな気分にジャストフィットなステーキを食べたいな…無理だけど…焼き具合はミディアムレアで…!』

ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、快感に浸っていると、もう耳垢などこれっぽっちの残っていないはずの耳の奥に、何かが引っかかった。

おそるおそる、ずずずっと引きずり出してみると…。

『えええええーーーー?』

目の前にゴトリと、ホカホカと湯気を立てる、ステーキが出て来たのである。

ご丁寧にフォークナイフ付きで。

『ああ…慣れない我慢なんてするから、とうとう頭が…。』

目の前のステーキはジュージュー言いながら、美味しそうな匂いを漂わせている。

『…せっかくの幻覚なら、一口だけ、味わってみるか…。』

その一口だけで、口腔内から全身に広がり突き抜けるような感動。美味しい。なんだこれ本当に肉か。俺の知ってる肉と違う。いや幻覚だけど。柔らかいがほどよい歯ごたえがあり、肉の甘味、とろける脂身、この世にこんなに美味い肉があるのかと思うほどの美味しさだった。いや幻覚だけども。

俺はじっくり味わい無事完食し、非常に満足した。腹をさすってみると、しっかり膨らんでいる。ゲップをすれば胃から上がって来るニンニクの香り。

『幻覚じゃなかった…?』

想像しながら耳かきをすれば、それが出て来る…?

 試しに他の物を出してみようと、俺はいらぬ好奇心を発揮し始めた。食べ物だけなんだろうか。例えば…人はどうだろう?

 同級生に一人、目立つ美人がいた。芸能界にもスカウトされたという噂で、先日の学園祭の女王にも圧倒的人気で選ばれ、ちょっとした有名人だった。

 彼女を想像しながら、耳かきを始める。

『・・・かかった!』

えいやっと右耳からそれを引きずり出すと、部屋の畳の上にゴロリと音を立てて、件の同級生が転がり落ちた。

彼女はきょろきょろとあたりを見渡し、それから俺の顔をぼんやりと見つめて言った。

『なにこれ。』

『あ、いや、その…。』

どう説明したものか口ごもっていると、彼女の表情がみるみる険しくなり、青くなったり赤くなったりしたかと思うと、腹の底から響くような、ドスの効いた声で怒鳴った。

『あ、あんた!さては変な薬嗅がせて私のこと…!誰にも言うなよ!言ったらタダじゃ済まさねーかんな!先輩に頼んでヤキ入れてもらうかんな!だいたいてめぇキモいんだよ!二度と近づくんじゃねーぞ!ゴミ!』

ひとしきり怒鳴り散らした後、凄い勢いで部屋を出て行った。

・・・まずい。

俺は我慢できない男だ。この後何を想像し、何を出してしまうかわかったものではない。何とかしないと。

机の上に置いた、診察券を握った。


『君ねぇ…ひやかしで来られても困るんだよね。』

『ホントなんですぅ!耳かきしたら、右耳からステーキと学園祭の女王があああ!』

『あーはいはいじっとしてー。まったく、耳かきは禁止だってあれほど言ったでしょう。』

ブツブツ言いながら、医者が診察台の俺の右耳をのぞき込んだ。

 ――その時。俺は余計なことを考えてしまった。

耳から何かが出せるのなら、逆に何かを入れることもできるんじゃないか…?

 その瞬間、俺の右耳から黒い煙のようなものがもくもくと出てきた。と、思うと、医者のまわりとぐるぐると取り巻き始めた。

『な、なんだこれは!う、うわ、うわあああ…?』

それは竜巻のようになって、医者もろとも、また俺の耳に戻って行った。

入った。耳の中に。わかる。俺の中に彼がいる。

『キャーーーーーーーーーーッ!!』

看護師の悲鳴が診察室に響き渡る。そして電話に手をかけようとしていた。まずい。警察に連絡するつもりか。俺は阻止するために彼女に飛びかかった。

『大丈夫!大丈夫だから!耳かきしたらすぐ出て来るから!』

『いやーーーーっ!離して!誰かーーーっ!』

看護師は俺を全力で突き飛ばした。凄まじい力だった。狭い診察室、診察台だの何だのにぶつかりながら、俺は転倒した。

グシャッ。

右耳から響く鈍い音、激痛。

――確信があった。右耳が潰れた時、あの道も閉ざされてしまった。もう二度と、俺の耳からは何も出て来ない。勿論、先ほど入った医者も…。

診察室には看護師の悲鳴と、俺の慟哭が、俺の耳の奥には医者の絶叫が、むなしく響き続けるのだった。

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耳の奥には よしお冬子 @fuyukofyk

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