対峙
エレベーターがテラスに着くと、二人の目の前には一枚の印象派が広がっていた。天窓から降り注ぐ光が階のように、その高貴な後ろ姿を貫いて、照らしていた。風がないのに、その画面にそよ風を見た。白い木漏れ日のドレスを着たその絵の主人公はその天窓の先を見つめ、佇んでいた。
「紗綾、何かわかりましたか?」
美輝は振り返ると、エレベーターを降りたまま立ち止まる二人を見比べた。舞は、ああ、ここでこれから何が行われるか、よくわかっていないんでしょう。紗綾は、はっきりと自分の役割をわかっている。それで、気丈に振る舞おうとしているのね。美輝は一瞬でそれだけのことを読み取ると、答えを促すように首を傾げた。
「うん。おおよそだけど」
「おおよそ?」
美輝の表情が曇った。それは美輝にとって予想外の言葉であったからだ。しかしその失望の色は一瞬のものであった。代わりに彼女は口元に微笑をうかべた。
「でも、聞かせてもらえるんでしょう」
紗綾はゆっくりとうなずいて、奮い立たせるように肩をすくめた。
「もしも、もしも違うなら、はっきりと違うって言ってほしいんだ」
紗綾はそう言ってチラと美輝の顔色をうかがった。しかし美輝の表情は冷たかった。彼女が顔に微笑みを浮かべたままと知ると、あきらめたように肩を落とした。
「全部、やったのは、美輝じゃ……ないよね?」
美輝は何も答えなかった。不気味な微笑みをたたえたまま、時間が止まっているようにさえ見えた。この無言は紗綾を絶望の淵に追いやる返答であった。
「どうしたの、つづけてくれないの?」
紗綾の目元が震えた。
「私に否定してほしかったの? それとも、何から話せばいいか、まだわからないのかしら? じゃあ私が質問してあげましょうか」
美輝が一歩、紗綾に近づいた。ふいに天窓の明かりから外れた彼女の顔に影が射した。舞が手を握ろうとした。しかし紗綾はそれを振り払った。
「籠塚の密室はどうやって作り上げたというのです? あの部屋は窓から入ることも、正面を切って玄関から入ることも不可能。それは、紗綾。あなたと確認しましたね。それだというのに、どうやって私はあの中に入ったのでしょう。私はどうやって籠塚を殺して、あの部屋を出て来たのでしょう? どうやって、そして、私は鍵を外からかけたのでしょう?」
「いや、美輝はあの部屋に足を一歩も踏み入れずに籠塚を殺したんだ。あたかも犯人があのコテージの中で殺人を犯したかのように、そう見せるために室内の物を壊しただけだ。同じやり方で籠塚を殺した。全ては支配人室の外から行われたんだ」
「どういうことかな? だって、中に入らずに物を壊したり、人を殺したりするなんて、不可能じゃない? 籠塚さんの遺体は窓からも離れたところにあったよね。壁をすり抜けでもしない限り、それは無理じゃないかしら。あ、でも、紗綾は今、私は一歩も部屋に入っていないって言っていましたね。じゃあ、壁抜けじゃあ、ありませんね」
美輝はふいと舞の方を見つめると、微笑みを強調した。
「舞、あなたも現場は見ましたよね。あのような惨状を、部屋に入らずしてどうやって描くのか、想像できます?」
舞が半歩退いた。舞も美輝の否定の言葉を聞きたかったのである。しかし、今彼女たちの前にあるのは、謎を玩び、ともすれば挑むような視線を向ける美輝の姿であった。舞が何も答えないのを悟ると美輝はつまらなさそうに手を広げ、向き直った。
「さあ、どういうことか、あなたのワトソンには見当も付いてないようだけど。ホームズさんはいかがお考えかしら?」
ぐっと紗綾の拳が握られるのを舞は見た。すこし肩が震えている。
「もし、犯人があのコテージに入っていたんだとすると、あの居間の物の壊れ方はおかしいんだ。あの部屋の食器棚、ガラス戸が割れていないのに中の食器が割れている棚を見つけたんだ。わざわざガラス戸を開けて中の食器を割って、またガラス戸を閉めたというの? そんな面倒なものの壊し方をわざわざするかな? テーブルの上にあったあの割れたウイスキーの瓶も同じだよ。どうして底を下にするようにして置いてあったのか。しかもその瓶の底にはウイスキーのこぼれた痕跡もなかった。つまり、犯人はあの瓶をテーブルの上においたまま壊したことになるんだよ。そんなことできるかな? 横から叩き割ったの? もしそうならどうしてその側にあった炭酸の瓶は壊れていなかったんだろう。なんで、こんな不自然なものの壊れ方をしているのかなって、考えて、考えて。思ったんだ。これは偶然なんだって。そう。偶然なんだよ。犯人は部屋の外から中を見ずに、部屋の中のものを壊そうとした。中が見えないから、実際何が壊れたかも判別できない。だからあの不自然な破壊の現場ができたんだ。犯人はガラス戸を開いていなければ、ウイスキーの瓶も触っていない。全部外から、ある方法で偶然破壊されただけなんだよ」
紗綾の手と足は震えていた。美輝の口角は元に戻っていた。つららを突き刺すような目で紗綾のことを見つめていた。紗綾はつばを飲み込むと、もう一度拳を固くした。
「ですから、それが可能なのか。可能ならどのようにして私がやったのか、それを聞いているんですよ」
「可能なんだよ」
「黒崎君に訊いたのね」
紗綾は何も言わずにうなずいた。
「それで、可能というだけで、私が満足すると思って?」
「言わなきゃ、ダメなの?」
「言えないならともかく、言わなければ私は納得しませんよ。それに、せっかく黒崎君が解説してくれたでしょうに、それを答えてあげないのは、彼にも失礼ではないかしら? 舞ももちろん、聞きたいでしょう?」
舞はそれに答えなかった。代わりに、紗綾が大きく息を吸った。
「音波の共振でやったんじゃないかって」
「共振って、あのよく揺れるやつ?」
舞が訊き返すと、紗綾はすこし彼女の方を見返って言葉を継いだ。
「そう。黒崎が言うには世の中のありとあらゆるものは大きさや形、材質で振動しやすい周波数が違うんだって。その振動しやすい周波数の音を当てると、物の振動がどんどん強くなって、しまいには壊れてしまう。瓶には瓶の壊しやすい振動数があって、皿には皿の壊しやすい振動数がある。でもただの音を出しただけじゃうるさくなるし、壁を貫くことはできない。できたとしても壊すほどに強いエネルギーを与えることはできない。だから、人には聞こえない超音波を楕円鏡で反射させたんじゃないかって」
「楕円鏡?」
「楕円っていう図形には焦点という所が二つあるの。片方の焦点から出た光は、全てもう片方の焦点に集まる。そういう性質がある。音も同じ。一つの焦点から出た音波を楕円の面で反射させると、もう片方の焦点に音波を集めることができる。だから、あの支配人室の外に一つ焦点をおいて、そこで音波を出す。その音波を楕円の形をしたモノで反射すれば、部屋の中にある離れたもう一つの焦点に音波が集まる。例えばそこ瓶があれば、瓶が強く振動する。そこにもしも眼があったなら……」
フッと美輝が鼻で笑った。
「でもその道具、今の場合楕円体の構造物かしら。それを私はどうやって用意したというの? いえ、用意はできたとして、そんなもの持ってここにきたら、あなた達にすぐ気づかれてしまいますよね。ということは、私はどこかにそれを隠していたということになる。でも、隠す場所なんてあったかしら?」
「記念館だよ。美輝のお祖父さんの。記念館のアトリエに置いておいたんだ。あそこならいろんな彫刻や立体が置いてあるから、楕円型のオブジェがあっても誰も気にする人はいない。音源装置だって、あの雑然とした中に隠しておけばいい。終わった後は塀の外に捨ててしまえば海の中。そんなところだと思ってる」
「そう。でも、その方法なら誰でも籠塚を殺せることになるよね。それこそ、自殺した桐沢にだって可能でしょう」
「桐沢は自殺したんじゃない。あの首の吊り方も不自然じゃないか。たしかにああすれば少ない力で自分の体を持ち上げることができるよ。でも、あんな面倒なロープの吊るし方をするくらいなら、足場を蹴って首を吊った方が楽だよ。だから自殺はありえない。普通に吊るさなかったのは、あの体格の桐沢を犯人が自分の力じゃ吊り上げることができなかったから。吊り上げるためには、あの吊るし方をするしかなかったんだ。あの吊るし方でなければならないとなれば犯人の体重は自ずと絞れる。犯人は桐沢の体重以下で、その半分以上の体重を持つ人間しかいない」
「桐沢の体重は八十六キロあるのよ。その半分なら四十三キロ。紗綾、あなただってその範囲に収まるじゃない。本宮さんだって、舞だってそうでしょう」
「まだ根拠はあるよ。小坂の死体の見立ては事前に用意しなければ不可能だ。どの部屋に小坂が泊まるのか事前に分かっていた人間にしかできない。それに小坂の『supper』の見立ても、籠塚の『print plan』の見立ても、どの部屋にどの作品が飾られているのか、その作品がどういうものなのか熟知していないとできない。それを考えることができるのは誰? 昨日の夜、私と舞があれだけ眠くなったのはあなたに睡眠薬を盛られたからじゃないか。こんなことは今すぐ調べれば科学的にわかる」
一気呵成に喋ると、紗綾はここで咳き込んでしまった。息を切らし、肩を大きく上下させると、なんだか虚しくなってきた。
「違うなら……もう、違うって言ってよ。なんで、美輝のこと追い詰めなきゃいけないの……」
紗綾の視界に映る美輝の姿はぼやけていた。息を吸うのが苦しい。呼気だけが強くなってしまう。紗綾はもう一度強く咳き込むと、そのままへなへなと座り込んでしまった。ポツリと、彼女のスカートにしみが広がった。
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