Paint Plan
翌朝の紗綾の目覚めは最悪であった。まず、昨晩こちらのベッドに侵入して眠りについた舞が彼女の顔に裏拳を決めてきた。何事かと思って飛び起きると、手が空をつかみ、次の瞬間には鈍い音とともに文字で表せないほど色気のない声が寝室に響いた。こうして初めて、彼女は己がベッドから落ちるギリギリのところでバランスを保ち寝ていたことを知ったのだ。
その声にびっくりしたのが舞と美輝である。
「どうしたの、あれ、さーやん床で寝てたの」
「そんなわけあるか。なんで舞こそ私のベッドで寝るのさ」
「だってぇ、生首見てさーやんは怖くないの? 怖いかなって思って一緒に寝てあげたのに」
なぁんてうそぶいて、舞は床に座る紗綾の顔を覗き込んだ。えへっと首をかしげるが、あいにく紗綾はそんな気分ではない。
「余計なお世話だ」
ぐぅ。
紗綾のお腹がなった。時計を見やると朝の八時であった。美輝はぽやっとした眠そうな目で二人を見つめている。と、突然ハッとしたように目を見開くと慌てて時計を見た。
「あら、もう八時。こんな時間までなんの連絡もないなんて」
美輝は慌ててベッドから降りるとすぐさま洗面台へと向かっていった。
確かにもう八時だというのに朝食の連絡がないことはちょっと紗綾も不思議に思った。しかし昨日の夕食があの状態だ。あの後の朝食である。何のアナウンス無しにお流れになったとしても、親切ではないが不思議ではない。とりあえず二人も寝巻きから着替えて洗面台に向かった。
支度を終えて外に出てみると、雨が降っていた。そういえば昨日の夜のニュースで、明日の午前中は天気が崩れると聞いていた。そうなると、警察がつくのはもう少し遅れているだろうか……。そんなことをぼんやり考えながら紗綾は二人の後ろについていった。中央棟の扉は開いていた。しかし紗綾たちは少し回り込む形で玄関に向かっていたから、その中がどのような状態になっているかはわからなかった。だから異変を最初に知ったのは先頭を歩く舞であった。彼女が急に立ち止まったものだから、よく前を向いていなかった紗綾は思わず舞に激突してしまったのだ。
「ちょっ、どうしたの?」
紗綾はそう言いかけたが、舞の肩越しに見えた光景に思わず舌が上顎についたまま止まってしまった。
ロビーには呆然としたまま立ち尽くす人々がいた。その群衆が仰ぎ見るのは天窓からさす鈍い光と、螺旋階段の蝋燭の明かりに導かれるように浮いた天人……いや、縊れた桐沢の死体がぶら下がっていたのだ。
すぐに群衆のうちの一人がこちらに気づいた。本宮だ。彼女は紗綾のもとに駆け寄ると、こっち来てと言う代わりに紗綾の手を引き、フロントまで連れていった。フロントには浦添が作品の解説員のように厳粛に佇んでいた。
「浦添さん。これは、いったい?」
「ご覧の通りでございます。私は朝六時になりますと中央棟の鍵を開けるのですが、その時には既に……」
確かに桐沢の肌の色や、彼女の縊れた下にできた水溜りはもう既に事切れていることはわかっていた。
「いえ、申し訳ありません。その時にすぐご連絡差し上げればよかったのですが、私もなにぶん取り乱しておりまして、他のスタッフを呼んできたのですが、もうだめであろうと」
紗綾はそこでふと気づいたように群衆を見回した。何か違和感がある。何だろうと少し俯くと、すぐにその違和感が正体を表した。
「籠塚さんは?」
「そ、それが……、連絡がつかないのです。何度もお部屋に電話をかけているのですが、出ないのです」
紗綾はその瞬間脳天に焼けた鉄串を突き刺されるほどのショックを受けた。この分ではもう、籠塚も……。紗綾の頭の中にあの生首に恐れ慄いた籠塚の姿がフラッシュバックした。あの時すぐさま生首を処理したのはここに縊れている桐沢である。ああ、この二人はやはり、何かを知っていたのだ。
「浦添さん。それで籠塚さんの部屋には行ったんですか?」
「ま、まだこれからでございます」
「なら早く、急いで!」
紗綾に言われて気を取り戻したのか、浦添は慌ててフロントに戻ると、工具箱を片手に従業員室を指差した。
「ここから厨房を抜けた方が早くつきます」
紗綾たちは浦添に続いて勝手口を抜けた。するとそこにも紗綾たちの泊まっているコテージと同じ箱が鎮座していた。浦添は工具箱から電動ドリルを取り出すとそれを錠前につき当てた。
「カードキーはないんですか?」
「支配人室の鍵だけは特別なのです。ここはもともと文名様のアトリエでございました。ですから、勝手も異なるのです。鍵はオーナーしか持っておりません。昨晩オーナーはこちらでお休みでした。そのオーナーに反応がないとなれば……。この浦添、後始末はいくらでもつけましょう」
ドリルは大きな音を立てて扉をえぐった。しかしそれは努力に見合うような成果ではなかった。紗綾はとっさにコテージの裏手に回ると、そこに窓があるのを見つけた。窓には格子が付いているのだが、こちらの方が取り外しは容易に見えた。そしてその格子から中を覗き込むとやはり異常があることは明らかであった。小机のそばに男の脚がのぞいている。誰か倒れているのだ。紗綾はすぐに玄関に戻った。
「やっぱり誰か倒れてます。裏の窓の格子を外してください。その方が楽です」
まだ玄関の鍵は壊れそうになかった。浦添はドリルを扉から抜くと、紗綾に連れられて裏手に回った。格子は数分もせずに外れた。あとはハンマーで窓ガラスを割ると、手を伸ばし、錠を開いて乗り込んだ。
一目でそこが凄惨な現場であることはわかった。しかし、浦添が電気をつけるに及んで、その感は一層強まった。
籠塚の顔の右半面は緋に染まっていた。本来眼のあるべき場所は虚ろになっていて、ぶよぶよした塊がこぼれ落ちていた。一対の卓上のランプは無残に叩き割られている。姿見も蜘蛛の巣のように亀裂が走り、その横にある絵画の額もところどころ欠けていた。言わずもがな、額のガラスは割れている。この部屋の中にあるもの。そのほとんどが破壊されていた。電話機ですら何かをぶつけたかのようにヒビが入り、ボタンが一つ消し飛んでいた。浦添はそっと籠塚の亡骸に近寄ると、胸元を探った。
「妙です。オーナーは鍵をしっかりと持ってらっしゃる」
しかしその言葉に紗綾はなんの感動も示さなかった。それは、最悪の予感が的中していたから。もう何を言われても驚かなくなっていたから。
紗綾は落ち着き払ってハンカチを取り出すと、寝室の扉に手をかけた。鍵がかかっている。慎重に鍵を開けると、つぅんと酒の匂いがした。寝室の先には紗綾たちの泊まる『午後』と同じように居間があるのだが、匂いの元はすぐにわかった。卓上のグラスとウイスキーの瓶が割れているのだ。それだけではない。簡易キッチンに並んだグラスや食器もそのほとんどが割れていた。玄関の扉もしっかりと錠が降りていた。つまり現場は二つの密室から成り立っていた。
そういえば――。
彼女の頭の中に悪魔の考えが降りてきた。振り返るとそこには暖炉があった。マントルピースの上にはやっぱり一枚の絵がかかっていた。それは整然と並べられた静物を描いたカンヴァス……しかしそれはあくまで芸術家にとって素材でしかなかった。芸術家はカンヴァスを引き裂き、コラージュして画面の再構成を試みたのだ。作品を示すタイトルプレートにはこう記されていた。
『Paint Plan』
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