愚かな男
千羽はる
愚かな男
彼の生きざまは、傍から見れば愚かとしか言いようがなかった。
「逃げる」という言葉を知らずに青年になり、嘘という行為に罪悪感を抱かずにはいられない正直さは時に刃物となって彼を襲った。
彼以外の人間は、嘘もつけるし、逃げるのも上手い。
そう気づくのに、何十年もの歳月を必要とした。
自分の在り方が誇り高いとは思わない。いや、いっそ「愚か」だと、誰よりも彼自身が自覚していた。
けれど、どうしても「それ」ができなかった。
真っすぐに突き進む。車を運転しながら、岩を見つめて突き進むように。
岩があると知っていて、危ないこともわかっていて、それでも「自分はこの道しか進めない」と諦めるしかできなかった。
よければいいじゃない、と彼女は言った。
傷だらけの人生を表すように、傷だらけの心を内側に宿した男の肌に手を触れさせて。
女の手は、白いユリのように美しい。
傷一つなく、その柔さと瑞々しさは、決して彼には持てなかったもの。持とうとも、思わなかったもの。
それで心が死んだとしても、よければいいじゃない。
愛する女は優しく笑った。
彼にとって非情な宣告を、その虚ろな優しさで包み込みながら、笑った。
あなたが良ければ、いいじゃない。
・ ・ ・
数日後、男は死んだ。
やはり、外側の人間からしてみれば「愚か」としか言えない理由で、誰もが「逃げればよかったのに」と彼の死を見送った。
喪服を纏った顔のない人間が集まる中、ただ一人、彼の生き方を認めた女が真っ白なドレスを纏って立つ。
女は、顔のない喪服たちを冷ややかに見つめていた。
彼女が愛した男は、やはり逃げられなかった。
自分の心が突き進むまま、ただ走り続けた男。女は、自分がいつかおいていかれることはわかっていたけれども、やはり愛した。女もまた、外側から見れば「愚か」だっただろう。
けれど。
逃げられるのに逃げなかった。進まなくてもいいのに突き進んだ。傷つかなくていいのに傷ついた。
誰のためでもなく。己の心に従い、その痛みに引き裂かれたような、死。
女は、くるりと喪服たちに背を向けた。喪服たちは葬送の場には相応しくない真っ白な女を、奇異の目でちらちらと盗み見ていた。
しかし、女にとって、この葬送に喪服は要らない。
女が愛した男は、誰よりも誇らしく、自らの枷を脱ぎ捨てた。
悼みよりも祝福を。涙よりも微笑みを。
それこそが、突き抜けた彼には相応しい。
「彼は愚かだった。—――でも、その生き方は、誰にもまねできない」
愚かな男 千羽はる @capella92
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