暗礁
事件から一週間が経ち、紗綾は今日も相変わらず窓際、棚の上に寝転がっていた。夏休みが始まっていた。美術室のクーラーは学校の集中管理から外れていたから、いつでも最低温度である。それだけに、たとえ作品を描かずとも居心地がいい。
紗綾は捜査資料を頭の中で反芻しながら窓の外を眺めている。いつもはうるさい琴芝舞も、紗綾が考え事をしている時ばかりは静かにしてくれる。でも時々、紗綾の方がそんな空気に寂しさを感じてしまうのだ。ペンを落とす音さえはばかられる静かな図書館よりも、聞いたことのない音楽や雑談が溶け込んだカフェの方がいいのと同じだ。寂しさが思考を妨げる。後から考えてみれば重要でないような悩みが、いま割かれるべき頭脳のリソースを侵食している。そんなことすら考えるようになってしまう。悪循環なのだ。
「さーやん、あんまり日向にいると熱中症になるよ?」
ああ、舞はわかっているんだな。紗綾はそう思いながら、脇腹をつついてくる舞の指を握った。
確かに、いくら考えてもわからないことは、考え続けても仕方がないのかもしれない。紗綾はふぅっとため息をつくと、ロクロ棚から降りて深呼吸をした。それを待っていたかのように、校内放送がかかると紗綾が呼び出された。事務室からであった。
一時間後、紗綾はSの市立病院に到着した。事務室での呼び出しは、希々佳からのものだった。学校が休みである今、希々佳は毎日大造の病室で過ごしていると聞いていたが、実際事件後顔を合わせるのは初めてであった。何故希々佳が紗綾を呼び出したか、事務室の説明は要領をえなかった。ただ、緊急事態が起きたかS市立病院の一一二五号室まで来てくれと、それだけであった。しかしそれだけでも十分何があったのか紗綾には察しがついた。
一一二五室に入ると、行橋警視、土屋警部と二人の刑事が立ち尽くし、大造の横では希々佳が泣き伏せていた。
「五分ほど前に、亡くなられました」
行橋警視はそう告げると、トンと紗綾の肩に手をおき、病室の外に出るよう促した。
「何があったんですか」
「昨晩侵入者があったようだ。何をしたかは知らないが、久根別大造の容態は急変。こうしてあの男が知ってたことも全て葬られたわけだ」
こうして捜査はいよいよ暗礁に乗り上げてしまった。
考えてみれば、これは完全に紗綾の落ち度であった。いくら希々佳が仕方ないと言葉をかけ、祖父の仇を討ってくれと彼女の手を強く握りしめても自分の行動を悔やんだ。彼女はあの火葬の一件にとらわれていたのだ。犯人の当初の目的は大造の襲撃ではなかったか。犯人はあの人骨の登場に観客の目を向けさせ、大造から注意がそれている間にその命を狙ったのだ。紗綾はその大胆さ、狡猾さに息をのんだ。しかし同時にそれは、結果として彼女の闘志に火をつけることとなった。
紗綾はその日、その足でSの隣、Eにある大造の会社を訪れた。ちょうど運良く川崎がいたから、彼に話を聞くことができた。紗綾がなぜあの日あの場にいたのかを話すと、彼は彼女に猜疑の目を向けてきた。それも致し方ないことである。あの日紗綾は希々佳の友人でついてきたと、無理な設定で通していたのだ。もしあの日紗綾にアリバイがなければ、真っ先に疑われるのは彼女だったに違いない。そんな人間を目の前にして、いよいよ川崎は迷惑なのだろうが、むげに追い払うことも立場上できなかった。
紗綾が尋ねたかったのは、あのイベントをそもそも誰が提案したのかということだった。これについて川崎は、詳しい経緯はわからないがSホールの方から提案があったと語った。
「Sホールは、あまり成績が良くなかったのですよ。そもそもホールを建てる時からして地域住民の反対が大きくて。オープンイベントを行ったんです。それもあいまって、全ホールでもワーストでしたな」
「オープンの時もイベントをやったんですか」
「イベントと言っても福引です。でも福引の景品を用意しなければならない。当選者には生前に葬儀について契約をしてもらったのですが、サービスで契約料は無料。大盤振る舞いですよ。ただでさえこの生前契約は顧客にとってお得なプランだというのに。我々からすると赤字とは言わずとも損になる契約です。それでも、契約ゼロよりはマシと、敢行したのですが……」
「ちょっと待ってください。そのイベントはどなたが?」
「それは亡くなった前社長です。あの人の家はホールの近くにありますから、地域のこともよく知っている。反対のノボリも毎日見ていたそうです」
「なるほど、わかりました。それで、Sホールは地域住民の反感を和らげるためにイベントを行った。でも、それだけでそんなに売り上げが悪くなるんですか?」
「各ホールの詳しい状況までは知りません。各ホールの管理人の方が詳しくて当然です。ただ、週に一度各ホールの管理人が集まり本社会議をするのですが……、Sはここ数ヶ月、生前契約の解約が増えていたんです。いくら薄利な契約とはいえ、破棄されれば取れるはずの利益もゼロ。違約金は取れますけど、悪い評判が残ってしまう。地域の会社ですからそういうのは致命的なんです。さらにはプロモーション分だけ完全に足が出てしまう。新井君もこれにはだいぶ頭を痛めていたようですがね、結局改善できませんでしたね」
「解約者に理由は訊いているんですか?」
「それはアンケートがありますから。でも、特に何も書かれていないのばかりで、具体的になぜかというのは……。新井君は知っていたかもしれませんけどね」
「そうですか……」
紗綾は少しうつむくと、しばらく口を結んでいた。紗綾には既に一つの仮説ができつつあった。だが現時点でもそれを立証する手立てがない。ただその光明が、彼との話から差してきたように思えた。紗綾は礼を言うと早々とその場を後にして家路に着いた。
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