v案件 (1/4)

 私の名前はファーマソン・W・ライト。もちろん偽名だ。皆の間ではファーマソン神父として通っている。


 本名は何かって?

 おいおい、勘弁してくれ。バチカン特殊事例対策局の中で本名なんか使っていた日には、明日の朝には死体になっている。あるいはもっと別の何かにだな。この部局の中では現実と非現実という言葉が別の意味を帯びている。



 その日、私はバチカンの古文書保管室の中で稀覯本を探していた。古文書保管室と言っても表のヤツではなく、裏のヤツだ。ここには絶対に部外者の目に触れさせるわけにはいかない古い書物が厳重な管理の下で眠っている。


 古文書保管室に入れるのはバチカンの中でも一番高いセキュリティを持っている者だけ。この部屋に封印されている本の一冊でも外へ出たら、恐らくは巷のあらゆる稀覯本収集家やオカルチスト、それに悪魔崇拝の連中が争奪戦を繰り広げることになる。それからそういった騒ぎが鼻で笑えるほどの大災害が起きる。

 ソロモンの大いなる鍵の完全本など市井に流れたりしたら一体どうなるかは神のみぞ知るだ。だからこそ、この部屋は核爆弾が落ちても大丈夫なぐらいの魔術で守られている。そんじょそこらの魔導士や軍隊程度では近寄ることもできはしない。

 もちろん私でさえもこれらの本を勝手に持ち出すことはできない。持ち出そうとすれば管理官に銀の弾丸で撃ち殺されてしまうことになる。

 あちらの部署にお百度を踏み、こちらの部署に百科事典並みに分厚い書類を出し、そちらの司教頭の肩を揉み、最後に法王の恥ずかしい秘密をどこかから掘り出して直接に脅す。そこまでしてようやく許可は下りた。


 探していたテウルギア・ゴエティアを見つけ、手の中で身をよじるその本を苦労して抑えつけながら、目的のページを見つけ出す。この本はソロモンの小さな鍵と呼ばれる五冊のシリーズの内の一つで、精霊と悪魔の使役法が書かれている魔導書だ。

 目的のページの記述を何度も読んで心に刻みつける。この本から読み出すことができるのはその内の一ページだけという制限を持つ。それも常に注意していないと記憶から抜け落ちてしまう。それは制限というよりは忘却の呪いに近い。

 おまけにこいつはコピー機も写真機も一切受け付けない。電子回路は焼き切れて故障するし、フィルムはその場で燃え上がる。ペンは割れ、紙は燃え上がり、石板に刻めば粉々に割れる。つまりは頭の中に記憶するしか呪文を持ち出す方法は無いということだ。

 本の所有者だけが本の呪文を自由に使える仕組みになっていて、ある意味では本が所有者を縛り付けているとも言える。

 これはすべて本に宿る魔法の力というヤツで、今の時代にはこういった古代魔法を操れる魔導士は存在していないのだからまったく持って厄介な話だ。


 私が必要としているのはある悪魔の名前と使役法だ。それがつまり今抱えている案件の解決の鍵なのだ。

 悪魔の召喚と言ってもそう簡単な話ではない。まず最初にその悪魔の苦手とする精霊か天使を呼び出し、その監視下で目的の悪魔を呼び出す。でなければ悪魔の最初の生贄は召喚者自身ということになりかねない。

 ああ、どうしてこう私の下に来る案件は面倒なものばかりなのだろう。


 何度も頭の中で悪魔の名前を唱えながら回廊を歩いていると、助手のアンディが私を見つけた。

 アンディはまだ若い神学生だ。以前にちょっとした事件でバチカンの秘密に触れてしまい、半ば強制的に私の助手とされてしまった可哀想な若者だ。もっとも本人はそれほど自分の境遇については気にしていないようだが。

「ファーマソン神父」

 アンディは紅潮した顔で呼びかけてきた。走って来たのか、息が切れている。

「V案件です」

 さらなる面倒の始まりを知って、私は背を伸ばした。



 大きな大理石の机を前にして豪華な椅子に座っているアナンシ司教は対策局の総責任者だ。どうやればこんなに太るのかと言うばかりに恰幅の良い男で、恐らく体重は五百ポンドを越えている。どう考えても暴食という大罪の徒なのであるが、彼が実際にたくさん食べている所を見た者がいないので、それが責められたことはなかった。

 まあ、対策局の全員から恐怖と畏怖の目で見られている彼を責めようなんていう人間はどこにもいないのが真相なのだが。

 大理石の大きな机の上には何を表すのか分からない奇妙な小さな大理石の像が所狭しと並べられている。その一つ一つが世界のどこかから報告された事件を示している。いくつかの大理石の像の横には青いガラスで作られた小さな像が置かれている。この青の小像が対策局の局員を示している。

 置いてある大理石の像に比べて青ガラスの小像の数は余りにも少ないのが分かる。

 アナンシ司教は青ガラスの小像を一つ取り上げると自分の前に置いた。

 つまりはこれが私を表す像だ。像はオオカミの形をしている。

「V案件と聞きましたが、場所はどこです?」

 余分な挨拶はせずにすぐに本題に入った。アナンシ司教も余計なことは言わずに簡潔に返した。

「ニューヨークだ」

 少しばかり驚いた。ニューヨークは夜の女王と異名を持つ吸血鬼リビアの縄張りだ。そこで今更V案件が起きるわけがない。リビアがバンパイアハンターに滅ぼされでもしない限りは。そしてリビアを滅ぼせるようなバンパイアハンターはこの世にはもういない。以前に私が殺したからだ。

「チャーター便を用意した。すぐに飛んでくれ。詳細はこれだ」

 アナンシ司教はテーブルの上に書類を投げた。お行儀が悪いが、あの体重ではきっと椅子から立ち上がるのが面倒なのだろう。ちなみに彼の座っている椅子は特注品で、象の体重にも耐えられるという触れ込みだ。


 四の五の言わずに空港へ急ぎ、バチカン対策局ご用達のジェットに乗った。正確に言うと超音速巡航が可能な戦闘機にだ。これ自体は試作のみで終わった機体で型番は無い。マッハ5で真っすぐ目的地へ向けて飛んだと言えばどんな物騒な代物かは分かると思う。

 Gスーツを着せられた飛行の間中、複座席の後ろにしがみつく羽目になった。もちろんサービスの機内食も無ければキャビンアテンダントも無し。まったく無粋な旅行だよ。まあ自分で操縦するのではないだけマシかもしれないが。対策局の人使いの荒さは有名なのだ。

 その間ずっと、古文書保管室から持ち出した知識を頭の中で反芻していた。この古文書の魔法の呪文は忘却の呪いと一セットになっている。常に反芻して記憶を新しくしないと頭の中から消えてしまう。もちろんこの作業はものすごく辛い。この新しい仕事を終わらせて中断した仕事に戻るまで、この苦痛は続くことになる。

 すべての努力を放棄してあっさりと呪文を忘れてしまうことも考えた。その場合はあの面倒で退屈で嫌みな承認の手順をまた最初から繰り返すことになる。

 ぶるるるる。それだけは勘弁願いたい。私の以前の行いのせいで、バチカンの上層部は私に対しては特に厳しい態度を取っていることが恨めしい。

 空港での入国審査も特別に免除された。ああ、偉大なるかな我がバチカンの権力よ。そのままタクシーを飛ばしてリビアのフラットへ向かう。私の着ている神父服に免じてチップは負けて貰えた。

 ああ、見知らぬタクシーの運転手よ。貴方の魂に祝福があらんことを。



 リビアが棲んでいるのは八十一階建てのタワーマンション最上階だ。そのフロアを丸ごと買って自分の城に改造してある。つまり装甲鉄板を壁に埋め込んで要塞化してあるのだ。窓の傍には自動対空砲座を設置して空からの攻撃も防げるようになっている。まあ立場上仕方がないとは言え、怖い女性だよ。まったく。

 もちろん彼女は大金持ちだ。この国の吸血鬼の総元締めだし、それ以外にも大勢の人間の臣下を抱えている。彼らはリビアが与える永遠の命を求めてあらゆる物をリビアの足下に捧げる奴隷なのだ。


 羨ましいかって?  確かに。

 代わりたいかって? ノーだ。あんな重責のある立場にはなりたくない。


 すでに夕刻だ。リビアの居る最上階には昼間はエレベータが上がらないようになっている。日が落ちて初めてリビアの下へたどり着けるようになっているのだ。

 かなり前に教えて貰ったパスワードはまだ有効で、私は八十一階への専用エレベータに乗ることができた。ロケットよりも速く上昇する高速エレベータの扉が開くと、目の前には自動小銃を構えたリビアの僕たちが待ち構えていた。リビアによる軽い魅了の魔法にかかってはいるが普通の人間たちだ。

「リビアにアポは取ってある。ファーマソン神父だ」

「いらっしゃいませ。何かご身分を証明できるものはお持ちでしょうか?」

 護衛の一人が慇懃に尋ねて来た。身に纏っている暴力の雰囲気にそぐわない口調は、生き延びるための方便だ。リビアの客たちは気の荒い者が多い。来客の機嫌を損ねた時点で殺される可能性が高く、その場合には彼らが構える自動小銃など子供の玩具に過ぎなくなる。

 もっとも対峙する相手が何者かが分かっていればまた別の話だが。

 この自動小銃には銀の弾丸が装填されているのだろうか?

 身分の証明か。取り合えずこの護衛の一人を爪で八つ裂きにするというのがいいかな。それとも彼らの目に見えない速さで先頭にいる一人の首を一回転させて元の向きにするというのも捨てがたい。そんな物騒な衝動が沸き上がって来るのを無理に抑えて、私は彼らに唇を剥いて人間ではあり得ない発達した犬歯を見せた。

「その人を中に通しなさい」

 恐らくはスピーカーからの声だ。護衛たちが緊張を解くと左右に道を開けた。もちろん周囲には監視カメラが埋め込まれていてリビアはそれを見ていたのだろう。

 左右に豪華な調度の並んだ廊下を進む。壁には値も付けられない古くて貴重な風景画が並んでいる。どれも何百年も昔の画家が描いたものだ。

 リビアのここ千年での趣味は芸術家の青田買いだ。まだ名も売れていない芸術家を見つけて援助する。その対価としてその芸術家が作り上げたものの中で最高傑作を差し出すことになる。

 過去には差し出さずに逃げた者もいたが、その中で逃げ切れた者はいない。人間には昼と夜があるが、リビアは夜の女王なのだから夜にいるときはその眼を逃れることはできない。


 突き当りのこれも豪華に装飾された扉を開くと、そこはリビアの謁見室だ。巨大な漆黒の玉座に彼女が座っている。流れる黒い滝のような長髪は今は頭の上に丸く結い上げている。無数の金と銀と宝石に飾られて嫣然と微笑む美の塊がそこに居た。

 ニューヨークの吸血鬼のボス、リビア・V・アルマニス。その人だ。

 そして彼女こそ今回のV案件、つまりバンパイア事件をバチカンに報告してきた通報者だ。


「久しぶりね。ダーク。二百年ぶりかしら」

 そう言いながら彼女は眼差しを向けて来た。傾国の美女という言葉は、彼女にこそふさわしい。その眼差しを我が身に得るためなら己の血のすべてを捧げても良いという男は無数にいるだろう。

「せいぜい十年という所だよ。リビア。それに今の私の名前はファーマソンだ」

「そういうことね。ファーマソン神父。今はバチカンの対策局員をやっているのよね」

 それから小さくつぶやいた。

「信じられない」

 最後の部分は私に聞かせるために言ったのではない。だが私の耳はもの凄く鋭い。

「これも時代さ。それより報告のあった件だが」

 リビアは玉座の上で姿勢を変えた。さらさらした生地のドレスが揺れ、足元が少しだけ顕わになる。普通の男ならそれを見ただけで欲情してしまうだろう。高位の吸血鬼はその動きの一つ一つが性的な意味で彩られている。それは彼らから発散されている大量の性フェロモンと相まって絶大な効果を発揮する。この動きがそもそも本能的なものなのか、それとも何百年という歳月をかけて磨き上げたものなのかは分からない。少なくともリビアは最初にあったときからこうだった。

 かっては恋人だった時期もある。それももう遠い昔の話だ。

「リチャード・V・ノーラスという男をご存じ?」

「記憶にはないな」私は首を横に振った。

 実はすでに対策局のファイルでその名前を見ている。だが世の中というものは知らない振りをした方が相手から多くの情報を引き出すことができるものなのだ。

「元はうちに客人として預かっていた別分派の吸血鬼だったのよね。それがいま暴走しているの」


 現在世界中の吸血鬼は五人の長老がそれぞれ率いる五つの派閥で構成されている。その内の四つが人類と共存を望む穏健派で、残る一つが人類を支配しようと狙っている武闘派である。無論、この武闘派には対策局による厳しい監視がついている。

 夜の女王であるリビアは穏健派閥『血の盟約』の長老で直接の支配地域はニューヨークであり、さらにその影響力はアメリカ大陸全体に及ぶ。つまりこの大陸の他の都市に棲む吸血鬼の小グループはすべてリビアの派閥の下についているということだ。

 他の四つの派閥は規模の順に『夜の翼』『闇の牙』『血の呼び声』『赤き目』である。

 うえっ。なんというネーミングセンス。吸血鬼って奴はどいつもこいつも中二病なのか?

 この内、『血の呼び声』派閥が武闘派で、首魁はアンドレア・V・ノーラス。今回の犯人であるリチャードの父親である。つまりはリチャードは吸血鬼の長老の一人息子であり、甘やかされた馬鹿息子ということだ。

 百年ほど前にこいつは対策局との取り決めを破って勝手に吸血鬼を増やし、その結果当時の対策局との間に全面戦争を引き起こした。結果はリチャード以外の吸血鬼の皆殺しに終わり、対策局は彼を他の派閥のボスに百年の間に渡って監禁させることで落としどころとした。その間に少しは賢くなるだろうとの目論見だ。

 リチャードが抹殺されなかったのはひとえに彼の親が派閥の長老であったためだ。

 リチャードは吸血鬼にしては珍しく普通の出産で産まれている。つまりボス・アンドレアと他の女性吸血鬼がセックスして妊娠し、ごく普通の方法で産んだ子供ということになる。

 大概の吸血鬼は吸血行為により眷属を増やす方を選ぶが、ボス・アンドレアには何かの思い入れがあったのだろう。そしてそれと関連して、ボス・アンドレアの息子リチャードへの執着はとんでもなく深いものになってしまったというわけだ。

 リビアは吸血鬼種族の中では最大派閥の穏健派の頭だ。そして各派閥は一種の人質として他の派閥の客人を受け入れることがある。吸血鬼社会の複雑で緻密な政治構造がそういった解決法を選んでいる。


「君たちで何とかできなかったのか」

 おっとこれは無駄な質問だな。自分たちで片を付けることができるならあらゆる怪物たちが心中密かに忌み嫌っている対策局になど連絡はしない。

「私たちの掟は知っているでしょ」リビアは指摘した。「吸血鬼同士の戦いはご法度。一度でもそれを始めたら収拾がつかなくなる」

 それは確かにそうだ。吸血鬼の派閥はお互いにひどく憎みあっている。彼らの間での最終戦争を止めているのは、今まで最終戦争を行ったことがないというただその事実だけである。

「リチャードは革命派よ。人類は吸血鬼の下につくべきだと信じてやまない。以前ちょっとした不始末をやってしまったために、長い間他の長老たちの監視下におかれていたのだけどね、このたび無罪放免。ところが自由になった途端、仲間を増やし始めたの。信じられる? よりにもよってこのあたしの縄張りでよ」

 リビアは静かに激怒していた。その怒りの矛先が私に向きませんように。心の中で月の神様に祈りを捧げた。

「で、そいつが増殖を始めたのは何時頃からだ?」

「一年前よ」

 その返事に私は固まった。

 これは確かに恐ろしい事態だ。

 吸血鬼の増殖には時間がかかる。それは大きな弱点だ。一度に増やすことのできる相手は一か月に一人のみ。一人の人間の血を吸い続け、呪いを伝染させるのにそれだけかかる。

 その結果、一月後には二人の吸血鬼が存在することになる。これ自体はそう大したことではない。だがそれを繰り返せば一年後には四千人の吸血鬼が生れることになる。これが倍々ゲームの恐ろしいところだ。さらに一年と九か月すれば地球は吸血鬼だけの惑星に変ずることになる。これはさすがに看過できない事態だ。

 吸血鬼自体は強い怪物だがまた弱点も多い。特に昼間はほぼ活動できなくなるという欠点が大きい。一時的に吸血鬼のコロニーを作ることもできるが、最終的には昼間動けないときに人間たちに駆逐されることになるし、またそうなってきた。

 自らが滅びる選択をするのは生物としては正気ではないが、そういった者がたまに出現することも真実だ。そのためにこそ対策局は存在する。



 その夜は教会の宿泊所に泊まった。

 対策局の予算は潤沢だ。高級ホテルに泊まることもできたし、そうしても誰も文句は言わないが、神の傍にいるという感覚が強くなるので私はこの方が好きだ。教会を居心地良く感じるなんて、以前の私だったら到底考えられないことだ。

 それに教会には手が出せない吸血鬼は多い。実際には吸血鬼の持つ信仰やどの派閥の血を引くかでどの宗派の教会を忌避するかどうかが決まる。だいたいにしてここニューヨークでは教会の中は比較的安全だと考えてよい。

 多くの吸血鬼は教会の中では本来の力は発揮できない。それを精神的障壁だとしたり顔で説く者もいるが、魔法が働く裏側の世界では精神的障壁は物理的障壁と同じぐらい力がある。

 とにかく寝込みを襲われるのだけは勘弁願いたいので、教会に泊まることができるのは有難い。もっとも私自身は吸血鬼と同じく夜行性なのだが。


 教会の神父の好意により小奇麗な個室が割り当てられた。短く祈りの言葉を唱えてから部屋に引きこもる。頭の中で繰り返されるテウルギア・ゴエティアの一節が煩わしかったが、折角持ち出した呪文なのだから捨てるわけにはいかない。私は節約家なのだ。

 扉にノックがあり、この宿泊所を仕切っている尼僧が入って来た。手に食事の載ったトレイを持っている。

「普通は皆で食堂で食べるのですが、今回は特別と聞きましたのでお持ちしました」

 これは有難い。対策局の局員はできるだけ顔を他人に見られない方がよいからだ。


 テーブルに置かれた食事に手を伸ばす。

 提供されたのはごく普通の質素な食事だ。パンとチーズ。それにスープと少量のハム。果物の切れ端。そもそもここには贅沢をするための食材は用意されていない。

 人狼の食事は肉類がやや多めなところ以外は普通の人間と同じだ。不足するタンパク質は明日にでもどこかのレストランで補うとしよう。そうだな。牛一頭分の肉があれば、この私の小さな胃袋も満足することだろう。私は基本的に少食なのだ。

 食事を持って来た尼僧はそのままテーブルの横に立っている。食事が済んだらそのまま食器を持って返ることになっているのだろうか。

「君、名前は?」尋ねてみた。

「エマです」

 尼僧はまだ若い。顔はどちらかと言えば美人の部類だ。きちんと化粧をして街を歩けばさぞや人気者になるだろう。尼僧には向かない特質だ。

 この若さで教会の一部を仕切らせてもらえるということはそれなりに優秀なのだろう。私は失礼にならない範囲で彼女を観察した。

 食事を片付けながらちらりとエマの目の色を見る。瞳孔がやや開いている。発散する匂いからしてやや興奮状態。性的という意味ではない。つまりは対策局本部から来た私に興味津々なのだ。


 対策局のことはバチカン内部でも話題にしないことが鉄則だが、それでも噂の一つや二つは漏れる。人によっては最近始まったエクソシスト本部と勘違いしているケースもある。バチカン対策局は千年以上の歴史を持つ古い古い機関なのだが、すべてはテーブルの下に巧妙に隠されていて、その存在を知る者は少ない。またそれを知る立場になった者は長生きはできない。それほど危険な職場なのだ。

 しばらく彼女と話をした。エマは二十歳。なるほどあらゆる物に興味を持つ歳頃だ。この若さで尼僧になるというのはどんな人生を送って来たのだろうと思ったが詮索はしなかった。

 この世には様々な人生がある。

 話の中でエマは対策局について色々質問を混ぜて来たが、私はどれもうまくはぐらかした。どのみち真実を話しても信じては貰えなかっただろう。


 対策局のメンバーのほとんどが人成らざる者であることなど、いったい誰が信じる?

 特にアナンシ司教なんかときたら・・おっと話過ぎたな、ここまでにしよう。

 それとなく探りを入れてみると、最近は教会周辺の浮浪者たちの数が減っていることが分かった。リビアの派閥は協定を破って吸血鬼人口を増やしたりはしない。この都市の医療用血液流通を抑えているのだから、食料には不自由はしていないのだ。それに不死を求める金満老人たちを慎重に取り入れることで莫大な資産と財産、そして権力を手にいれている。わざわざ危険を犯す必要は欠片もない。

 となるとこの浮浪者たちの失踪は、まず間違いなく吸血鬼リチャード・V・ノーラスの仕業だろう。

 ざっと計算して、この一年でニューヨーク全体で新しく吸血鬼になったのは千人から四千人程度と概算を出した。まったく由々しき事態だ。ここから先は一か月経つ毎に万から十万へと膨れ上がる。今が状況を抑えることのできる限界点だと判断した。


 厄介だ。とても厄介だ。V案件がぐずぐずできないのはこの性質ゆえなのだ。事が公になった時点ではすでに手遅れ一歩手前になっている。

 エマが食器を持って出ていくと、すぐに対策局に連絡をした。

 内容は現状報告と援軍の手配。

 アナンシ司教は対策局の全員から蛇蝎の如く嫌われている人物だが、少なくとも職務には忠実で、おまけに有能だ。ぐずぐずせずにすぐに援軍を出すと約束した。


 これで良し。


 後やらなくてはいけないのは、相手への警告だ。これは対策局の慣習であり、対策局が単なる処刑組織ではないことを証明するためのものだ。この場合は私がリチャード・V・ノーラスに会いに行き、直に警告すること。それで相手が警告を聞き、増えた吸血鬼たちを自ら処分するなら問題は未然に防がれる。

 どんな組織にも必ず理念というものがいる。それが無ければただの野犬の群れと変わらないと言える。対策局の理念は次のようなものだ。


『公正に、ただし容赦無く殺せ』

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