甘雨
@kinnikoushi
第1話 秋月雄三郎
今日も雨か……。まだ薄暗い明け方いつものように目が覚めた。
雨を憂鬱だと言う人もいるが、雄三郎はむしろ愉快だった。
雲が覆う空は鼠色でも、雨を受けた木々は水滴で銀色に輝き、地面に踏みつけられていた雑草は水を待っていたかのように次々と起き上がる。
そして雨の降り始めのけむったような香り、雨が止んだあとの清々しい木の葉の香り、水を含んだ土の香り、これらが身体中を巡っていくのが心地よかった。
しかし、今は雨の音と共に傷の痛みと血の匂いが蘇ってくる。
秋月家は三千石旗本で当主の秋月広民は書院番頭を務めていた。
広民には三人の息子がおり、長男基広に家督を継がせようとした矢先、江戸に流行り病が蔓延して、まず広民の妻りくが倒れ、看病した基広の妻ゆき、そして基広、次男の和馬までもがあっという間に亡くなってしまった。
秋月家には広民と基広の子供達だけが残された。
秋月三直は広民の三男で10年前から剣客として諸国を巡っていたが、急きょ呼び戻された。
「基広の子らは、まだ幼い。今この家を継ぐのはお前しかおらんのじゃ、頼む」と厳格な父に頭を下げられ、断るわけにもいかず
「では、兄上の子に家督を継がせるまでの繋ぎ役としてお引き受けいたします」
という約束で家督を継いだ。
書院番頭のお役目も広民の十分な根回しのおかげで難色を示される事なく引き継げた。
三直の異色の経歴は皆に面白がられ、剣の達人ながら物腰柔らかく交渉術に長けていたため
若年寄りから重宝がられ、出世していった。
基広の長男定之助が家督を継ぐ年を迎え、無事お役目御免となる筈が、
「定之助は書院番頭を引き継いでよい、そのかわり三直は若年寄りの補佐として務めを続けよ」と特例を作られてしまい、未だに引退はかなっていない。
秋月雄三郎は、基広の四男として生まれ三歳の時に両親を亡くし叔父の三直が戻ってきた。
三直は戻ってきてからも、毎朝の稽古をかかさず雄三郎はこの叔父の剣に魅了された。
そして七歳で一刀流丑松道場に入門した。
丑松道場は実力と門弟の数で江戸でも三本の指に入る名流である。門弟達の段位制度もしっかり確立されており、剣術好きの大名、旗本らの子息が多数入門してくる。
入門時一段の千回素振りから始め、三段までは師範代田村贄蔵の判断で上げられる。
田村贄蔵は丑松寅次郎がこの道場を立ち上げた時からの弟子で信頼も厚く、稽古全般の事は田村に任せていた。
三段からは五の構えと十の型を体得していく。
半年毎に試験があり、丑松と田村が昇級を決める。
五段までに型を完全に体得すると六段からは真剣で構え、型を最初からやり直す。
そして六段から九段まではこの構え、型の反復と月一回の総当たり戦で席次を決め、年に一度下段の首位と上段の末位が三本勝負をして、下段が勝てば入れ替わる仕組みになっている。
雄三郎は十七歳の今八段の首位にいる。
最年少で駆け上り、天才剣士との呼び声も高い。当然人気は絶大で門弟達の憧れの的である。
あの日雄三郎は五段の門弟に稽古をつけていた。
八段、九段は教えるのも修業の一つとして、五段までの門弟の稽古を二人組で受け持たされる。
今回の相手は同じ八段の中岡喜平だった。
雨の季節のせいか体調不良で休む者が多く、疲れが目立ったので早目に切り上げた。
門弟達がいなくなると、中岡が話しかけてきた。
「秋月は佐藤と大久保が辻斬りにあったのを知っておるか?」佐藤宗介は六段、大久保又之助は七段に在籍している
「……いえ、初耳です」
「下手に騒いではいけないと、丑松先生が口止めしているようだか、そういう噂はすぐに広まる。一撃でやられていて、かなりの遣い手らしい。」
「この道場の者が狙われているのでしょうか?」
「それはわからんが一人だけではなく二人ともなるとな。我々も用心せねばならんだろう」
「秋月は真剣で立ち合ったことはあるか?」
「いえ、まだございません」
「そうか……。俺はある。木刀とはまるで違う、命をかけたあの感覚、あれは実践でしか学べぬ」
「どのような理由で立ち合われたのですか?」
しかし中岡は、それには答えず、
「秋月、三本勝負してくれ」と話を変えた。
中岡は今八段の二番手にいる。
雄三郎が八段に上がった時はまだ互角だったが、半年も過ぎると雄三郎が勝つことが多くなった。
今回も雄三郎が二勝して、最後の勝負になった。中岡が始まる前に竹刀を替えた。
礼をして、お互い正眼の構えからじりじり間合いを詰め雄三郎が先に相手の胴に打ち込んだが引いてかわされ、少し体制をくずした瞬間面をとられた。
礼の後、「やっと一本とったぞ」と苦笑いしながらも満足した様子で中岡は先に帰って行った。
道場を出て少しすると、雨が降ってきた。
早足で歩き出した雄三郎だが、負けた三本目の勝負が頭に残っていた。
前の二本と何かが違った、間合いを詰めていつものように打ち込んだが、かわされたのはなぜか。何度も思い返して気づいた。
竹刀だ!最後に替えたあの竹刀の長さがわずか違うのだ。
雄三郎は天性の感でいつも相手との間合いを測り自分の最適な位置で打ち込む。
一度対戦した相手は間合いを覚えている。中岡はそれを逆手にとり、竹刀の長さを変えたのだ。
そして最後の中沢には殺気を感じた。辻斬りの話しをしたせいか……。
頭から離れぬまま、屋敷まであと半里となった。武家屋敷が続くこの道は夕刻ともなると殆ど人通りがない。雨が強くなり辺りは暗く、雄三郎はかなり濡れていた。
ふっと、重い空気を感じた。
ーこの先に何かいる。
曲がり角を大回りに用心しながらゆるりと曲がると、そこに人が立っていた。
中岡喜平だった。
「待っていたぞ。さあ秋月、今度は真剣で勝負だ。」
「……何故?」
「お前が嫌いだからよ。名門の家に生まれ、天才と煽てられ、おのれ以外はまるで存在してないようなその顔を見るたび虫唾が走る」
「辻斬りも貴方なのですか?」
「そうよ、お前を倒すための肩慣らしさ。そして今日確信したのだ。真剣ならば俺が勝つと。
さあ、刀を抜け」
初めて勝負で抜く刀であった。
ー 間合いはどうする、どう攻める……
とその瞬間、迷いが生じているのを見透かすように、上段から斬りつけられた。かろうじてかわしたが脇に痛みを感じた。
「真剣では、だらしないな。ふふ、もう次はないぞ」
しかしそれは中岡の読み間違いだった。雄三郎はこの痛みで剣士として覚醒したのである。
ー感覚を研ぎ澄ませ。見えるものではなく、相手の息づかい、刃のしなる音すべてに集中するのだ。
来る!と感じたその時、刀を下から上に斬り払った。
ドサッという音がして相手は倒れた。
まだ息があった。
「負ける……筈が……」
それきり、喋らなかった。
この事件は丑松と田村に大きな衝撃を与えた。
道場は自主閉門し、お沙汰を待った。
しかし、大名や旗本の子息が大勢入門していることや、同門の雄三郎が始末をつけたことで
表沙汰にはされず厳重注意ということで片がついた。
それから数日たった頃、田村贄蔵が屋敷を訪ねてきた。雄三郎は傷が思ったより深くまだ起き上がれなかったので、兄が代わりに出てくれた。
「秋月には感謝しておる。よく中岡を倒してくれた。おかげで道場はお咎めなしとなり、面目も保てた。
丑松先生も私も道場閉門を考えたが、皆に引き留められ、二度と中岡のような輩を出さぬためにも、もう一度恥を忍んでやり直すことに決めた。
今回の事で秋月は道場を救った英雄だ。だから早く戻ってきてほしい」
と伝言を残し帰って行った。
しかし雄三郎はこの田村の伝言で心を決めた。
ようやく体が回復すると、三直に中岡との経緯を話した。道場の者は中岡は真剣に取り憑かれ、実力を試すためにこのような事件を起こしたと思っている。
「私は両親を幼き時に亡くしましたが、その分
お祖父様、兄上、叔父上から可愛がってもらい、何不自由なく育てていただきました。
この家は私にとって居心地よく、外では剣さえしていれば親しき友も特に欲しいとは思わず、
人との関わりは面倒だと避けてきました。
なのに中岡がどうして私にあれほどの憎しみを持ったのか未だわかりませぬ。
しかし、起きてしまったことを無かった事にはできず、このまま元には戻る気にはなれませぬ。
江戸を出て一人で生きてみたいのですが、お許しいただけますか?」
「その前に確かめたい、あの勝負の時お前はどのような気持ちになったのか?」
目を閉じ何度となく蘇る光景をなぞった。
「驚き、戸惑い、緊張、痛み、そして全ての感情が消え戦いにのみ集中しました。
あれから中岡の顔が浮かぶたび、気鬱になる自分と勝利に酔う自分がいるのです」
「それを聞いて安心した。最後の気持ちを素直に話せるお前ならば大丈夫であろう」
「広い世界を見るのは良いことだ。
そして、この世にいる限り人は一人では生きられぬ、否応でも人と関わるということを思い知らされる。
人は色々な顔を持つ。それは己もだ。
人の心はわからぬが、己は自覚できる。
よいか雄三郎、肝心なのは己の心の調和だ。
相手に応じて顔を変え、一つの心に支配されぬよう調和を保つのだ」
「私はまだ己の顔もよくわかりませぬが、お言葉心に刻みます」
そして、数日後雄三郎は家族に見送られ旅立った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます